悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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「……これ、全部ですか?」

私は目の前にそびえ立つ「山」を見上げて、呆然と呟いた。
そこは、執務室ではない。
城の地下にある、巨大な資料保管庫だ。
薄暗い部屋の中央にある長机には、天井に届きそうなくらい高く積み上げられた書類の塔が、三つほど並んでいる。

「そうだ。これが今日の君のノルマだ」

ルーカスが涼しい顔で言った。

「内容は、過去五年にわたる地方領主からの陳情書と、予算申請書の未決裁分だ。前任の担当者が過労で倒れて以来、手つかずになっていた『開かずの間』の案件だな」

「あの、私、今日から勤務初日ですよね? いきなりラスボス戦ですか?」

「君ならできる。昨日の処理能力を見れば、これくらい朝飯前だろう」

ルーカスは私の肩をポンと叩いた。
その手つきは、新入社員に無理難題を押し付けるブラック上司そのものだ。

「期限は今日中だ。これを片付けない限り、夕食も風呂もなしだと思え」

「なっ……!?」

私は絶句した。
夕食抜き?
風呂なし?
それはつまり、私の「優雅なニートライフ(仮)」における二大楽しみを奪うということだ。
そんなの、人権侵害だ。

「ちなみに、普通にやれば五人の文官がかりで一ヶ月はかかる量だ。だが、君という『天才』になら、一日あれば十分だろう?」

ルーカスは試すような笑みを浮かべて、執務室へと戻っていった。
バタン、と重たい扉が閉まる。
残されたのは、私と、数人の監視役の文官たち。
そして、絶望的な量の紙くず……じゃなくて、書類の山。

「……はぁ」

私は深いため息をついた。
一ヶ月分の仕事を一日でやれ?
冗談じゃない。
真面目に読んでいたら、日が暮れるどころか季節が変わってしまう。

(サボろう)

私は即決した。
どうせ「未決裁」で放置されていた書類だ。
今さら承認されようが却下されようが、誰も気にしないに違いない。

「あの、ダリア様……? どこから手を付けますか?」

おずおずと声をかけてきたのは、丸眼鏡をかけた若い文官だった。
彼の目には「この令嬢に何ができるんだ」という懐疑的な色が浮かんでいる。

「そうね……とりあえず、椅子を持ってきて。一番ふかふかのやつを」

「は、はい」

用意された椅子に、私はドカッと座った。
そして、目の前の書類の塔を睨みつける。

これを「読む」から時間がかかるのだ。
「読まず」に処理すればいい。

「ねえ、あなた。ここに『承認』の箱と『却下』の箱を用意して」

「はあ……わかりました」

二つの大きな木箱が足元に置かれる。
私は袖をまくり上げた。

「今から仕分けを行います。私が右と言ったら承認、左と言ったら却下。理由はいちいち言いませんから、ついてきてくださいね」

「えっ、中身を確認しないのですか!?」

「私の『目』を信じなさい」

私はもっともらしいことを言って、書類の束を手に取った。

さて、どうするか。
私の判断基準はシンプルだ。
「封筒の手触り」と「重さ」。これだけだ。

まず一通目。
分厚い羊皮紙に、金箔の縁取りがされた豪華な封筒だ。

(……重い。紙が硬くて手が切れそう。開けるのが面倒くさい)

「却下」

私は左の箱へ放り投げた。

「ええっ!? まだ封も開けていませんよ!?」

「次」

二通目。
再生紙のような薄い紙で、インクの匂いが少し酸っぱい。

(……軽い。これなら燃えるゴミに出す時も楽そう)

「承認」

右の箱へポイッ。

「ちょ、ちょっと待ってくださいダリア様! いくらなんでも適当すぎます!」

文官たちが慌てふためくが、私は止まらない。
私は今、ゾーンに入っている。
「いかに早くこの山を消滅させるか」という一点に集中した、究極の省エネモードだ。

三通目、香水の匂いがキツイ。臭い。却下。
四通目、封蝋が可愛い猫の形。癒やされる。承認。
五通目、なんかジメッとしている。気持ち悪い。却下。

「却下、却下、承認、却下、承認、承認……」

私の手は残像が見えるほどのスピードで動いていた。
まるでトランプを配るディーラーのように、次々と書類を左右へ振り分けていく。
中身?
一行も読んでいない。

「だ、ダリア様! お待ちください! これでは国政が滅茶苦茶に……!」

「うるさいですね。私の直感は、論理を超越しているんです」

(単に面倒なだけです)

開始から一時間。
本来なら一ヶ月かかるはずの作業が、驚異的なペースで消化されていく。
山がみるみる小さくなり、箱が溢れそうになる。

「……ふぅ、終わり!」

私は最後の封筒(カビ臭かったので却下)を放り投げ、大きく伸びをした。

「作業完了です。お疲れ様でした」

「お、お疲れ様でした……ではなく!」

丸眼鏡の文官が、顔を青くして食ってかかった。

「なんてことをしてくれたんですか! これらは重要な陳情書なんですよ!? 中身も見ずに捨てるなんて、職務怠慢にも程があります!」

「結果が全てです。文句があるなら、中身を確認してから言ってください」

「言われなくても確認しますよ! これじゃあ公爵閣下に報告できない……!」

彼は怒りに震えながら、『却下』の箱から一通を取り出した。
それは、私が最初に捨てた「豪華な金箔封筒」だった。

「これは……南部の大地主、ゴルド男爵からの陳情書ですね。彼は有力者だ、これを無下に却下したら……」

彼はペーパーナイフで封を切り、中身を取り出した。
そして、数行読んだところで動きを止めた。

「……え?」

「どうしました? 『金が欲しい』とか書いてありました?」

「い、いえ……これは……」

彼は震える手で次のページをめくり、さらに別紙の資料を確認し始めた。
その顔色が、青から白、そして赤へと変わっていく。

「ば、馬鹿な……」

「?」

「これ、陳情書に見せかけた『賄賂のリスト』だ……!」

「はい?」

「表向きは道路整備の予算申請ですが、裏のページに、担当官へのリベート率と、裏金作りのスキームがびっしりと……! これ、承認していたら大変なことになっていましたよ!?」

