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その日、バルディス帝国の空は分厚い鉛色の雲に覆われていた。
私の心模様をそのまま映し出したような、絶好の「引きこもり日和」だ。
執務室の隣にある私の専用スペース、通称「安眠の聖域」にて。
私は最高級のソファに沈み込みながら、書類の最終チェックを行っていた。
「……よし。これで今週の予算審議は終了」
ペンを置き、私は天井を仰いだ。
時刻は午後二時五十五分。
あと五分で、私の権利として勝ち取った「三時のおやつ休憩」が始まる。
今日のメニューは、城のパティシエが新作として焼いてくれた「特製バタークッキー」だ。
サクサクの食感と、芳醇なバターの香り。
それを想像するだけで、私の口角は自然と緩んでしまう。
「ダリア、仕事は終わったか」
壁一枚隔てた執務室から、ルーカスが顔を覗かせた。
彼の手には、淹れたての紅茶のポットが握られている。
公爵自らお茶汲みをするなど前代未聞だが、彼は「君の休憩時間を一秒たりとも無駄にさせないための合理的配慮だ」と言い張って譲らない。
「はい。完璧です。あとはクッキーを迎え入れるだけです」
「そうか。では準備しよう」
平和だ。
あまりにも平和で、涙が出そうになる。
ブラック職場だと思っていたこの城も、環境さえ整えば天国になり得るのだ。
ズドォォォォン!!
その静寂は、城門の方から響いた爆音によって粉々に粉砕された。
「……地震?」
私がクッキーの皿を守るように抱え込むと、ルーカスが鋭い眼光で窓の外を睨んだ。
「いや、違う。あれは……魔法による衝撃波だ。城門を無理やりこじ開けようとしている馬鹿がいる」
「魔法? 敵襲ですか?」
「ある意味ではな」
ルーカスが不愉快そうに舌打ちをした瞬間、廊下が騒がしくなった。
衛兵たちの怒号と、それをかき消すような甲高い女性の悲鳴、そして芝居がかった男の声。
「退け! 私を誰だと思っている! エルトリア王国第一王子、アレンであるぞ!」
「私はその婚約者、リリィですわ! 道を開けなさい、この野蛮人ども!」
その声を聞いた瞬間、私の手からクッキーが一枚、悲しく床に落ちた。
「……嘘でしょ」
最悪のタイミングだ。
私のおやつタイム。
私の至福の十五分間。
それを邪魔する権利は、神にだってないはずなのに。
「アレン王子……だと?」
ルーカスが私を見た。
その目は「焼き殺していいか?」と問いかけているようだったが、私は首を横に振った。
ここで焼き殺せば、国際問題になり、その処理で私の残業が確定するからだ。
バンッ!!
執務室の重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、旅の汚れで少し薄汚れたマントを羽織り、肩で息をするアレン王子。
そして、その後ろで「きゃー! 怖いー!」と叫びながらも、しっかりと王子にしがみついているリリィだった。
「ダリア!!」
アレン王子が、部屋の奥にいる私を見つけた。
彼は私を見るなり、大げさに目を見開き、悲痛な叫び声を上げた。
「ああ、ダリア……! なんて変わり果てた姿に……!」
「はい?」
私は首を傾げた。
変わり果てた?
