悪役令嬢の婚約破棄は「定時退社」です!

夏乃みのり

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南部の温泉保養地、「ルナ・スプリングス」。
帝都から馬車を乗り継ぎ、丸二日。
私はついに、約束の地(ニートの楽園)へと辿り着いた。

「……着いた」

乗合馬車から降りた瞬間、鼻腔をくすぐる硫黄の香り。
それは、キャベツの青臭い匂いとは比べ物にならない、天国の香りだった。
目の前には、湯煙を上げる温泉街が広がっている。
木造の情緒ある旅館、浴衣姿で行き交う観光客、そして温泉饅頭の甘い匂い。

「勝った……!」

私は拳を空に突き上げた。
あの完璧超人のルーカス公爵の包囲網を、野菜クズになりきって突破したのだ。
これは歴史的勝利と言っていい。
今の私は、ただの元公爵令嬢ではない。
自由を勝ち取った「脱走のスペシャリスト」だ。

「さて、まずは宿を確保しないと」

私はガイドブックを開いた。
潜伏先として選ぶべきは、賑やかな大通り沿いの安宿ではない。
人目を避け、かつ最高の睡眠環境(これ重要)が整っている、隠れ家的な高級旅館だ。

私の目は、ガイドブックの巻末にある小さな広告に釘付けになった。

**『隠れ湯の宿・銀嶺(ぎんれい)』**
* 全室離れ形式、源泉かけ流し露天風呂付き。
* 最高級の寝具完備。
* 一日三組限定の完全プライベート空間。

「ここだ」

私の直感が告げている。
ここなら誰にも邪魔されず、泥のように眠れる。
料金は高いが、アレン王子から巻き上げた慰謝料がある私にとっては、端金だ。

私はフードを目深に被り、裏通りを通ってその宿へと向かった。

***

「いらっしゃいませ、お客様」

宿の主人は、愛想の良い初老の男性だった。
私が偽名(キャベツ・タロウ……は流石に怪しいので、カレンと名乗った)を使い、現金を積むと、彼は嫌な顔一つせず最高の部屋を用意してくれた。

案内されたのは、竹林の奥にある静かな離れだった。
部屋に入った瞬間、畳の新しい匂いが私を迎えてくれた。
そして、奥には岩造りの露天風呂があり、とうとうと湯が溢れている。

「……完璧」

私は荷物を放り出し、まずは着ていた服を全て脱ぎ捨てた。
野菜の匂いが染み付いた服など、二度と着たくない。

「お風呂! お風呂!」

私は鼻歌交じりに、掛け湯をしてから湯船へと足を浸した。

「あぁ~……」

思わず、おっさんのような声が出る。
熱めの湯が、冷えた体に染み渡る。
キャベツの下で縮こまっていた筋肉が、一本一本ほぐれていくようだ。

(生き返る……これが自由の味……)

私は湯船の縁に頭を乗せ、夜空を見上げた。
満月が綺麗だ。
星も瞬いている。
城の執務室から見る空とは、同じ空とは思えないほど広い。

「ルーカス様、今頃どうしているかしら」

ふと、あのブラック上司の顔が浮かんだ。
きっと今頃、私が消えたことに気づき、怒り狂って……いないか。
あの人のことだ。
「ふん、逃げたか。だが計算通りだ」とか言って、涼しい顔で仕事をしているに違いない。

少しだけ、胸がチクリとした。
彼の太もも枕の感触や、不器用な優しさが恋しくないと言えば嘘になる。
だが、社畜生活に戻るわけにはいかない。

「未練は捨てよう。私はここで、第二の人生を始めるのよ」

私は頭を振り、お湯をバシャバシャと顔にかけた。
そして、十分に温まったところで湯から上がり、用意されていた浴衣に袖を通した。

「ふぅ。さて、次は夕食……の前に」

この宿には、名物があるらしい。
宿の裏手にある、巨大な自然岩を利用した**『大露天風呂』**だ。
なんでも「美肌の湯」として有名で、夜のこの時間は貸切状態になることが多いという。