「……へえ」

(なんだそれ、知らなかった)

偶然だ。
単に「紙が硬くてムカつく」という理由で捨てただけなのだが。

「じゃあ、こっちはどうだ!?」

別の文官が、私が「臭いから」という理由で捨てた封筒を開ける。

「こ、これは……隣国のハニートラップ工作員からの手紙だ! 『私的なお茶会』への招待状に見せかけて、暗号で軍事機密の提供を持ちかけている!」

「えっ、怖っ」

「すごい……封を開けずに、微量な『毒』の気配を察知したというのか……!?」

(いや、香水が臭かっただけなんだけど)

ざわめきが広がる。
文官たちが次々と『却下』ボックスの中身を検め始めた。

「こっちは架空請求だ!」
「こっちは自分勝手な法改正の要望書!」
「こっちはただのポエムだ!」

なんと奇跡的なことに、私が「なんとなく嫌」で弾いた書類の九割九分が、ろくでもない内容のものだったのだ。
まあ考えてみれば、無駄に豪華な封筒を使う奴は浪費家だし、香水をふりまく奴は色仕掛けを企んでいる可能性が高い。
私の「生理的嫌悪感」は、意外と的を射ていたのかもしれない。

「じ、じゃあ、『承認』の方は……?」

恐る恐る、丸眼鏡くんが右の箱を開ける。
そこには、私が「再生紙で軽かったから」選んだ書類が入っている。

「……これは、辺境の村からの食料支援要請だ。字は汚いが、切実さが伝わってくる。データも正確だ」
「こっちは、若手技術者による新型農具の開発提案書。予算は少ないが、実現すれば画期的だぞ!」
「こっちは、孤児院の修繕依頼……。必要最低限の資材しか求めていない、なんて謙虚な……」

彼らは顔を見合わせた。
そこにあるのは、派手さはないが、国にとって本当に必要な「真実の声」ばかりだった。

「信じられない……」

丸眼鏡くんが、膝から崩れ落ちるようにして私を見上げた。

「ダリア様は、見ていたんですね。封筒の材質、インクの匂い、筆跡の微細なブレ……それらから、差出人の『本質』を瞬時に見抜いていたんですね!?」

「え、まあ……そんなところです」

(紙が軽かっただけです)

「我々はなんて節穴だったんだ……! 外見の豪華さに惑わされ、中身を見ようともしなかった! しかしダリア様は、その『虚飾』を全て剥ぎ取り、真に必要なものだけを救い上げた!」

「おお……!」

地下保管庫に、拍手が巻き起こった。
最初はパラパラと、やがて万雷の拍手となって私を包み込む。

「すごいですダリア様!」
「これぞ神速の選別!」
「未来の公爵夫人に万歳!」

(やめて。褒めないで。仕事が増える)

私は居心地の悪さに身を縮めた。
そこに、騒ぎを聞きつけたルーカスが現れた。

「何事だ。騒々しい」

「か、閣下! ご覧ください! ダリア様が、あの一ヶ月分の山を、わずか一時間で完璧に処理されました!」

「何?」

ルーカスが目を見開き、空になった机と、仕分けられた箱を見る。
文官たちが興奮気味に、私が「いかにして不正を見抜き、善意を救い上げたか」を(勝手な解釈で)報告する。

ルーカスは『承認』の箱から一通を手に取り、中身を確認した。
そして次に『却下』の箱を見て、納得したように頷いた。

「……なるほど」

彼は私の方へと歩み寄ってくる。
その瞳は、かつてないほど熱を帯びていた。

「ダリア。君は言っていたな。『直感は論理を超越する』と」

「言いましたっけ?」

「膨大な経験則と、研ぎ澄まされた観察眼が脳内で高速演算され、それが『直感』という形で出力される。……恐ろしい女だ」

ルーカスが私の手を取り、うっとりと囁く。

「君の手は、国を蝕む病巣を摘出する『ゴッドハンド』だ」

「ただの手です。しかも今、紙で指を切って痛いんですけど」

「処置班を呼べ! 国宝級の指に傷がついたぞ!」

大袈裟な指示が飛び交い、私は包帯でぐるぐる巻きにされた。
おかしい。
私はただ、適当にゴミを捨てただけなのに。

「約束通り、今日のノルマは達成だ。夕食は最高級のフルコースを用意させよう」

「本当ですか!?」

「ああ。そして明日からは、帝国全土から集まる陳情書の『一次審査』を君に任せる。君が触るだけで、その書類が白か黒か判別できるのだからな」

「……はい?」

「人間嘘発見器としての活躍、期待しているぞ」

私は絶望した。
「今日だけ」のつもりだったのに。
私の手抜きが、逆に「私にしかできない専門職」を生み出してしまったのだ。

「あの、私、明日は有給を……」

「却下だ。君風に言うなら『左の箱』行きだな」

ルーカスは意地悪く笑った。

私は心の中で叫んだ。
私の定時退社ああああああああああ!

こうして私は、本人の意思とは無関係に「神の目を持つ鑑定士」という新たな二つ名を手に入れてしまったのだった。
夕食のステーキは美味しかったけれど、その味はちょっぴり涙の味がした。
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