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バルディス帝国、公爵城。
またの名を「不夜城」。
その二つ名が単なる比喩ではないことを、私は身をもって知ることになった。
「……ねえ、今は夜中の二時よ?」
私は執務室の窓から、眼下の中庭を見下ろして呟いた。
月明かりしかないはずの中庭で、なぜか松明を持った騎士たちが走り回って訓練をしている。
回廊では、書類の束を抱えた文官たちが競歩選手のような速度で行き交っている。
眠らない城。
いや、眠らせてもらえない城。
「公爵閣下! 北部の治水工事の予算案、再計算終わりました!」
「よし、次は南部の貿易協定の草案だ。朝までに仕上げろ」
「閣下! 隣国からのスパイとおぼしき商人を拘束しました!」
「吐かせろ。手段は選ぶな。三十分で報告しろ」
私の目の前では、この城の主(ブラック企業の社長)であるルーカス・ヴァン・ハールが、千手観音のように仕事を捌いていた。
彼は先ほどから一歩も動いていない。
ただ座っているだけで、次々と部下が寄ってきては指示を仰ぎ、弾丸のように去っていく。
その光景は、まさに戦場だった。
飛び交う怒号。
インクとカフェインの匂い。
そして、部下たちの目の下に刻まれた、深淵のようなクマ。
(……帰りたい。切実に)
私は部屋の隅に置かれたソファで、膝を抱えていた。
先ほど「兵站管理の不正」を見抜いたせいで、私は「賓客」という名の実質的な「顧問」として軟禁されている。
「ダリア。暇ならこれを読め」
ルーカスが顔も上げずに、分厚い本を投げてきた。
『帝国法典・全三十巻』の第一巻だ。
「枕にしては硬そうですけど」
「暗記しろ。君なら一度読めば覚えるだろう。今後の業務に必要だ」
「業務……?」
私は震えた。
この男、本気で私をここの従業員にするつもりだ。
しかも、このブラックな環境に染め上げようとしている。
見てみなさい、あの文官たちの顔を。
死んだ魚のような目をしながら、口元だけ笑っている。
あれは限界を超えた社畜の表情だ。
「仕事が楽しい」と自己洗脳しなければ精神が崩壊する段階にある。
私はあんな風になりたくない。
私の夢は、陽だまりの縁側で猫と一緒に欠伸をすることなのだ。
(逃げよう)
私は決意した。
幸い、ルーカスは今、五人の部下に囲まれて対応に追われている。
私の方を見ている余裕はないはずだ。
「……トイレに行ってきます」
私は小さく手を挙げた。
「部屋に付いているだろう」
「詰まりました」
「……チッ。廊下の突き当たりを使え。護衛をつける」
「結構です! 乙女の恥じらいを見せつけたくないので!」
私は素早く立ち上がり、執務室の扉を開けた。
背後から「五分で戻れ」という無慈悲な声が聞こえたが、戻るもんですか。
廊下に出ると、そこは冷たい石造りの空間だった。
衛兵たちが一定間隔で立っている。
正面突破は不可能だ。
しかし、私は諦めない。
これは「脱獄」ではない。「定時退社」のための聖なる戦いだ。
私は思考を巡らせた。
いかにして、カロリーを消費せず、誰にも見つからず、最短ルートで城の外へ出るか。
(正面玄関は警備が厳重すぎる。裏門も同様。となると……)
私は廊下の窓から外壁を見下ろした。
断崖絶壁の上に建つこの城は、守りは堅牢だが、それは「外敵」に対しての話だ。
内部の人間が外に出ることは、そこまで想定されていないはず。
ふと、私の目に「あるもの」が止まった。
城の裏手、厨房の近くにあるダストシュートのような巨大な滑り台。
あれは恐らく、ゴミや灰を城壁の外へ廃棄するためのシューターだ。
(あれだ……!)
私は直感した。
あそこなら、歩かずに滑り落ちるだけで外に出られる。
しかも、ゴミ捨て場周辺は人が寄り付かないから警備も手薄なはず。
何より「滑り台」というのがいい。
重力に身を任せるだけで移動できるなんて、最高にエコだ。
私はドレスの裾を摘み、忍び足で移動を開始した。
文官たちが忙しなく走る廊下を、壁の花のように気配を消して進む。
これは私の得意技だ。
夜会で壁と同化してサボり続けた経験が、こんなところで役に立つとは。
厨房エリアに到達する。
予想通り、料理人たちは夜食作りに追われて殺気立っており、私のことなど誰も見ていない。
私は勝手口をすり抜け、裏庭へと出た。
冷たい夜風が頬を叩く。
目の前には、目当てのシューターがあった。
石造りの滑り台が、城壁の外へと伸びている。
(よし、これで自由だ……!)
