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朝、目が覚めた瞬間、私は現実逃避を決意した。
(ダメだ。このままでは、私は「公爵夫人」という名の永久残業契約を結ばされてしまう)
昨夜のルーカスの告白は、あまりにも唐突で、あまりにも重かった。
「愛している」という言葉は、彼にとって「君の能力を我が帝国の管理下に置く」という意味にしか聞こえない。
彼の愛は、効率と合理性で構成された、分厚い鎖だ。
私は、愛などではなく、ただの『安息』が欲しいのだ。
私は静かにベッドから抜け出した。
隣室では、ルーカスが既に執務を開始している気配がする。
深夜二時まで働いていたのに、なぜ朝五時にはもう起きているのか。
この男、本当に人間なのだろうか。
「……戦略的撤退あるのみ」
完全な逃亡は、この城の警備を考えると不可能に近い。
それに、着替えや化粧に時間をかけるのも嫌だ。
だから、私は「短期避難」を試みることにした。
目標:城の中で最も静かで、最も日の当たらない場所。
そして、ルーカスから最も遠い場所。
私は最小限の物資を布のバッグに詰め込んだ。
中身は以下の三点だ。
一、**『モフモフの羊型枕』**:これがないと首の角度が安定しない。
二、**『塩バタービスケット』**:脳の糖分が切れた時の緊急燃料。
三、**『眠れない時のための簡単な詩集』**:難解な本は読むと疲れる。
この三種の神器があれば、少なくとも一日の潜伏は可能だ。
私は身支度を整え、そっと自室を出た。
廊下には、警備の騎士が立っている。
彼らに見つからないように、私は壁にへばりついて進む。
これもまた、夜会で培った「壁のシミ」になるスキルだ。
(行き先は……城の北塔にある、古文書館の隅の部屋。あそこは黴臭いから誰も近づかないはず)
私が目的地を古文書館に設定したのには理由がある。
誰も来ないということは、つまり「仕事がない」ということだからだ。
静寂こそが、私の求める最大の報酬なのだ。
私は、無駄な動きを排除したゴースト・ウォークで、城の構造の死角を縫いながら進んだ。
最短ルートは、昨日ルーカスが指摘した「ゴミ捨て場ルート」だが、今は塞がれている。
代わりに、私は「裏の洗濯物搬送路」を使った。
ここなら匂いがきつくて人がいないし、急な坂道で体力の消耗も少ない。
順調に進み、ついに北塔の階段に到達した。
あと一息で、自由な空間が手に入る。
「……ふぅ」
私は階段を上ろうと、小さな声で安堵の息を吐いた。
「なぜため息をつく。成功が確定した時にこそ、冷静になれ」
頭上から、静かで冷たい声が降ってきた。
ビクッ、と体が震える。
見上げると、階段の上には、腕を組みながらこちらを見下ろすルーカスの姿があった。
「公、公爵様!?」
「おはよう、ダリア。こんな朝早くから、どこへ向かう?」
「え、ええと……気分転換の散歩です。体力の合理的な配分のためにも、散歩は重要かと」
私は嘘を吐いた。
散歩?
パジャマ姿で羊の枕を抱えて、古文書館へ向かう散歩がどこにあるというのか。
ルーカスはゆっくりと階段を降りてきた。
彼の赤い瞳が、私が抱える布バッグに向けられる。
「その荷物。散歩にしては重装備だな」
「い、いえ! これは、その……ウォーキングのお供です。これが無いと、精神的な安定が得られなくて」
「見せてみろ」
彼は有無を言わさぬ口調で、バッグを要求した。
私は観念し、バッグを手渡した。
ルーカスはバッグの中身を一つずつ取り出す。
「これは……『羊型の低反発枕』」
彼は、私がお気に入り過ぎて名前まで付けている枕を、恭しく持ち上げた。
「そして、『高カロリー・低体積ビスケット』。最後に、『脳を刺激しない安息のための詩集』」
ルーカスは三点を見比べ、そして、私に鋭い視線を向けた。
「ダリア。君は、一体何と戦うつもりだ」
「戦う? いえ、誰も戦っていません。ただ、静かな場所で本を読みたいだけです」
「嘘をつくな。これは、『戦略物資の最適化セット』だ」
彼は断言した。
「羊の枕は、外部の騒音を遮断し、脳の休息効率を最大限に高めるための道具。ビスケットは、長期籠城に耐えうる最低限の燃料。そして詩集は、難解な情報戦の前に心を無にするための『思考リセットツール』だ」
ルーカスは感嘆のため息を漏らした。