確かに今はリラックスモードで靴を脱いでいるし、髪も少し乱れているかもしれないが、そこまで酷いだろうか。
「その青白い肌! 生気のない瞳! まるで地下牢に幽閉されていた亡霊のようだ!」
「それは元からです」
私は即答した。
日焼けしたくないから外出を控えているし、省エネモードだから目は死んでいる。
これは通常運転だ。
「黙れ! 無理をして強がるな!」
王子はズカズカと部屋に入り込んできた。
ルーカスが立ち上がり、彼の前に立ちはだかる。
「……貴様。土足で俺の城に踏み込むとは、いい度胸だ」
ルーカスの体から、目に見えるほどの殺気が立ち上る。
室温が一気に五度は下がった気がする。
普通ならここで腰を抜かすところだが、今日の王子は違った。
彼は「愛の力」という名の勘違いフィルターで武装しているのだ。
「退け、氷の公爵! 貴様の悪行は全てお見通しだ!」
王子はビシッとルーカスを指差した。
「ダリアを『最重要機密』などと偽り、過酷な労働を強いているのだろう! 彼女の手を見ろ! あんなにインクで汚れている!」
私は自分の手を見た。
さっき書類仕事をしていたから、指先に少しインクがついている。
「公爵令嬢の手は、宝石を愛でるためのものだ! ペンだこができるほど酷使するなど、言語道断!」
(いや、ペンだこは学生時代からのものですが)
「ダリア、怖がらなくていい。私が来たからには、もう安心だ。さあ、一緒に帰ろう!」
王子が手を差し伸べてくる。
その顔は、完全に「囚われの姫を救う騎士」になりきっている。
背後のリリィも、「そうですわよ! アレン様の慈悲深さに感謝なさい!」と謎の上から目線で煽ってくる。
私は、落ちたクッキーを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
そして、深いため息をついた。
「……お断りします」
「なっ……!?」
王子の手が空を切る。
「なぜだ! 洗脳されているのか!? それとも、この男に人質でも取られているのか!?」
「いいえ。単純に、帰りたくないからです」
私はソファに座り直した。
「ここでは週休二日制が保証されています。残業代も出ます。おやつ休憩もあります。そして何より、貴方たちの顔を見なくて済むという、最高の福利厚生があるのです」
「ふ、福利厚生……?」
聞き慣れない単語に、王子が戸惑う。
「ダリア、君は騙されているんだ! そんなものは偽りの幸せだ! 君の本当の居場所は、私の隣だ!」
王子は一歩踏み出し、熱っぽく語り始めた。
ここからが、彼の勘違いの真骨頂だった。
「私は考えたのだ。君のその有能さを。そして、君が私を想うあまり、身を引いたという献身を」
(身を引いたのではなく、捨てたのですが)
「だから、私は特例を認めることにした。リリィを正妃として迎えるが、君もまた、私の側室として城に住まわせてやろう!」
「……は?」
部屋の時間が止まった。
私だけでなく、ルーカスも、そしてリリィさえも一瞬固まった。
「側室……ですか?」
「そうだ! 寛大な処置だろう? 正妃のリリィの下で、君は事務官としての能力を活かし、私の補佐をすればいい。愛の形は一つではない。私が二人を平等に愛してやる!」
王子は「どうだ、嬉しいだろう」と言わんばかりのドヤ顔で胸を張った。
私は、頭の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。
側室。
それはつまり、リリィの下で働き、リリィの機嫌を取り、その上で王子の相手もしなければならないという、地獄の多重債務契約だ。
「定時退社」どころか「二十四時間勤務」が確定する、ブラック企業の極み。
しかも「愛してやる」という上から目線のオマケ付き。
(……舐めてる)
私の心の中の、普段は眠っている「悪役令嬢」の部分が、静かに目を覚ました。
「……アレン殿下」
私はゆっくりと立ち上がった。
声のトーンを、極限まで低く落とす。
「一つ、確認させてください。貴方は、私が『喜び勇んでその提案を受ける』と、本気で思っていらっしゃるのですか?」
「もちろんだ。君は私を愛しているのだから」
