婚約破棄後、優雅な引退ライフを目指すも、なぜか溺愛されまして!?~

夏乃みのり

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「エミリエ・フォン・ルグランス! 貴様のような性悪女との婚約は、今この時をもって破棄する!」

王城の最も華やかな大広間。

きらびやかなシャンデリアの下、王太子の絶叫が響き渡った。

オーケストラの優雅な演奏はピタリと止まり、談笑していた貴族たちは、まるで時が止まったかのように動きを止める。

グラスのカチンという音が一つ、静寂に落ちた。

衆人環視の中、舞台の中央で人差し指を突きつけているのは、この国の第一王子、ロランド・アークライトである。

見事な金髪に碧眼。

黙っていれば童話から抜け出したような王子様だが、今の彼の顔は興奮で赤く上気し、鼻の穴はふくらみ、残念なことこの上ない。

そして、その腕にしっかりと抱きついているのは、小動物のような愛くるしさを持つ男爵令嬢、リリーナだった。

「お、恐ろしいですわ、ロランド様ぁ……エミリエ様が、私を睨んでいらっしゃいますぅ」

「大丈夫だ、僕の愛しいリリーナ。僕が君を守る。この悪女の手からな!」

ロランドはリリーナの頭を撫でながら、改めて私――公爵令嬢エミリエを睨みつけた。

私は扇子で口元を隠し、その様子を冷ややかに見下ろした。

(……はぁ。やっとですか)

私の心の中に湧き上がった感情は、悲しみでも絶望でもない。

「安堵」と「呆れ」、そして強烈な「計算」だった。

私はゆっくりと扇子を畳む。

パチン、という乾いた音が、静まり返った広間に響いた。

「殿下。今、なんと仰いましたか?」

「ふん、聞こえなかったのか? 婚約破棄だと言ったんだ! 貴様のような嫉妬深い女は、将来の国母にふさわしくない!」

「嫉妬深い、ですか」

「そうだ! 貴様はリリーナの純粋さを妬み、数々の嫌がらせを行ってきただろう! しらばっくれるなよ、証拠はあがっている!」

ロランドが得意げに胸を張る。

周囲の貴族たちがざわめき始めた。

「まあ、エミリエ様が?」

「やはり噂は本当だったのか」

「あんなにお美しいのに、心は氷のように冷たいと聞いていたが……」

ひそひそとした陰口が耳に届くが、そんなものは私の関心事ではない。

重要なのは、この茶番劇をいかに「利益」に変えるかだ。

「嫌がらせ、とは具体的にどのようなことでしょうか」

私は淡々と尋ねた。

ロランドは待ってましたとばかりに、声を張り上げる。

「とぼけるな! 先日のガーデンパーティーで、リリーナのドレスにワインをかけたのは貴様だろう!」

「……ああ、あの安っぽいピンク色のドレスのことですか」

「なっ、安っぽいとはなんだ! リリーナによく似合っていた愛らしいドレスだ!」

「殿下、よく思い出してくださいませ。あの時、私は会場の反対側で、財務大臣と税収についての議論をしておりました。目撃者も多数おりますが?」

「ぐっ……そ、それは、貴様が手下に命じたに違いない!」

「私の手下? 我が家の使用人は皆、優秀ですので、あのような雑な仕事はいたしません。ワインをかけるなら、シミ抜きが不可能な最高級ヴィンテージを、逃げ場のない回廊で確実に浴びせますわ」

