悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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アレン王子とリリィの襲来から数日。
私の生活は、表面上は平穏を取り戻していた。

城の警備は強化されたが、あの二人が素直に引き下がるとは思えない。
「ゴキブリと馬鹿は、一匹見たら三十匹いると思え」というのが、私の祖母の遺言だ。
油断はできない。

だが、今日の天気は快晴。
警戒レベルを少し下げて、私は城のテラスで日光浴を楽しんでいた。

「……ふぁ」

私は大きなあくびをした。
膝の上には、愛用の「モフモフ羊型枕(二号機)」がある。
前回、家出未遂の時に持ち出した一号機は、ルーカスの執務室に人質(物質?)として保管されているため、これは予備の二号機だ。
肌触りはこちらの方が少し硬めで、屋外での昼寝に適している。

「平和だ……」

ルーカスは公務で外出中。
監視の目はあるが、彼らは私がテラスで寝ている限り、空気のように徹してくれる。
私は羊枕に顔を埋め、意識を泥のように溶かしていった。

その時だった。

「見つけたぞ、我が愛しの眠り姫!」

聞き覚えのある、無駄に芝居がかった声が頭上から降ってきた。
私は反射的に、芋虫のようにゴロンと横へ転がった。

ドカッ!!

直前まで私の頭があった場所に、革のブーツが振り下ろされた。

「おっと、避けるとは。寝起きでも愛の気配には敏感なようだね」

私は薄目を開けた。
逆光の中、キラキラとしたエフェクトを背負って立っているのは、アレン王子だった。
なぜここにいる。
警備はどうした。

「……どうやって入ったんですか。ここは三階のテラスですよ」

「愛の力に、壁など存在しないのだよ!」

王子は爽やかに笑った。
手にはロープが握られている。
どうやら隣の建物の屋根から、ターザンのように飛び移ってきたらしい。
無駄な身体能力だ。

「ダリア。前回の君の言葉、あれは公爵に言わされたものだと分かっている。君の本心は、助けを求めて泣いていたはずだ」

「泣いてません。あくびで涙目だっただけです」

「強がるな。さあ、今こそ私と一緒に逃げよう! このロープで!」

「お断りします。命綱なしのアクション映画撮影には興味がありません」

私は立ち上がろうとした。
その時、王子の足元に視線が止まった。

彼の右足が、何かを踏みつけている。

白い、モフモフした、愛らしいフォルムの……。

「あ」

私の口から、乾いた音が漏れた。

王子のブーツが、私の「羊型枕(二号機)」を、無慈悲に踏みにじっていたのだ。
しかも、ただ踏んでいるだけではない。
彼は「愛を語るポーズ」を取るために、グリグリと軸足を回転させている。
白い羊の顔が、土足で汚され、無惨に変形していく。

「……殿下」

「なんだい? 嬉しくて声も出ないか?」

「足を、退けてください」

私の声は、自分でも驚くほど低く、そして冷えていた。

「ん? 足? ああ、これか」

王子は足元を見た。

「なんだ、こんな汚いクッションか。君にはもっと相応しい、絹のクッションを私が買ってやる。こんな安物は捨ててしまえ!」

王子は笑いながら、さらに力を込めて枕を踏み抜いた。
羊の綿が、ブチッという音と共に飛び出した。

その瞬間。

私の脳内で、何かが完全に焼き切れた。

怒り?
いいえ、そんな熱い感情ではない。
もっと冷たく、鋭利で、絶対的な「排除の意志」だ。

「……汚いクッション、とおっしゃいましたか」

私はゆらりと立ち上がった。

「ひっ!?」

王子がビクリと肩を震わせた。
私の発する空気が変わったのを、鈍感な彼でも感じ取ったらしい。
周囲の気温が下がり、鳥のさえずりがピタリと止む。

「アレン・フォン・エルトリア」

私は彼の名前をフルネームで呼んだ。
敬称などつける価値もない。

「貴方は今、私の『QOL(生活の質)』の要石を破壊しました。それは、我が国に対する宣戦布告よりも、私にとっては重い罪です」

「な、何を言っている……ただの枕だろう!?」

「ただの枕? いいえ。これは私の頸椎を守り、脳の疲労物質を除去し、明日への活力を生み出すための精密機器です」

私は一歩、王子に近づいた。
彼は一歩、後ずさる。

「貴方は言いましたね。『安物』だと。確かに市場価格は金貨一枚もしないでしょう。しかし、私の頭の形に馴染むまでに費やした『時間』と『調整の手間』、そのプライスレスな価値が、貴方の空っぽな頭で理解できますか?」

「ひぃっ……目が、目が笑ってないぞダリア!」

「笑う? なぜ私が、害虫を見て笑わなければならないのです」

私は無表情のまま、淡々と事実を突きつけた。

「いいですか、よくお聞きなさい。この枕は、私に『安らぎ』と『回復』を提供してくれます。対して、貴方はどうです?」

「ぼ、僕は君に愛を……」

「貴方が私に提供するのは、『ストレス』『疲労』『時間の浪費』、そして『鼓膜への騒音』のみです。メリットが一つもありません。存在が負債(マイナス)そのものです」

「ふ、負債……!?」

「つまり、貴方の価値は、この踏みつけられた枕以下です。いえ、比較するのもおこがましい。枕は黙って私を支えてくれますが、貴方は喋るだけで私の神経を削るのですから」

私はさらに一歩踏み出した。
王子はテラスの手すりに追い詰められた。

「王族としての資質以前に、生物として邪魔です。貴方が呼吸をするたびに、私の周囲の酸素濃度が下がり、二酸化炭素とナルシシズムが充満します。環境汚染ですので、呼吸を止めていただけますか?」