「……そうですか」
私はルーカスの方を向いた。
彼は腕を組み、黙って私を見守っている。
だが、その目は笑っていた。
「やれ」と、合図を送っている。
私は再び王子に向き直った。
「アレン殿下。貴方のその提案は、私の人生設計において、最も非効率的で、最も不愉快で、そして最も吐き気を催すものです」
「な、なんだと……?」
「側室? 笑わせないでください。リリィ様の下で働く? ドブ掃除の方がマシです。貴方の愛? そんな不確かなもののために、私の貴重な睡眠時間を削るとでも?」
私は一歩ずつ、王子に近づいた。
私の周りに、冷たい空気が渦巻く。
王妃教育で叩き込まれた「威圧」のスキルを、今こそ解放する時だ。
「勘違いなさらないで。私がここにいるのは、洗脳されたからでも、脅されたからでもありません。私が『選んだ』のです。貴方という無能な上司よりも、ルーカス公爵という有能なパートナーを」
「む、無能だと……!?」
「ええ。書類一つまともに読めず、感情論で国を動かし、自分の都合の良い妄想しか信じない。それを無能と言わずして何と言うのです?」
私は王子の鼻先まで顔を近づけ、冷酷に言い放った。
「帰ってください。貴方の顔を見ていると、視神経が疲労します。私の平和な午後を、これ以上汚さないで」
王子は後ずさりした。
私の迫力に気圧されたのか、それとも予想外の拒絶にショックを受けたのか、顔色が真っ青になっている。
「き、貴様……! そこまで言うか! 私の慈悲を踏みにじるのか!」
「慈悲? それはゴミの分別よりも価値のないものですわ」
私が畳み掛けようとした時、背後でリリィが叫んだ。
「アレン様! 騙されてはいけませんわ! これはきっと、あの公爵が黒魔術でダリア様を操っているんです! 今の言葉は、ダリア様の本心ではありません!」
「そ、そうだ! そうに違いない!」
王子が藁にもすがる思いでリリィの言葉に飛びついた。
「ダリアがあんな酷いことを言うはずがない! 全ては貴様の仕業か、ルーカス!」
王子がルーカスを睨みつける。
話が通じないにも程がある。
私の渾身の罵倒も、「黒魔術」の一言で無効化されてしまった。
ルーカスは、呆れたように肩を竦めた。
「やれやれ。現実を受け入れられない男というのは、ここまで滑稽になれるものか」
彼はゆっくりと、腰の剣に手を掛けた。
「ダリアの言葉が聞こえなかったか? 『帰れ』と言ったのだ。これ以上、私の婚約者に不快な思いをさせるなら、外交特権など無視して、この場で斬り捨てるぞ」
チャキッ、と鯉口を切る音。
本物の殺気が、王子とリリィを襲う。
「ひっ……!」
リリィが悲鳴を上げて王子の背中に隠れる。
王子も震えながら、それでも引こうとはしない。
「婚約者だと……? 認めん! 私は認めんぞ! ダリアは私のものだ!」
「ほう。ならば、力ずくで奪ってみるか? ……バルディス帝国の軍事力の全てを相手にして」
ルーカスの合図と共に、執務室の窓の外、中庭に数百の騎士たちが一斉に姿を現した。
弓を構え、槍を突き出し、侵入者を完全包囲している。
「なっ……軍隊!?」
「たかが二人を迎えるのに大袈裟だと思うか? いいや、ダリアの安眠を妨害する罪は、国家反逆罪に等しいからな」
ルーカスが冷酷に笑う。
「さあ、選べ。今すぐ尻尾を巻いて逃げるか、ここでハチの巣になるか」
究極の二択。
王子は悔しそうに歯を食いしばり、私とルーカスを交互に睨みつけた。
「……覚えていろ! 今日は引いてやる! だが、私は諦めんぞ! 必ずダリアの目を覚まさせてやるからな!」
「行きますわよ、アレン様! こんな野蛮な場所、空気が汚れますわ!」
二人は捨て台詞を残し、脱兎のごとく逃げ出した。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った。
私は大きなため息をつき、ソファに崩れ落ちた。
「……疲れました」
「よくやった、ダリア」
ルーカスが剣を納め、私の頭を撫でてくれた。
「君の『無能』という罵倒、最高に痺れたぞ。あれほどの切れ味、我が軍の剣にも勝る」