「き、貴様……!」

ロランドが言葉に詰まる。

リリーナが涙目で訴えた。

「で、でもぉ! エミリエ様は私の教科書を破いたり、階段から突き落とそうとしたりしましたわ!」

「教科書? リリーナ様、貴女が学園の授業に出ていないことは存じ上げておりますが、教科書を持っていらしたのですか? それは初耳です」

「うっ……! ひ、酷いですぅロランド様ぁ!」

「ええい、黙れエミリエ! 貴様のその減らず口が気に入らんのだ!」

ロランドは地団駄を踏みそうな勢いだ。

そもそも、この男は昔からそうだった。

自分の思い通りにならないことがあると、すぐに感情的になり、事実確認もせずに騒ぎ立てる。

王太子としての資質は皆無。

顔が良いだけの装飾品。

そんな彼との婚約は、私にとって苦痛以外のなにものでもなかった。

「真実の愛」に酔いしれるのは勝手だが、私を悪役にして盛り上がるのはやめていただきたい。

いや、むしろ好都合か。

私は懐に忍ばせていた「ある書類」の感触を確かめる。

「つまり殿下は、私との婚約を白紙に戻し、そちらのリリーナ様と結ばれたいと。そう仰るのですね?」

「その通りだ! リリーナこそが、僕の運命の相手であり、真の聖女となるべき女性だ!」

「聖女、ですか……」

リリーナのどこに聖女の要素があるのか、顕微鏡で見ても見つからない自信があるが、今はそれを指摘する場面ではない。

「わかりました。では、一つだけ確認させてください」

「なんだ? 今さら泣いて許しを乞うても遅いぞ」

「いえ、そういうことではなく」

私はスッと背筋を伸ばし、凛とした声を広間に響かせた。

「この婚約破棄は、殿下の一方的なご都合によるもの。そして、その原因は私の有責ではなく、殿下の『心変わり』および『不実』にある。……この認識でよろしいですね?」

「は、はあ? 何を小難しいことを……」

「イエスかノーでお答えください」

私の気迫に押されたのか、ロランドはたじろぎながらも叫んだ。

「だ、だからそうだと言っているだろう! 僕が貴様を捨てて、リリーナを選んだんだ! 悪いのは、愛される努力を怠った貴様だ!」

「言質、いただきましたわ」

私はニッコリと微笑んだ。

おそらく、この場にいる誰も見たことがないであろう、満面の笑みで。

「――っ!?」

ロランドとリリーナが、ゾッとしたように身を引く。

私は懐から、分厚い封筒を取り出した。

「では、こちらにサインをお願いいたします」

「な、なんだそれは」

「『婚約破棄合意書』および『慰謝料請求書』です」

「は?」

ロランドが間の抜けた声を出す。

私は封筒から書類を取り出し、流れるような手つきで広げた。

「以前から、殿下がリリーナ様と親密な関係にあることは調査済みでした。いつかこうなると思い、準備しておりましたの」

「ちょ、調査だと……?」

「ええ。デートの回数、贈られたプレゼントの総額、公務をサボってリリーナ様と過ごされた時間……すべて記録してあります。それに基づき、私の精神的苦痛に対する慰謝料、および公爵家への損害賠償を算出いたしました」

私はドレスのポケットから、小型の魔道具式計算機を取り出した。

タタタタタッ!

軽快な指さばきでキーを叩く音が、静寂のホールに響き渡る。

「慰謝料の基本額に加え、悪意ある誹謗中傷への加算、さらにこの婚約のために私が費やした『王妃教育費』『衣装代』『美容代』……あ、そうそう、殿下が私の誕生日にくださると言って忘れていたプレゼント代も上乗せしておきますね」

「ま、待て! 何を勝手なことを!」

「勝手? 契約社会において当然の権利です。愛がないなら、せめて金銭で誠意を見せていただかないと」

私は弾き出された数字を、ロランドの目の前に突きつけた。

「合計金額は、こちらになります」

「なっ……!?」

提示された金額を見て、ロランドの目が飛び出るほど見開かれる。

「いち、じゅう、ひゃく……こ、国家予算並みじゃないか!」

「分割払いは認めません。即金でお願いします。もしお支払いいただけない場合は、この詳細な『浮気記録』を周辺諸国にばら撒き、我が公爵家の全力をもって経済制裁を発動させていただきます」

「き、脅迫だ!」

「いいえ、ビジネスです」

私は冷然と言い放った。

会場の空気が変わる。

先ほどまで私を憐れんでいた貴族たちが、今は畏怖の眼差しを向けている。

「さあ、殿下。愛するリリーナ様との未来のためです。安いものでしょう?」

「う、うう……」

ロランドが脂汗を流して後ずさる。

その横で、リリーナが状況を理解できずにポカンと口を開けていた。

まさに、ここまでは完璧な計画通り。

――そう、ここまでは。

「くくっ……あはははは!」

不意に、会場の二階、賓客用のバルコニーから低い笑い声が降ってきた。

全員の視線が上に向く。

そこには、氷のような銀髪をなびかせ、夜の闇を溶かしたような瞳を持つ、圧倒的な美貌の男が立っていた。

隣国の大国、バルバロッサ帝国の若き皇帝。

『氷の皇帝』と恐れられる、アレクセイ・フォン・バルバロッサその人だった。

彼は手すりに頬杖をつき、楽しげに目を細めて私を見下ろしている。

「面白い。実に面白い女だ」

その低い声は、広間の空気をビリビリと震わせた。

「婚約破棄の修羅場で、涙ではなく電卓を叩く令嬢など初めて見たぞ」

(……げっ)

私は内心で舌打ちをした。

想定外の観客だ。

彼のような大物がこの場にいることは知っていたが、まさか関心を持たれるとは。

アレクセイはバルコニーから身を乗り出し、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべた。

「気に入った。その請求書、私が肩代わりしてやろうか?」

「……はい?」

私の計算機を持つ手が、初めて止まった。

「その代わり、君を私の国へ連れて帰る。……拒否権はないぞ?」

私の平穏な(予定だった)慰謝料引退ライフに、とんでもない嵐が吹き込んできた瞬間だった。
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