部屋の風呂もいいが、せっかくなら広い風呂で泳ぎたい(マナー違反だが)。
私はタオルを一枚持ち、下駄を鳴らして離れを出た。

竹林の小径を抜けると、湯気が立ち込める岩場に出た。
そこには、テニスコートが二面入りそうなほどの広大な露天風呂があった。
周囲は高い岩壁に囲まれ、外からは絶対に見えない造りになっている。

「誰もいない……ラッキー!」

私は周囲を確認した。
人っ子一人いない。
聞こえるのは、お湯が注がれる音と、虫の声だけ。

私は浴衣を脱ぎ、脱衣籠に入れた。
そして、白い肌を夜気に晒しながら、岩場を降りていく。

チャポン。

広い湯船に身を沈める。
部屋の風呂とは開放感が違う。
まるで湖に浸かっているようだ。

「はぁ……極楽、極楽」

私は湯船の中央まで進み、仰向けになってプカプカと浮かんだ。
耳までお湯に浸けると、外界の音が遮断され、自分の心臓の音だけが聞こえる。

(これよ。私が求めていたのは、この静寂)

誰にも邪魔されず、何も考えず、ただお湯に溶けていく時間。
これこそが最高の贅沢だ。
ルーカスの城では、常に「効率」や「国益」という言葉に追われていた。
ここでは、私が「無駄」な時間を過ごしても、誰も文句を言わない。

「……あー、幸せ」

私は目を閉じ、完全にリラックスモードに入った。

その時だった。

「……良い湯だな」

すぐ近くから、低い男の声が聞こえた。

「はい、最高ですね」

私は無意識に相槌を打った。
あまりに自然な声だったので、脳が警戒信号を出すのが遅れたのだ。

……ん?
男の声?

私はカッ! と目を見開いた。
バシャッ! と音を立てて起き上がる。

湯煙の向こう。
私のすぐ目の前にある平らな岩の上に。
一人の男が、優雅に腰までお湯に浸かりながら、徳利と御猪口を持っていた。

濡れて顔に張り付いた銀色の髪。
湯気で少し潤んだ、血のように赤い瞳。
そして、無駄に鍛え上げられた彫刻のような肉体美。

「……げ」

私の口から、可愛くない音が漏れた。

「ル、ルーカス……様?」

「奇遇だな、ダリア。こんな山奥の秘湯で会うとは」

ルーカスは御猪口を口に運び、クッと煽った。
その動作一つ一つが、絵画のように様になっている。
いや、感心している場合ではない。

「な、な、な、なぜここに!?」

私は咄嗟に、お湯の中に肩まで沈んだ。
タオルは岩の上に置いてきてしまった。
今、私は完全に丸腰(全裸)だ。

「なぜ? それはこっちの台詞だ」

ルーカスは意地悪く笑った。

「俺は休暇を取って、自分の別荘に来ただけだ。まさか、俺の風呂に元婚約者が忍び込んでくるとは思わなかったが」

「別荘……?」

「ああ。この『銀嶺』を含め、この温泉地一帯の土地は、全て俺の所有地だ」

「……は?」

嘘でしょ。
ガイドブックにはそんなこと書いてなかった。

「君が読んでいたガイドブックの出版社も、俺の傘下企業だが?」

「情報操作……!」

私は戦慄した。
最初から、私は彼の手のひらの上で踊らされていたのだ。
南へ逃げようと思ったのも、この温泉地を選んだのも、全て彼の計算通りだったということか。

「野菜クズに紛れて脱出するというアイデアは秀逸だった。褒めてやろう」

ルーカスが、お湯をかき分けてこちらに近づいてくる。

「だが、君の思考パターンは俺が一番理解している。『静かで、寝心地が良く、食べ物が美味い場所』。その条件を満たす場所など、俺が先回りして買い占めておくに決まっているだろう?」