「本心を言っただけです。……あーあ、休憩時間が終わってしまいました」
時計を見ると、三時十五分。
私のおやつタイムは、王子の襲来によって完全に消滅していた。
「クッキー、一枚も食べられませんでした」
私が悲しげに呟くと、ルーカスは新しい皿を取り出した。
「安心しろ。予備を用意してある」
「!」
「それに、君が精神的苦痛を受けた分の『特別手当』として、夕食のデザートも倍量にしよう」
「公爵様……!」
私は感動した。
やはり、選ぶべき上司は彼だ。
無能な元婚約者と違い、彼は私のニーズを完璧に理解している。
「ありがとうございます。一生ついていきます(福利厚生が続く限り)」
「ああ。一生離さない(死ぬまで働いてもらう)」
私たちの愛の誓い(契約確認)は、今日も奇妙な形で成立した。
だが、アレン王子がこれで諦めるわけがないことは、私もルーカスも予感していた。
次は、もっと面倒な手段で来るに違いない。
「……今のうちに、寝だめをしておこう」
私はクッキーを口に放り込み、新たな戦い(主に睡眠時間の確保)への決意を固めるのだった。
私の心模様をそのまま映し出したような、絶好の「引きこもり日和」だ。
執務室の隣にある私の専用スペース、通称「安眠の聖域」にて。
私は最高級のソファに沈み込みながら、書類の最終チェックを行っていた。
「……よし。これで今週の予算審議は終了」
ペンを置き、私は天井を仰いだ。
時刻は午後二時五十五分。
あと五分で、私の権利として勝ち取った「三時のおやつ休憩」が始まる。
今日のメニューは、城のパティシエが新作として焼いてくれた「特製バタークッキー」だ。
サクサクの食感と、芳醇なバターの香り。
それを想像するだけで、私の口角は自然と緩んでしまう。
「ダリア、仕事は終わったか」
壁一枚隔てた執務室から、ルーカスが顔を覗かせた。
彼の手には、淹れたての紅茶のポットが握られている。
公爵自らお茶汲みをするなど前代未聞だが、彼は「君の休憩時間を一秒たりとも無駄にさせないための合理的配慮だ」と言い張って譲らない。
「はい。完璧です。あとはクッキーを迎え入れるだけです」
「そうか。では準備しよう」
平和だ。
あまりにも平和で、涙が出そうになる。
ブラック職場だと思っていたこの城も、環境さえ整えば天国になり得るのだ。
ズドォォォォン!!
その静寂は、城門の方から響いた爆音によって粉々に粉砕された。
「……地震?」
私がクッキーの皿を守るように抱え込むと、ルーカスが鋭い眼光で窓の外を睨んだ。
「いや、違う。あれは……魔法による衝撃波だ。城門を無理やりこじ開けようとしている馬鹿がいる」
「魔法? 敵襲ですか?」
「ある意味ではな」
ルーカスが不愉快そうに舌打ちをした瞬間、廊下が騒がしくなった。
衛兵たちの怒号と、それをかき消すような甲高い女性の悲鳴、そして芝居がかった男の声。
「退け! 私を誰だと思っている! エルトリア王国第一王子、アレンであるぞ!」
「私はその婚約者、リリィですわ! 道を開けなさい、この野蛮人ども!」
その声を聞いた瞬間、私の手からクッキーが一枚、悲しく床に落ちた。
「……嘘でしょ」
最悪のタイミングだ。
私のおやつタイム。
私の至福の十五分間。
それを邪魔する権利は、神にだってないはずなのに。
「アレン王子……だと?」
ルーカスが私を見た。
その目は「焼き殺していいか?」と問いかけているようだったが、私は首を横に振った。
ここで焼き殺せば、国際問題になり、その処理で私の残業が確定するからだ。
バンッ!!
執務室の重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、旅の汚れで少し薄汚れたマントを羽織り、肩で息をするアレン王子。
そして、その後ろで「きゃー! 怖いー!」と叫びながらも、しっかりと王子にしがみついているリリィだった。
「ダリア!!」
アレン王子が、部屋の奥にいる私を見つけた。
彼は私を見るなり、大げさに目を見開き、悲痛な叫び声を上げた。
「ああ、ダリア……! なんて変わり果てた姿に……!」
「はい?」
私は首を傾げた。
変わり果てた?