私はシューターの入り口に足をかけた。
少し汚れるかもしれないが、ブラック職場での過労死に比べれば安い代償だ。
さあ、行こう。
夢のスローライフへ――。
「そこで何をしている」
心臓が止まるかと思った。
背後から響いたのは、絶対零度の声音。
恐る恐る振り返ると、そこには月光を背負ったルーカスが立っていた。
銀髪が夜風に揺れ、赤い瞳が私を射抜いている。
執務室にいたはずの彼が、なぜここに。
「……えっと、ゴミ拾い?」
「我が城に、公爵令嬢に掃除をさせるような無礼な者はいない」
ルーカスが一歩近づく。
私は一歩下がる。
背後は断崖絶壁だ。
「なぜ執務室を抜け出した」
「トイレが、その、探しても見つからなくて。迷子になってしまって」
「嘘をつけ。君は一直線にここまで来た。迷った形跡など微塵もなかったぞ」
バレている。
やはりこの男、侮れない。
「それに……」
ルーカスは私の背後にあるシューターと、その先にある城壁の構造、そして周囲の警備配置を交互に見た。
数秒の沈黙。
彼の表情が、次第に驚愕へと変わっていく。
「……まさか」
「はい?」
「君は、見抜いたのか?」
ルーカスが震える声で言った。
「このシューターの設置場所。ここが、城の防衛網における唯一にして最大の『死角』であることを」
「はあ?」
何を言っているのだろう。
ここは単なるゴミ捨て場だ。
臭いから人がいないだけだ。
「我が城の警備は完璧だと思っていた。だが、この廃棄口……ここだけは、監視魔法の結界が薄くなっている。ゴミに含まれる魔力残滓がノイズになるからだ」
ルーカスはブツブツと独り言を言い始めた。
「さらに、このルートは城壁の影になり、塔の監視兵からも視認できない。つまり、もし敵の密偵がこのルートを知っていたら、容易に侵入を許していたことになる……!」
彼はバッと顔を上げ、私を熱っぽい瞳で見つめた。
「ダリア! 君は脱走しようとしたのではないな!? 俺に、この城の『弱点』を教えようとしたのか!」
「えっ」
「口で言っても俺が納得しないと思い、自ら囮となってこのルートの危険性を証明しようとした……そういうことだろう!?」
違います。
私はただ、滑り台で楽をしたかっただけです。
監視魔法とか結界とか、そんなファンタジーな設定は今初めて知りました。
「い、いえ、私はただ……」
「なんという献身。なんという慧眼!」
ルーカスが私の手を取り、強く握りしめる。
その力強さに、骨が軋む。
「君の言う通りだ。ここは盲点だった。早急に改修工事を行い、警備を強化させる必要がある。君のおかげで、我が城の鉄壁はより完全なものになる!」
「あの、痛い……手が……」
「すまない。感動してしまった」
ルーカスは興奮冷めやらぬ様子で、私を抱き寄せた。
硬い胸板に顔が押し付けられる。
いい匂いがするが、今はそれどころではない。
脱走計画が失敗しただけでなく、なぜか評価が爆上がりしている。
「君は俺の守護女神だ。これほどの才能、やはり片時も離すわけにはいかない」
「いや、離してください。物理的に苦しいです」
「分かった。では、部屋に戻ろう。君への『報酬』を用意せねばな」
「報酬!?」
私の目が輝いた。
報酬といえば、これまでの流れからして……もしかして「解放」?
あるいは「休暇」?
