悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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その日、バルディス帝国の空は分厚い鉛色の雲に覆われていた。
私の心模様をそのまま映し出したような、絶好の「引きこもり日和」だ。

執務室の隣にある私の専用スペース、通称「安眠の聖域」にて。
私は最高級のソファに沈み込みながら、書類の最終チェックを行っていた。

「……よし。これで今週の予算審議は終了」

ペンを置き、私は天井を仰いだ。
時刻は午後二時五十五分。
あと五分で、私の権利として勝ち取った「三時のおやつ休憩」が始まる。

今日のメニューは、城のパティシエが新作として焼いてくれた「特製バタークッキー」だ。
サクサクの食感と、芳醇なバターの香り。
それを想像するだけで、私の口角は自然と緩んでしまう。

「ダリア、仕事は終わったか」

壁一枚隔てた執務室から、ルーカスが顔を覗かせた。
彼の手には、淹れたての紅茶のポットが握られている。
公爵自らお茶汲みをするなど前代未聞だが、彼は「君の休憩時間を一秒たりとも無駄にさせないための合理的配慮だ」と言い張って譲らない。

「はい。完璧です。あとはクッキーを迎え入れるだけです」

「そうか。では準備しよう」

平和だ。
あまりにも平和で、涙が出そうになる。
ブラック職場だと思っていたこの城も、環境さえ整えば天国になり得るのだ。

ズドォォォォン!!

その静寂は、城門の方から響いた爆音によって粉々に粉砕された。

「……地震?」

私がクッキーの皿を守るように抱え込むと、ルーカスが鋭い眼光で窓の外を睨んだ。

「いや、違う。あれは……魔法による衝撃波だ。城門を無理やりこじ開けようとしている馬鹿がいる」

「魔法? 敵襲ですか?」

「ある意味ではな」

ルーカスが不愉快そうに舌打ちをした瞬間、廊下が騒がしくなった。
衛兵たちの怒号と、それをかき消すような甲高い女性の悲鳴、そして芝居がかった男の声。

「退け! 私を誰だと思っている! エルトリア王国第一王子、アレンであるぞ!」

「私はその婚約者、リリィですわ! 道を開けなさい、この野蛮人ども!」

その声を聞いた瞬間、私の手からクッキーが一枚、悲しく床に落ちた。

「……嘘でしょ」

最悪のタイミングだ。
私のおやつタイム。
私の至福の十五分間。
それを邪魔する権利は、神にだってないはずなのに。

「アレン王子……だと?」

ルーカスが私を見た。
その目は「焼き殺していいか?」と問いかけているようだったが、私は首を横に振った。
ここで焼き殺せば、国際問題になり、その処理で私の残業が確定するからだ。

バンッ!!

執務室の重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、旅の汚れで少し薄汚れたマントを羽織り、肩で息をするアレン王子。
そして、その後ろで「きゃー! 怖いー!」と叫びながらも、しっかりと王子にしがみついているリリィだった。

「ダリア!!」

アレン王子が、部屋の奥にいる私を見つけた。
彼は私を見るなり、大げさに目を見開き、悲痛な叫び声を上げた。

「ああ、ダリア……! なんて変わり果てた姿に……!」

「はい?」

私は首を傾げた。
変わり果てた?
確かに今はリラックスモードで靴を脱いでいるし、髪も少し乱れているかもしれないが、そこまで酷いだろうか。

「その青白い肌! 生気のない瞳! まるで地下牢に幽閉されていた亡霊のようだ!」

「それは元からです」

私は即答した。
日焼けしたくないから外出を控えているし、省エネモードだから目は死んでいる。
これは通常運転だ。

「黙れ! 無理をして強がるな!」

王子はズカズカと部屋に入り込んできた。
ルーカスが立ち上がり、彼の前に立ちはだかる。

「……貴様。土足で俺の城に踏み込むとは、いい度胸だ」

ルーカスの体から、目に見えるほどの殺気が立ち上る。
室温が一気に五度は下がった気がする。
普通ならここで腰を抜かすところだが、今日の王子は違った。
彼は「愛の力」という名の勘違いフィルターで武装しているのだ。