「そ、そこまで言うか……!」

「言わせたのは貴方です。私の平穏を土足で踏み荒らし、私の相棒(枕)を破壊した。その罪、万死に値します」

私は、壊れた羊枕を拾い上げた。
無惨に汚れたその姿を見て、私の心は冷え切った怒りで満たされた。

「消えてください。今すぐに。私の視界から、記憶から、そしてこの世界線から」

「う、うわああああああああああああ!!」

王子は耐えきれずに叫び出した。
私の言葉の一つ一つが、物理的なパンチのように彼のプライドを粉砕したのだ。
論理的かつ絶対的な拒絶。
「愛されている」という勘違いが入り込む隙間すらない、完全なる罵倒。

「ば、化け物だ……! 君はダリアじゃない! あんな淑やかだったダリアが、こんな氷のような目で僕を見るはずがない!」

「それが本性です。見抜けなかった貴方の目は、やはり節穴ですね。眼科に行くことをお勧めします」

「ひいいっ!」

王子はパニックになり、逃げ道を探した。
しかし、背後は手すり。下は三階分の高さがある。
入ってきたロープは、先ほど私が踏みつけて回収済みだ。

「おやおや。愛の力で壁を越えたのではなかったのですか? 帰りも空を飛んで帰ればよろしいのでは?」

私が冷たく言い放った時、テラスの扉が開いた。

「……何事だ」

帰還したルーカスが、騒ぎを聞きつけて飛び込んできた。
彼は、へたり込む王子と、壊れた枕を抱えて仁王立ちする私を見て、瞬時に状況を理解したようだ。

「アレン殿下。……また貴様か」

「こ、公爵! 助けてくれ! この女は悪魔だ! 僕を言葉の暴力で殺そうとしてくる!」

王子がルーカスに助けを求めるという、訳の分からない構図になった。
ルーカスは呆れたようにため息をつき、そして私を見た。

「ダリア。……枕が」

「はい。殺されました」

私は亡骸(枕)をルーカスに見せた。

「殉職です。私の安眠を守ろうとして、この男の凶足(きょうそく)にかかりました」

「……そうか。それは痛ましいことをした」

ルーカスは私の肩を抱き、王子に向き直った。
その目は、私以上に冷たかった。

「聞いたな、殿下。貴様は、我が国の『国宝』の精神安定剤を破壊した。これは器物損壊ではない。国家に対するテロ行為だ」

「な、なんでそうなるんだよおおおお!」

「衛兵! この不法侵入者を拘束しろ! 今度こそ地下牢にぶち込んで、たっぷりと『礼儀』を教えてやれ!」

「いやだ! 離せ! 僕は王子だぞ! 外交特権があ……ぶべらっ!」

駆けつけた衛兵たちによって、王子は簀巻きにされ、連行されていった。
去り際、彼は私を見て「目は節穴じゃないもん……」と泣き言を漏らしていたが、知ったことではない。

テラスに静寂が戻った。
私は壊れた枕を抱きしめたまま、ふぅ、と息を吐いた。

「……スッキリしました」

「それは何よりだ。だが、君のその『罵倒スキル』は、俺の想像を超えていたな」

ルーカスが苦笑する。

「生物として邪魔、環境汚染、呼吸を止めろ……。よくもまあ、あそこまでスラスラと暴言が出てくるものだ」

「事実を列挙しただけです」

「君を敵に回すと一番怖いのは、感情的になることではなく、冷静に『価値がない』と断罪されることだな」

ルーカスは私の手から、汚れた枕を優しく取り上げた。

「これは、俺が責任を持って供養(修理)に出そう。最高の職人に直させる」

「直りますか……?」

「ああ。綿を詰め替え、クリーニングすれば新品同様になる。もし直らなければ、俺が新しいものを百個用意する」

「百個はいりませんが、これと同じ感触のものでお願いします」

「承知した」

ルーカスは私の頭をポンと撫でた。

「しかし、君があそこまで怒るとは。やはり睡眠に関しては譲れないのだな」

「当然です。睡眠は人生の三分の一を占めるのですよ? それを害する者は、人生の敵です」

私は拳を握りしめた。
今回の件で、私の中でアレン王子に対する認識は「関わりたくない元婚約者」から「駆除すべき害獣」へとランクアップした。

「次は容赦しません。物理的に」

私が物騒なことを呟くと、ルーカスは嬉しそうに目を細めた。

「頼もしい限りだ。君がその気なら、我が国の拷問器具のコレクションを見せてやろうか? 睡眠を妨害する敵を排除するのに役立つぞ」

「……それはまた今度にします」

こうして、私の「枕の恨み」によるブチ切れ事件は幕を閉じた。
アレン王子は精神的にボコボコにされ、地下牢で「枕が怖い」と譫言(うわごと)を言っているらしい。
少しやりすぎた気もするが、安眠のためだ。
正当防衛である。

私は新しい枕が届くまで、今夜はまたルーカスの太ももを借りることになりそうだな、と思いながら、テラスを後にした。
私の平和なニート生活への道は、死屍累々(主に王子の精神)の上に築かれていくようだ。
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