「君は、城のどこかで、極秘の『情報籠城戦』を始めるつもりだったのだな。城の誰にも邪魔されず、静かな環境で、一気に国家の難題を解決するために」
「違います! 詩集は詩を読むため、ビスケットは食べるため、枕は寝るためです!」
「また謙遜を。古文書館は、確かに人払いするには最適の場所だ。そしてそこに、これらの最低限の物資を持ち込む。……まるで、**『単騎での情報戦に備える英雄』**のようだ」
ルーカスは私の前に跪き、私の手を取った。
「ダリア。君の献身に、心打たれた」
「献身? 何にです?」
「我が国への献身だ。俺が愛を告げたからといって、浮かれることなく、国家の危機(予算案の遅延)を最優先で解決しようとする。これほどの忠誠心を持つ女が、世界にいただろうか」
「私はただ、仕事が終わらないと寝れないから片付けているだけです!」
「その『片付けたい』という情熱が、俺には愛に見える」
話が通じない。
もう、この男の脳内では「ダリア=有能な軍師=愛しい妻」という三段論法が完璧に完成してしまっているのだ。
「しかし、残念だ」
ルーカスが立ち上がり、私を抱き寄せた。
「君を一人で籠城させるわけにはいかない」
「えっ、なぜですか? 静かになれますよ!」
「君を一人で秘密裏に動かせば、外部の敵に『公爵閣下が補佐官を隔離した。何か重大な危機があるに違いない』と誤解され、不要な外交カードを与えることになる」
「それは……確かにそうかも」
彼の理屈は、いつも正しい。
そして、その理屈が、いつも私の自由を奪う。
「だから、籠城するなら二人でだ」
ルーカスは私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「ひゃっ! 自分で歩けます!」
「無駄なエネルギーを使うな。君は、その優秀な脳を休めるべきだ」
彼は私を連れて、古文書館ではない別の場所へ向かった。
向かった先は、彼の執務室の隣にある、私専用の**『防音仮眠室』**だ。
「ここが、君の新たな籠城地点だ」
「……ここは、さっきまでいた場所の隣じゃないですか」
「ああ。最高級の防音処理が施してある。君の羊枕とビスケットをここに置き、静かに詩集を読んだり、眠ったりするがいい」
彼は私をベッドに下ろした。
私はぐったりとベッドに身を沈める。
「ただし、監視はさせてもらう」
ルーカスはそう言って、私専用の仮眠室と、彼の執務室を繋ぐ『内線電話』を私の枕元に置いた。
「何かあれば、すぐに内線で呼べ。俺は、君の効率的な休憩を守るガードマンになる」
「……私のプライベートがゼロなんですけど」
「仕事とプライベートを完全に分離しようとするのは非効率だ。公爵夫人になれば、どちらもシームレスに繋がっている方が合理的だろう?」
彼はそう言って、私の頭をそっと撫でた。
「そして、この部屋は俺の執務室の隣だ。君が恋しくなったら、いつでも俺は君に会いに来られる」
「それは、仕事が恋しくなった、という意味ですか?」
「君が恋しい、という意味だ」
ルーカスは優しい笑みを浮かべた。
その瞳は、純粋な愛と、純粋な仕事の意欲で燃えている。
私は、この男の愛が、仕事と不可分であることを思い知らされた。
「さて、私は執務に戻る。君はビスケットを食べて、詩集を読んで、頭を休めろ。……ただし」
彼はドアを閉める直前に、付け加えた。
「その詩集が、俺宛ての『愛の詩』なら、なお嬉しい」
「そんな詩集はありません!」
「フッ」
彼は満足げに笑い、ドアを閉めた。
私は一人、防音壁に囲まれた仮眠室に残された。
(くそっ……完全に自由を奪われた)
私は羊枕を抱きしめ、ビスケットを頬張る。
しかし、彼の言動が頭から離れない。
彼の愛は確かに重い。
だが、ここまで徹底的に「私の要求」を分析し、環境を整えようとしてくれる人間は、今までいなかった。
「……私の効率化が、彼の愛の燃料になっているのね」
私は思わず、笑ってしまった。
これは、逃げても逃げても、相手の情熱に変換されてしまう、究極のエネルギー循環だ。
私は詩集を開いた。
そして、その詩集の裏に、こっそりと書き始めた。
『ルーカス・ヴァン・ハール公爵に、休暇願いを効率的に提出する方法の考察』。
私の「怠けたい」という情熱も、負けてはいない。
これは、愛と仕事、そして怠惰を巡る、究極の知恵比べになりそうだ。