「退け、氷の公爵! 貴様の悪行は全てお見通しだ!」

王子はビシッとルーカスを指差した。

「ダリアを『最重要機密』などと偽り、過酷な労働を強いているのだろう! 彼女の手を見ろ! あんなにインクで汚れている!」

私は自分の手を見た。
さっき書類仕事をしていたから、指先に少しインクがついている。

「公爵令嬢の手は、宝石を愛でるためのものだ! ペンだこができるほど酷使するなど、言語道断!」

(いや、ペンだこは学生時代からのものですが)

「ダリア、怖がらなくていい。私が来たからには、もう安心だ。さあ、一緒に帰ろう!」

王子が手を差し伸べてくる。
その顔は、完全に「囚われの姫を救う騎士」になりきっている。
背後のリリィも、「そうですわよ! アレン様の慈悲深さに感謝なさい!」と謎の上から目線で煽ってくる。

私は、落ちたクッキーを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
そして、深いため息をついた。

「……お断りします」

「なっ……!?」

王子の手が空を切る。

「なぜだ! 洗脳されているのか!? それとも、この男に人質でも取られているのか!?」

「いいえ。単純に、帰りたくないからです」

私はソファに座り直した。

「ここでは週休二日制が保証されています。残業代も出ます。おやつ休憩もあります。そして何より、貴方たちの顔を見なくて済むという、最高の福利厚生があるのです」

「ふ、福利厚生……?」

聞き慣れない単語に、王子が戸惑う。

「ダリア、君は騙されているんだ! そんなものは偽りの幸せだ! 君の本当の居場所は、私の隣だ!」

王子は一歩踏み出し、熱っぽく語り始めた。
ここからが、彼の勘違いの真骨頂だった。

「私は考えたのだ。君のその有能さを。そして、君が私を想うあまり、身を引いたという献身を」

(身を引いたのではなく、捨てたのですが)

「だから、私は特例を認めることにした。リリィを正妃として迎えるが、君もまた、私の側室として城に住まわせてやろう!」

「……は?」

部屋の時間が止まった。
私だけでなく、ルーカスも、そしてリリィさえも一瞬固まった。

「側室……ですか?」

「そうだ! 寛大な処置だろう? 正妃のリリィの下で、君は事務官としての能力を活かし、私の補佐をすればいい。愛の形は一つではない。私が二人を平等に愛してやる!」

王子は「どうだ、嬉しいだろう」と言わんばかりのドヤ顔で胸を張った。

私は、頭の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。

側室。
それはつまり、リリィの下で働き、リリィの機嫌を取り、その上で王子の相手もしなければならないという、地獄の多重債務契約だ。
「定時退社」どころか「二十四時間勤務」が確定する、ブラック企業の極み。
しかも「愛してやる」という上から目線のオマケ付き。

(……舐めてる)

私の心の中の、普段は眠っている「悪役令嬢」の部分が、静かに目を覚ました。

「……アレン殿下」

私はゆっくりと立ち上がった。
声のトーンを、極限まで低く落とす。

「一つ、確認させてください。貴方は、私が『喜び勇んでその提案を受ける』と、本気で思っていらっしゃるのですか?」

「もちろんだ。君は私を愛しているのだから」

「……そうですか」

私はルーカスの方を向いた。
彼は腕を組み、黙って私を見守っている。
だが、その目は笑っていた。
「やれ」と、合図を送っている。

私は再び王子に向き直った。

「アレン殿下。貴方のその提案は、私の人生設計において、最も非効率的で、最も不愉快で、そして最も吐き気を催すものです」

「な、なんだと……?」

「側室? 笑わせないでください。リリィ様の下で働く? ドブ掃除の方がマシです。貴方の愛? そんな不確かなもののために、私の貴重な睡眠時間を削るとでも?」

私は一歩ずつ、王子に近づいた。
私の周りに、冷たい空気が渦巻く。
王妃教育で叩き込まれた「威圧」のスキルを、今こそ解放する時だ。

「勘違いなさらないで。私がここにいるのは、洗脳されたからでも、脅されたからでもありません。私が『選んだ』のです。貴方という無能な上司よりも、ルーカス公爵という有能なパートナーを」