「期待していてくれ。君のその知略に見合った、特別なポストを用意する」
ルーカスは不敵に笑い、私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「ちょっ、歩けます! 自分で歩きます!」
「無駄な体力を使うな。君の脳は国の宝だ。足腰を使うのは俺たち肉体労働者の役目でいい」
「扱いが重い! もっと雑でいいので帰してください!」
私の抗議も虚しく、ルーカスはスタスタと城内へ戻っていく。
すれ違う兵士たちが、お姫様抱っこされる私を見て「あれが噂の軍師様か……」「閣下がデレていらっしゃる……」とヒソヒソ話しているのが聞こえる。
誤解だ。
これは軍師の待遇ではない。
捕獲された宇宙人の運搬だ。
執務室に戻されると、ルーカスは即座に建築士を呼び出し、裏庭の改修を命じた。
これで、あの滑り台ルートは完全に塞がれたことになる。
私の逃走経路が、私の手柄によって消滅した。
なんという皮肉。
なんという自爆。
「さて、ダリア」
ルーカスが満足げに振り返った。
「君の功績に対し、約束通り報酬を与えよう」
「……お布団ですか?」
「これだ」
彼が差し出したのは、一枚の任命書だった。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『宰相補佐官 特別顧問(全権委任)』
「……なんですか、これ」
「君の役職だ。俺の不在時、すべての決裁権を君に委ねる」
「重い! 責任が重すぎます!」
「大丈夫だ。君なら呼吸をするように最適解を出せる。俺が見込んだ女だ、自信を持て」
「自信じゃなくて睡眠を持ちたいんです!」
「もちろん、執務室の隣に君専用の仮眠室を作らせた。最高級のベッドだ」
「!!」
飴と鞭の使い方が上手すぎる。
「最高級のベッド」という単語に、私の心がグラリと揺れた。
「ここで仕事をすれば、あのベッドで寝放題だ。食事も三食、専属シェフが作る。どうだ?」
「……残業は?」
「君の処理速度なら、定時で終わるだろう」
「休日は?」
「週休一日。……いや、二日にしよう」
悪くない。
ブラック企業だと思っていたが、交渉次第ではホワイトに近づけるかもしれない。
何より、今ここで「NO」と言えば、また別の「弱点探し」をさせられそうな気がする。
「……分かりました。やります。その代わり、定時になったらペン一本持ちませんからね!」
「交渉成立だ」
ルーカスがニヤリと笑う。
まるで、罠にかかった獲物を見るような目だった。
こうして私は、逃走失敗の代償として、帝国最強の権力者・氷の公爵の「相棒」として正式採用されてしまったのだった。
私が書類にハンコを押した瞬間、城中の文官たちが「救世主が現れた!」と拝み始めたのは、また別の話である。
またの名を「不夜城」。
その二つ名が単なる比喩ではないことを、私は身をもって知ることになった。
「……ねえ、今は夜中の二時よ?」
私は執務室の窓から、眼下の中庭を見下ろして呟いた。
月明かりしかないはずの中庭で、なぜか松明を持った騎士たちが走り回って訓練をしている。
回廊では、書類の束を抱えた文官たちが競歩選手のような速度で行き交っている。
眠らない城。
いや、眠らせてもらえない城。
「公爵閣下! 北部の治水工事の予算案、再計算終わりました!」
「よし、次は南部の貿易協定の草案だ。朝までに仕上げろ」
「閣下! 隣国からのスパイとおぼしき商人を拘束しました!」
「吐かせろ。手段は選ぶな。三十分で報告しろ」
私の目の前では、この城の主(ブラック企業の社長)であるルーカス・ヴァン・ハールが、千手観音のように仕事を捌いていた。
彼は先ほどから一歩も動いていない。
ただ座っているだけで、次々と部下が寄ってきては指示を仰ぎ、弾丸のように去っていく。
その光景は、まさに戦場だった。
飛び交う怒号。
インクとカフェインの匂い。
そして、部下たちの目の下に刻まれた、深淵のようなクマ。
(……帰りたい。切実に)
私は部屋の隅に置かれたソファで、膝を抱えていた。
先ほど「兵站管理の不正」を見抜いたせいで、私は「賓客」という名の実質的な「顧問」として軟禁されている。
「ダリア。暇ならこれを読め」
ルーカスが顔も上げずに、分厚い本を投げてきた。
『帝国法典・全三十巻』の第一巻だ。
「枕にしては硬そうですけど」