(ダメだ。このままでは、私は「公爵夫人」という名の永久残業契約を結ばされてしまう)
昨夜のルーカスの告白は、あまりにも唐突で、あまりにも重かった。
「愛している」という言葉は、彼にとって「君の能力を我が帝国の管理下に置く」という意味にしか聞こえない。
彼の愛は、効率と合理性で構成された、分厚い鎖だ。
私は、愛などではなく、ただの『安息』が欲しいのだ。
私は静かにベッドから抜け出した。
隣室では、ルーカスが既に執務を開始している気配がする。
深夜二時まで働いていたのに、なぜ朝五時にはもう起きているのか。
この男、本当に人間なのだろうか。
「……戦略的撤退あるのみ」
完全な逃亡は、この城の警備を考えると不可能に近い。
それに、着替えや化粧に時間をかけるのも嫌だ。
だから、私は「短期避難」を試みることにした。
目標:城の中で最も静かで、最も日の当たらない場所。
そして、ルーカスから最も遠い場所。
私は最小限の物資を布のバッグに詰め込んだ。
中身は以下の三点だ。
一、**『モフモフの羊型枕』**:これがないと首の角度が安定しない。
二、**『塩バタービスケット』**:脳の糖分が切れた時の緊急燃料。
三、**『眠れない時のための簡単な詩集』**:難解な本は読むと疲れる。
この三種の神器があれば、少なくとも一日の潜伏は可能だ。
私は身支度を整え、そっと自室を出た。
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彼らに見つからないように、私は壁にへばりついて進む。
これもまた、夜会で培った「壁のシミ」になるスキルだ。
(行き先は……城の北塔にある、古文書館の隅の部屋。あそこは黴臭いから誰も近づかないはず)
私が目的地を古文書館に設定したのには理由がある。
誰も来ないということは、つまり「仕事がない」ということだからだ。
静寂こそが、私の求める最大の報酬なのだ。
私は、無駄な動きを排除したゴースト・ウォークで、城の構造の死角を縫いながら進んだ。
最短ルートは、昨日ルーカスが指摘した「ゴミ捨て場ルート」だが、今は塞がれている。
代わりに、私は「裏の洗濯物搬送路」を使った。
ここなら匂いがきつくて人がいないし、急な坂道で体力の消耗も少ない。
順調に進み、ついに北塔の階段に到達した。
あと一息で、自由な空間が手に入る。
「……ふぅ」
私は階段を上ろうと、小さな声で安堵の息を吐いた。
「なぜため息をつく。成功が確定した時にこそ、冷静になれ」
頭上から、静かで冷たい声が降ってきた。
ビクッ、と体が震える。
見上げると、階段の上には、腕を組みながらこちらを見下ろすルーカスの姿があった。
「公、公爵様!?」
「おはよう、ダリア。こんな朝早くから、どこへ向かう?」
「え、ええと……気分転換の散歩です。体力の合理的な配分のためにも、散歩は重要かと」
私は嘘を吐いた。
散歩?
パジャマ姿で羊の枕を抱えて、古文書館へ向かう散歩がどこにあるというのか。
ルーカスはゆっくりと階段を降りてきた。
彼の赤い瞳が、私が抱える布バッグに向けられる。
「その荷物。散歩にしては重装備だな」
「い、いえ! これは、その……ウォーキングのお供です。これが無いと、精神的な安定が得られなくて」
「見せてみろ」
彼は有無を言わさぬ口調で、バッグを要求した。
私は観念し、バッグを手渡した。
ルーカスはバッグの中身を一つずつ取り出す。
「これは……『羊型の低反発枕』」
彼は、私がお気に入り過ぎて名前まで付けている枕を、恭しく持ち上げた。
「そして、『高カロリー・低体積ビスケット』。最後に、『脳を刺激しない安息のための詩集』」
ルーカスは三点を見比べ、そして、私に鋭い視線を向けた。
「ダリア。君は、一体何と戦うつもりだ」
「戦う? いえ、誰も戦っていません。ただ、静かな場所で本を読みたいだけです」
「嘘をつくな。これは、『戦略物資の最適化セット』だ」
彼は断言した。
「羊の枕は、外部の騒音を遮断し、脳の休息効率を最大限に高めるための道具。ビスケットは、長期籠城に耐えうる最低限の燃料。そして詩集は、難解な情報戦の前に心を無にするための『思考リセットツール』だ」
ルーカスは感嘆のため息を漏らした。
「君は、城のどこかで、極秘の『情報籠城戦』を始めるつもりだったのだな。城の誰にも邪魔されず、静かな環境で、一気に国家の難題を解決するために」
