私が本当に好きなのは、元婚約者の完璧すぎる兄上なんです

夏乃みのり

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 王宮の奥深く、バラが咲き乱れる秘密の庭園。

 そこは、アラルク様が選ばれた賓客のみを招くという特別な場所だった。

 私は今、その「特別な場所」で、世界で一番尊い顔面の持ち主と対峙している。

「……どうした、ルルノ。手が震えているぞ。この最高級の紅茶を、庭のバラにぶちまけるつもりか?」

 アラルク様が、優雅にカップを傾けながら私を覗き込んできた。

「滅相もございませんわ。あまりの香りの良さに、私の魂が浄化されそうになっているだけですの」

 私はプルプルと震える指先で、なんとかカップを口元へ運んだ。

 謹慎中のはずなのに、「兄上が呼んでいる」という一言で公爵邸の門番が全員土下座して道を開けたのは、もはや笑うしかない。権力ってすごいのね。

「ふん、魂の浄化か。君のような悪女には、毒の方がお似合いだと思っていたが」

「あら、毒ならもう頂いていますわ。アラルク様という、あまりにも甘美で致死量の高い毒を……」

 私は震える指で、精一杯の流し目を送った。

 アラルク様は一瞬、眉を動かしたが、すぐにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「ほう。なら、その毒を最後まで飲み干す覚悟はあるんだろうな?」

 彼はテーブル越しに身を乗り出し、私の手元にある小さな皿を指差した。

 そこには、見たこともないほど真っ黒な、けれどスパイスの香りが鼻をくすぐる焼き菓子が乗っていた。

「それは我が国の南方に伝わる、非常に辛くて苦い菓子だ。……悪女を自称する君なら、平気だろう?」

(……出たわ! アラルク様のS気炸裂! これ、絶対めちゃくちゃ不味いやつでしょ!?)

「もちろんですわ! 私は刺激的なものが大好きですの。これくらいの刺激、朝飯前ですわ!」

 私は覚悟を決め、その真っ黒な塊を口に放り込んだ。

「――っ!!」

 瞬間、口の中に溶岩を流し込まれたような衝撃と、漢方薬を煮詰めたような苦味が広がった。

 涙がじわりと滲む。鼻に抜ける香りは、もはや兵器のレベルだ。

「……どうだ、ルルノ」

「……っ、おいし、いですわ……。まるでお父様に、お尻を叩かれた時のような……情熱的な味ですわね……!」

「君の家庭環境を疑うような感想はやめろ」

 アラルク様はクスクスと肩を揺らして笑った。

 その笑顔があまりにも綺麗で、口の中の地獄なんてどうでもよくなってしまう。

「……ルルノ。君は、セドリックがマリアンヌ嬢を選んだとき、本当は何を思っていた?」

 不意に、アラルク様の声から遊びが消えた。

 彼は真剣な眼差しで、私の瞳の奥を覗き込んでくる。

「……何を、ですわか?」

「悲しかったか? それとも、プライドを傷つけられて怒りを感じたか?」

 私はゆっくりと、口の中の不味い菓子を紅茶で流し込んだ。

 そして、アラルク様の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「悲しみも、怒りもございませんわ。……あるのは、安堵と希望だけです」

「安堵と、希望?」

「はい。あの方の隣にいるのが私ではないと決まった瞬間、私はようやく『自分自身の人生』を歩き出せると確信しましたの。……そして、本当に欲しいものに手を伸ばせると」

 私はテーブルの下で拳を握りしめ、言葉を続けた。

「私は悪女です。ですから、誰かの幸せのために自分を犠牲にするなんて、これっぽっちも思っておりませんわ。……私は、私が一番幸せになれる場所を、力ずくで手に入れるだけです」

 アラルク様はしばらくの間、黙って私を見つめていた。

 庭園を吹き抜ける風が、バラの香りを運んでくる。

「……力ずく、か。君らしいな」

 アラルク様は立ち上がると、私の背後に回り込んだ。

 そして、私の肩にそっと手を置いた。

「なら、俺をその『幸せになれる場所』の一部だと思っているのなら、相応の覚悟を見せてもらおう。……君が俺の隣に立つにふさわしい、本物の悪女であることをな」

(……ひ、ひいいいいい! 耳元で囁かれた! 心臓が! 心臓が祭りを開催しているわ!)

「お、お望み通りに……! 世界中を敵に回してでも、あなたの隣を勝ち取ってみせますわ!」

「期待しているよ。……あ、言い忘れていたが、その菓子は毒消しの効果もある。口直しにこれを食べろ」

 アラルク様が差し出したのは、宝石のように美しい、甘い琥珀糖だった。

 飴を口に含むと、先ほどの苦味が嘘のように消え、爽やかな甘さが広がった。

 アラルク様という人は、アメとムチの使い分けが完璧すぎる。

(……好き。無理。尊い。一生ついていくわ!)

 私の心の中は、もはや「悪女」のプライドなんて微塵も残っていない、ただの盲目的な信者の叫びで埋め尽くされていた。
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