「か、買い占め……! 職権乱用です!」

「愛の力と言ってくれ」

ルーカスとの距離が縮まる。
私は後ずさりしようとしたが、背後は深い岩壁だ。
逃げ場がない。
しかも、動けばお湯が揺れて、私の体が露わになってしまう。

「こ、来ないでください! 私、今、何も着てないんです!」

「知っている。ここは風呂だからな」

「そ、そうじゃなくて! 乙女の恥じらいというものが!」

「今さら何を言う。俺の太ももで涎を垂らして寝ていた仲だろう」

「あれとこれとは違います! これはセクハラです! 訴えますよ!」

「誰に? この辺りの警察権も俺が持っているが」

「独裁者ーっ!!」

私は叫んだ。
ルーカスは私の目の前まで来ると、ピタリと止まった。
その距離、わずか三十センチ。
彼の熱い視線と、温泉の熱気で、のぼせそうになる。

「……ダリア」

急に、彼の声色が真剣なものに変わった。

「……心配したぞ」

「え?」

「君がいなくなったと聞いた時、心臓が凍るかと思った。君が俺を拒絶して消えたのかと思い、初めて……恐怖を感じた」

彼の赤い瞳が揺れている。
そこにあるのは、いつもの「絶対的な自信」ではなく、弱々しい男の顔だった。

「ルーカス様……」

「だが、野菜クズの匂いが微かに残る君の書き置きを見て、安心したよ。君はただ、サボりたかっただけなのだと」

(匂いのことは言わないで)

「だから、俺は怒っていない。ただ、迎えに来ただけだ」

ルーカスは手を伸ばし、私の濡れた髪を指で梳いた。

「帰ろう、ダリア。君の居場所は、野菜の山の中ではない。俺の腕の中だ」

なんてキザな台詞だ。
温泉の中で、全裸の男女が向かい合って言う台詞ではない。
でも、不思議と嫌悪感はなかった。
むしろ、ここまで追いかけてきてくれた彼の執念に、呆れを通り越して感動すら覚えている自分がいた。

「……一つ、条件があります」

私はお湯の中で膝を抱えながら言った。

「何だ?」

「この温泉旅行。あと二日は続けさせてください。せっかく来たんです。温泉饅頭も食べてないし、卓球もしてないんです」

「……フッ」

ルーカスは吹き出した。

「いいだろう。俺も休暇を取ってきた。二日間、たっぷりと君の『温泉接待』に付き合おう」

「接待じゃなくて、共同生活です!」

「同じことだ」

ルーカスは、岩の上に置いてあった私のタオルを手に取り、バサッと広げた。

「さあ、上がろう。のぼせてしまう」

「み、見ないでくださいよ!」

「安心しろ。湯気が濃くて何も見えん(嘘だが)」

彼は私をタオルで包み込むと、軽々と抱き上げた。
いわゆる「お風呂上がりのお姫様抱っこ」だ。
恥ずかしさで顔が爆発しそうだが、彼の胸板の安定感に、またしても私の体は敗北した。

「……重くないですか?」

「君一人の重さなど、羽毛のようなものだ。それに……」

彼は私の耳元で囁いた。

「野菜の匂いは消えて、いい匂いがする」

「っ!!」

私は彼の胸をポカポカと叩いたが、彼は楽しそうに笑うだけだった。

こうして、私の決死の逃亡劇は、温泉地での「混浴ハプニング(未遂)」を経て、あっけなく幕を閉じた。
残りの二日間、私はルーカスに卓球でコテンパンに負かされ、温泉饅頭を口移しで食べさせられそうになり(全力で拒否した)、結果的に「新婚旅行のリハーサル」のような時間を過ごすことになった。

自由への道は遠い。
だが、この「籠の中の鳥」生活も、温泉付きなら悪くないかも……と、ちょっぴり思い始めていたのは、ここだけの秘密だ。
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