確かに今はリラックスモードで靴を脱いでいるし、髪も少し乱れているかもしれないが、そこまで酷いだろうか。
「その青白い肌! 生気のない瞳! まるで地下牢に幽閉されていた亡霊のようだ!」
「それは元からです」
私は即答した。
日焼けしたくないから外出を控えているし、省エネモードだから目は死んでいる。
これは通常運転だ。
「黙れ! 無理をして強がるな!」
王子はズカズカと部屋に入り込んできた。
ルーカスが立ち上がり、彼の前に立ちはだかる。
「……貴様。土足で俺の城に踏み込むとは、いい度胸だ」
ルーカスの体から、目に見えるほどの殺気が立ち上る。
室温が一気に五度は下がった気がする。
普通ならここで腰を抜かすところだが、今日の王子は違った。
彼は「愛の力」という名の勘違いフィルターで武装しているのだ。
「退け、氷の公爵! 貴様の悪行は全てお見通しだ!」
王子はビシッとルーカスを指差した。
「ダリアを『最重要機密』などと偽り、過酷な労働を強いているのだろう! 彼女の手を見ろ! あんなにインクで汚れている!」
私は自分の手を見た。
さっき書類仕事をしていたから、指先に少しインクがついている。
「公爵令嬢の手は、宝石を愛でるためのものだ! ペンだこができるほど酷使するなど、言語道断!」
(いや、ペンだこは学生時代からのものですが)
「ダリア、怖がらなくていい。私が来たからには、もう安心だ。さあ、一緒に帰ろう!」
王子が手を差し伸べてくる。
その顔は、完全に「囚われの姫を救う騎士」になりきっている。
背後のリリィも、「そうですわよ! アレン様の慈悲深さに感謝なさい!」と謎の上から目線で煽ってくる。
私は、落ちたクッキーを拾い上げ、ゴミ箱に捨てた。
そして、深いため息をついた。
「……お断りします」
「なっ……!?」
王子の手が空を切る。
「なぜだ! 洗脳されているのか!? それとも、この男に人質でも取られているのか!?」
「いいえ。単純に、帰りたくないからです」
私はソファに座り直した。
「ここでは週休二日制が保証されています。残業代も出ます。おやつ休憩もあります。そして何より、貴方たちの顔を見なくて済むという、最高の福利厚生があるのです」
「ふ、福利厚生……?」
聞き慣れない単語に、王子が戸惑う。
「ダリア、君は騙されているんだ! そんなものは偽りの幸せだ! 君の本当の居場所は、私の隣だ!」
王子は一歩踏み出し、熱っぽく語り始めた。
ここからが、彼の勘違いの真骨頂だった。
「私は考えたのだ。君のその有能さを。そして、君が私を想うあまり、身を引いたという献身を」
(身を引いたのではなく、捨てたのですが)
「だから、私は特例を認めることにした。リリィを正妃として迎えるが、君もまた、私の側室として城に住まわせてやろう!」
「……は?」
部屋の時間が止まった。
私だけでなく、ルーカスも、そしてリリィさえも一瞬固まった。
「側室……ですか?」
「そうだ! 寛大な処置だろう? 正妃のリリィの下で、君は事務官としての能力を活かし、私の補佐をすればいい。愛の形は一つではない。私が二人を平等に愛してやる!」
王子は「どうだ、嬉しいだろう」と言わんばかりのドヤ顔で胸を張った。
私は、頭の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。
側室。
それはつまり、リリィの下で働き、リリィの機嫌を取り、その上で王子の相手もしなければならないという、地獄の多重債務契約だ。
「定時退社」どころか「二十四時間勤務」が確定する、ブラック企業の極み。
しかも「愛してやる」という上から目線のオマケ付き。
(……舐めてる)
私の心の中の、普段は眠っている「悪役令嬢」の部分が、静かに目を覚ました。
「……アレン殿下」
私はゆっくりと立ち上がった。
声のトーンを、極限まで低く落とす。
「一つ、確認させてください。貴方は、私が『喜び勇んでその提案を受ける』と、本気で思っていらっしゃるのですか?」
「もちろんだ。君は私を愛しているのだから」
「……そうですか」
私はルーカスの方を向いた。
彼は腕を組み、黙って私を見守っている。
だが、その目は笑っていた。
「やれ」と、合図を送っている。
私は再び王子に向き直った。
「アレン殿下。貴方のその提案は、私の人生設計において、最も非効率的で、最も不愉快で、そして最も吐き気を催すものです」
「な、なんだと……?」
「側室? 笑わせないでください。リリィ様の下で働く? ドブ掃除の方がマシです。貴方の愛? そんな不確かなもののために、私の貴重な睡眠時間を削るとでも?」
私は一歩ずつ、王子に近づいた。
私の周りに、冷たい空気が渦巻く。