「違います! 詩集は詩を読むため、ビスケットは食べるため、枕は寝るためです!」
「また謙遜を。古文書館は、確かに人払いするには最適の場所だ。そしてそこに、これらの最低限の物資を持ち込む。……まるで、**『単騎での情報戦に備える英雄』**のようだ」
ルーカスは私の前に跪き、私の手を取った。
「ダリア。君の献身に、心打たれた」
「献身? 何にです?」
「我が国への献身だ。俺が愛を告げたからといって、浮かれることなく、国家の危機(予算案の遅延)を最優先で解決しようとする。これほどの忠誠心を持つ女が、世界にいただろうか」
「私はただ、仕事が終わらないと寝れないから片付けているだけです!」
「その『片付けたい』という情熱が、俺には愛に見える」
話が通じない。
もう、この男の脳内では「ダリア=有能な軍師=愛しい妻」という三段論法が完璧に完成してしまっているのだ。
「しかし、残念だ」
ルーカスが立ち上がり、私を抱き寄せた。
「君を一人で籠城させるわけにはいかない」
「えっ、なぜですか? 静かになれますよ!」
「君を一人で秘密裏に動かせば、外部の敵に『公爵閣下が補佐官を隔離した。何か重大な危機があるに違いない』と誤解され、不要な外交カードを与えることになる」
「それは……確かにそうかも」
彼の理屈は、いつも正しい。
そして、その理屈が、いつも私の自由を奪う。
「だから、籠城するなら二人でだ」
ルーカスは私を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「ひゃっ! 自分で歩けます!」
「無駄なエネルギーを使うな。君は、その優秀な脳を休めるべきだ」
彼は私を連れて、古文書館ではない別の場所へ向かった。
向かった先は、彼の執務室の隣にある、私専用の**『防音仮眠室』**だ。
「ここが、君の新たな籠城地点だ」
「……ここは、さっきまでいた場所の隣じゃないですか」
「ああ。最高級の防音処理が施してある。君の羊枕とビスケットをここに置き、静かに詩集を読んだり、眠ったりするがいい」
彼は私をベッドに下ろした。
私はぐったりとベッドに身を沈める。
「ただし、監視はさせてもらう」
ルーカスはそう言って、私専用の仮眠室と、彼の執務室を繋ぐ『内線電話』を私の枕元に置いた。
「何かあれば、すぐに内線で呼べ。俺は、君の効率的な休憩を守るガードマンになる」
「……私のプライベートがゼロなんですけど」
「仕事とプライベートを完全に分離しようとするのは非効率だ。公爵夫人になれば、どちらもシームレスに繋がっている方が合理的だろう?」
彼はそう言って、私の頭をそっと撫でた。
「そして、この部屋は俺の執務室の隣だ。君が恋しくなったら、いつでも俺は君に会いに来られる」
「それは、仕事が恋しくなった、という意味ですか?」
「君が恋しい、という意味だ」
ルーカスは優しい笑みを浮かべた。
その瞳は、純粋な愛と、純粋な仕事の意欲で燃えている。
私は、この男の愛が、仕事と不可分であることを思い知らされた。
「さて、私は執務に戻る。君はビスケットを食べて、詩集を読んで、頭を休めろ。……ただし」
彼はドアを閉める直前に、付け加えた。
「その詩集が、俺宛ての『愛の詩』なら、なお嬉しい」
「そんな詩集はありません!」
「フッ」
彼は満足げに笑い、ドアを閉めた。
私は一人、防音壁に囲まれた仮眠室に残された。
(くそっ……完全に自由を奪われた)
私は羊枕を抱きしめ、ビスケットを頬張る。
しかし、彼の言動が頭から離れない。
彼の愛は確かに重い。
だが、ここまで徹底的に「私の要求」を分析し、環境を整えようとしてくれる人間は、今までいなかった。
「……私の効率化が、彼の愛の燃料になっているのね」
私は思わず、笑ってしまった。
これは、逃げても逃げても、相手の情熱に変換されてしまう、究極のエネルギー循環だ。
私は詩集を開いた。
そして、その詩集の裏に、こっそりと書き始めた。
『ルーカス・ヴァン・ハール公爵に、休暇願いを効率的に提出する方法の考察』。
私の「怠けたい」という情熱も、負けてはいない。
これは、愛と仕事、そして怠惰を巡る、究極の知恵比べになりそうだ。
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