「暗記しろ。君なら一度読めば覚えるだろう。今後の業務に必要だ」
「業務……?」
私は震えた。
この男、本気で私をここの従業員にするつもりだ。
しかも、このブラックな環境に染め上げようとしている。
見てみなさい、あの文官たちの顔を。
死んだ魚のような目をしながら、口元だけ笑っている。
あれは限界を超えた社畜の表情だ。
「仕事が楽しい」と自己洗脳しなければ精神が崩壊する段階にある。
私はあんな風になりたくない。
私の夢は、陽だまりの縁側で猫と一緒に欠伸をすることなのだ。
(逃げよう)
私は決意した。
幸い、ルーカスは今、五人の部下に囲まれて対応に追われている。
私の方を見ている余裕はないはずだ。
「……トイレに行ってきます」
私は小さく手を挙げた。
「部屋に付いているだろう」
「詰まりました」
「……チッ。廊下の突き当たりを使え。護衛をつける」
「結構です! 乙女の恥じらいを見せつけたくないので!」
私は素早く立ち上がり、執務室の扉を開けた。
背後から「五分で戻れ」という無慈悲な声が聞こえたが、戻るもんですか。
廊下に出ると、そこは冷たい石造りの空間だった。
衛兵たちが一定間隔で立っている。
正面突破は不可能だ。
しかし、私は諦めない。
これは「脱獄」ではない。「定時退社」のための聖なる戦いだ。
私は思考を巡らせた。
いかにして、カロリーを消費せず、誰にも見つからず、最短ルートで城の外へ出るか。
(正面玄関は警備が厳重すぎる。裏門も同様。となると……)
私は廊下の窓から外壁を見下ろした。
断崖絶壁の上に建つこの城は、守りは堅牢だが、それは「外敵」に対しての話だ。
内部の人間が外に出ることは、そこまで想定されていないはず。
ふと、私の目に「あるもの」が止まった。
城の裏手、厨房の近くにあるダストシュートのような巨大な滑り台。
あれは恐らく、ゴミや灰を城壁の外へ廃棄するためのシューターだ。
(あれだ……!)
私は直感した。
あそこなら、歩かずに滑り落ちるだけで外に出られる。
しかも、ゴミ捨て場周辺は人が寄り付かないから警備も手薄なはず。
何より「滑り台」というのがいい。
重力に身を任せるだけで移動できるなんて、最高にエコだ。
私はドレスの裾を摘み、忍び足で移動を開始した。
文官たちが忙しなく走る廊下を、壁の花のように気配を消して進む。
これは私の得意技だ。
夜会で壁と同化してサボり続けた経験が、こんなところで役に立つとは。
厨房エリアに到達する。
予想通り、料理人たちは夜食作りに追われて殺気立っており、私のことなど誰も見ていない。
私は勝手口をすり抜け、裏庭へと出た。
冷たい夜風が頬を叩く。
目の前には、目当てのシューターがあった。
石造りの滑り台が、城壁の外へと伸びている。
(よし、これで自由だ……!)
私はシューターの入り口に足をかけた。
少し汚れるかもしれないが、ブラック職場での過労死に比べれば安い代償だ。
さあ、行こう。
夢のスローライフへ――。
「そこで何をしている」
心臓が止まるかと思った。
背後から響いたのは、絶対零度の声音。
恐る恐る振り返ると、そこには月光を背負ったルーカスが立っていた。
銀髪が夜風に揺れ、赤い瞳が私を射抜いている。
執務室にいたはずの彼が、なぜここに。
「……えっと、ゴミ拾い?」
「我が城に、公爵令嬢に掃除をさせるような無礼な者はいない」
ルーカスが一歩近づく。
私は一歩下がる。
背後は断崖絶壁だ。
「なぜ執務室を抜け出した」
「トイレが、その、探しても見つからなくて。迷子になってしまって」
「嘘をつけ。君は一直線にここまで来た。迷った形跡など微塵もなかったぞ」
バレている。
やはりこの男、侮れない。
「それに……」
ルーカスは私の背後にあるシューターと、その先にある城壁の構造、そして周囲の警備配置を交互に見た。
数秒の沈黙。
彼の表情が、次第に驚愕へと変わっていく。
「……まさか」
「はい?」
「君は、見抜いたのか?」
ルーカスが震える声で言った。
「このシューターの設置場所。ここが、城の防衛網における唯一にして最大の『死角』であることを」
「はあ?」
何を言っているのだろう。
ここは単なるゴミ捨て場だ。
臭いから人がいないだけだ。
「我が城の警備は完璧だと思っていた。だが、この廃棄口……ここだけは、監視魔法の結界が薄くなっている。ゴミに含まれる魔力残滓がノイズになるからだ」
ルーカスはブツブツと独り言を言い始めた。