王妃教育で叩き込まれた「威圧」のスキルを、今こそ解放する時だ。
「勘違いなさらないで。私がここにいるのは、洗脳されたからでも、脅されたからでもありません。私が『選んだ』のです。貴方という無能な上司よりも、ルーカス公爵という有能なパートナーを」
「む、無能だと……!?」
「ええ。書類一つまともに読めず、感情論で国を動かし、自分の都合の良い妄想しか信じない。それを無能と言わずして何と言うのです?」
私は王子の鼻先まで顔を近づけ、冷酷に言い放った。
「帰ってください。貴方の顔を見ていると、視神経が疲労します。私の平和な午後を、これ以上汚さないで」
王子は後ずさりした。
私の迫力に気圧されたのか、それとも予想外の拒絶にショックを受けたのか、顔色が真っ青になっている。
「き、貴様……! そこまで言うか! 私の慈悲を踏みにじるのか!」
「慈悲? それはゴミの分別よりも価値のないものですわ」
私が畳み掛けようとした時、背後でリリィが叫んだ。
「アレン様! 騙されてはいけませんわ! これはきっと、あの公爵が黒魔術でダリア様を操っているんです! 今の言葉は、ダリア様の本心ではありません!」
「そ、そうだ! そうに違いない!」
王子が藁にもすがる思いでリリィの言葉に飛びついた。
「ダリアがあんな酷いことを言うはずがない! 全ては貴様の仕業か、ルーカス!」
王子がルーカスを睨みつける。
話が通じないにも程がある。
私の渾身の罵倒も、「黒魔術」の一言で無効化されてしまった。
ルーカスは、呆れたように肩を竦めた。
「やれやれ。現実を受け入れられない男というのは、ここまで滑稽になれるものか」
彼はゆっくりと、腰の剣に手を掛けた。
「ダリアの言葉が聞こえなかったか? 『帰れ』と言ったのだ。これ以上、私の婚約者に不快な思いをさせるなら、外交特権など無視して、この場で斬り捨てるぞ」
チャキッ、と鯉口を切る音。
本物の殺気が、王子とリリィを襲う。
「ひっ……!」
リリィが悲鳴を上げて王子の背中に隠れる。
王子も震えながら、それでも引こうとはしない。
「婚約者だと……? 認めん! 私は認めんぞ! ダリアは私のものだ!」
「ほう。ならば、力ずくで奪ってみるか? ……バルディス帝国の軍事力の全てを相手にして」
ルーカスの合図と共に、執務室の窓の外、中庭に数百の騎士たちが一斉に姿を現した。
弓を構え、槍を突き出し、侵入者を完全包囲している。
「なっ……軍隊!?」
「たかが二人を迎えるのに大袈裟だと思うか? いいや、ダリアの安眠を妨害する罪は、国家反逆罪に等しいからな」
ルーカスが冷酷に笑う。
「さあ、選べ。今すぐ尻尾を巻いて逃げるか、ここでハチの巣になるか」
究極の二択。
王子は悔しそうに歯を食いしばり、私とルーカスを交互に睨みつけた。
「……覚えていろ! 今日は引いてやる! だが、私は諦めんぞ! 必ずダリアの目を覚まさせてやるからな!」
「行きますわよ、アレン様! こんな野蛮な場所、空気が汚れますわ!」
二人は捨て台詞を残し、脱兎のごとく逃げ出した。
廊下を走る足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った。
私は大きなため息をつき、ソファに崩れ落ちた。
「……疲れました」
「よくやった、ダリア」
ルーカスが剣を納め、私の頭を撫でてくれた。
「君の『無能』という罵倒、最高に痺れたぞ。あれほどの切れ味、我が軍の剣にも勝る」
「本心を言っただけです。……あーあ、休憩時間が終わってしまいました」
時計を見ると、三時十五分。
私のおやつタイムは、王子の襲来によって完全に消滅していた。
「クッキー、一枚も食べられませんでした」
私が悲しげに呟くと、ルーカスは新しい皿を取り出した。
「安心しろ。予備を用意してある」
「!」
「それに、君が精神的苦痛を受けた分の『特別手当』として、夕食のデザートも倍量にしよう」
「公爵様……!」
私は感動した。
やはり、選ぶべき上司は彼だ。
無能な元婚約者と違い、彼は私のニーズを完璧に理解している。
「ありがとうございます。一生ついていきます(福利厚生が続く限り)」
「ああ。一生離さない(死ぬまで働いてもらう)」
私たちの愛の誓い(契約確認)は、今日も奇妙な形で成立した。
だが、アレン王子がこれで諦めるわけがないことは、私もルーカスも予感していた。
次は、もっと面倒な手段で来るに違いない。
「……今のうちに、寝だめをしておこう」
私はクッキーを口に放り込み、新たな戦い(主に睡眠時間の確保)への決意を固めるのだった。
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