「む、無能だと……!?」

「ええ。書類一つまともに読めず、感情論で国を動かし、自分の都合の良い妄想しか信じない。それを無能と言わずして何と言うのです?」

私は王子の鼻先まで顔を近づけ、冷酷に言い放った。

「帰ってください。貴方の顔を見ていると、視神経が疲労します。私の平和な午後を、これ以上汚さないで」

王子は後ずさりした。
私の迫力に気圧されたのか、それとも予想外の拒絶にショックを受けたのか、顔色が真っ青になっている。

「き、貴様……! そこまで言うか! 私の慈悲を踏みにじるのか!」

「慈悲? それはゴミの分別よりも価値のないものですわ」

私が畳み掛けようとした時、背後でリリィが叫んだ。

「アレン様! 騙されてはいけませんわ! これはきっと、あの公爵が黒魔術でダリア様を操っているんです! 今の言葉は、ダリア様の本心ではありません!」

「そ、そうだ! そうに違いない!」

王子が藁にもすがる思いでリリィの言葉に飛びついた。

「ダリアがあんな酷いことを言うはずがない! 全ては貴様の仕業か、ルーカス!」

王子がルーカスを睨みつける。
話が通じないにも程がある。
私の渾身の罵倒も、「黒魔術」の一言で無効化されてしまった。

ルーカスは、呆れたように肩を竦めた。

「やれやれ。現実を受け入れられない男というのは、ここまで滑稽になれるものか」

彼はゆっくりと、腰の剣に手を掛けた。

「ダリアの言葉が聞こえなかったか? 『帰れ』と言ったのだ。これ以上、私の婚約者に不快な思いをさせるなら、外交特権など無視して、この場で斬り捨てるぞ」

チャキッ、と鯉口を切る音。
本物の殺気が、王子とリリィを襲う。

「ひっ……!」

リリィが悲鳴を上げて王子の背中に隠れる。
王子も震えながら、それでも引こうとはしない。

「婚約者だと……? 認めん! 私は認めんぞ! ダリアは私のものだ!」

「ほう。ならば、力ずくで奪ってみるか? ……バルディス帝国の軍事力の全てを相手にして」

ルーカスの合図と共に、執務室の窓の外、中庭に数百の騎士たちが一斉に姿を現した。
弓を構え、槍を突き出し、侵入者を完全包囲している。

「なっ……軍隊!?」

「たかが二人を迎えるのに大袈裟だと思うか? いいや、ダリアの安眠を妨害する罪は、国家反逆罪に等しいからな」

ルーカスが冷酷に笑う。

「さあ、選べ。今すぐ尻尾を巻いて逃げるか、ここでハチの巣になるか」

究極の二択。
王子は悔しそうに歯を食いしばり、私とルーカスを交互に睨みつけた。

「……覚えていろ! 今日は引いてやる! だが、私は諦めんぞ! 必ずダリアの目を覚まさせてやるからな!」

「行きますわよ、アレン様! こんな野蛮な場所、空気が汚れますわ!」

二人は捨て台詞を残し、脱兎のごとく逃げ出した。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。

静寂が戻った。
私は大きなため息をつき、ソファに崩れ落ちた。

「……疲れました」

「よくやった、ダリア」

ルーカスが剣を納め、私の頭を撫でてくれた。

「君の『無能』という罵倒、最高に痺れたぞ。あれほどの切れ味、我が軍の剣にも勝る」

「本心を言っただけです。……あーあ、休憩時間が終わってしまいました」

時計を見ると、三時十五分。
私のおやつタイムは、王子の襲来によって完全に消滅していた。

「クッキー、一枚も食べられませんでした」

私が悲しげに呟くと、ルーカスは新しい皿を取り出した。

「安心しろ。予備を用意してある」

「!」

「それに、君が精神的苦痛を受けた分の『特別手当』として、夕食のデザートも倍量にしよう」

「公爵様……!」

私は感動した。
やはり、選ぶべき上司は彼だ。
無能な元婚約者と違い、彼は私のニーズを完璧に理解している。

「ありがとうございます。一生ついていきます(福利厚生が続く限り)」

「ああ。一生離さない(死ぬまで働いてもらう)」

私たちの愛の誓い(契約確認)は、今日も奇妙な形で成立した。
だが、アレン王子がこれで諦めるわけがないことは、私もルーカスも予感していた。
次は、もっと面倒な手段で来るに違いない。

「……今のうちに、寝だめをしておこう」

私はクッキーを口に放り込み、新たな戦い(主に睡眠時間の確保)への決意を固めるのだった。
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