「さらに、このルートは城壁の影になり、塔の監視兵からも視認できない。つまり、もし敵の密偵がこのルートを知っていたら、容易に侵入を許していたことになる……!」
彼はバッと顔を上げ、私を熱っぽい瞳で見つめた。
「ダリア! 君は脱走しようとしたのではないな!? 俺に、この城の『弱点』を教えようとしたのか!」
「えっ」
「口で言っても俺が納得しないと思い、自ら囮となってこのルートの危険性を証明しようとした……そういうことだろう!?」
違います。
私はただ、滑り台で楽をしたかっただけです。
監視魔法とか結界とか、そんなファンタジーな設定は今初めて知りました。
「い、いえ、私はただ……」
「なんという献身。なんという慧眼!」
ルーカスが私の手を取り、強く握りしめる。
その力強さに、骨が軋む。
「君の言う通りだ。ここは盲点だった。早急に改修工事を行い、警備を強化させる必要がある。君のおかげで、我が城の鉄壁はより完全なものになる!」
「あの、痛い……手が……」
「すまない。感動してしまった」
ルーカスは興奮冷めやらぬ様子で、私を抱き寄せた。
硬い胸板に顔が押し付けられる。
いい匂いがするが、今はそれどころではない。
脱走計画が失敗しただけでなく、なぜか評価が爆上がりしている。
「君は俺の守護女神だ。これほどの才能、やはり片時も離すわけにはいかない」
「いや、離してください。物理的に苦しいです」
「分かった。では、部屋に戻ろう。君への『報酬』を用意せねばな」
「報酬!?」
私の目が輝いた。
報酬といえば、これまでの流れからして……もしかして「解放」?
あるいは「休暇」?
「期待していてくれ。君のその知略に見合った、特別なポストを用意する」
ルーカスは不敵に笑い、私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「ちょっ、歩けます! 自分で歩きます!」
「無駄な体力を使うな。君の脳は国の宝だ。足腰を使うのは俺たち肉体労働者の役目でいい」
「扱いが重い! もっと雑でいいので帰してください!」
私の抗議も虚しく、ルーカスはスタスタと城内へ戻っていく。
すれ違う兵士たちが、お姫様抱っこされる私を見て「あれが噂の軍師様か……」「閣下がデレていらっしゃる……」とヒソヒソ話しているのが聞こえる。
誤解だ。
これは軍師の待遇ではない。
捕獲された宇宙人の運搬だ。
執務室に戻されると、ルーカスは即座に建築士を呼び出し、裏庭の改修を命じた。
これで、あの滑り台ルートは完全に塞がれたことになる。
私の逃走経路が、私の手柄によって消滅した。
なんという皮肉。
なんという自爆。
「さて、ダリア」
ルーカスが満足げに振り返った。
「君の功績に対し、約束通り報酬を与えよう」
「……お布団ですか?」
「これだ」
彼が差し出したのは、一枚の任命書だった。
そこには、達筆な文字でこう書かれていた。
『宰相補佐官 特別顧問(全権委任)』
「……なんですか、これ」
「君の役職だ。俺の不在時、すべての決裁権を君に委ねる」
「重い! 責任が重すぎます!」
「大丈夫だ。君なら呼吸をするように最適解を出せる。俺が見込んだ女だ、自信を持て」
「自信じゃなくて睡眠を持ちたいんです!」
「もちろん、執務室の隣に君専用の仮眠室を作らせた。最高級のベッドだ」
「!!」
飴と鞭の使い方が上手すぎる。
「最高級のベッド」という単語に、私の心がグラリと揺れた。
「ここで仕事をすれば、あのベッドで寝放題だ。食事も三食、専属シェフが作る。どうだ?」
「……残業は?」
「君の処理速度なら、定時で終わるだろう」
「休日は?」
「週休一日。……いや、二日にしよう」
悪くない。
ブラック企業だと思っていたが、交渉次第ではホワイトに近づけるかもしれない。
何より、今ここで「NO」と言えば、また別の「弱点探し」をさせられそうな気がする。
「……分かりました。やります。その代わり、定時になったらペン一本持ちませんからね!」
「交渉成立だ」
ルーカスがニヤリと笑う。
まるで、罠にかかった獲物を見るような目だった。
こうして私は、逃走失敗の代償として、帝国最強の権力者・氷の公爵の「相棒」として正式採用されてしまったのだった。
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