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「……拒否権はない、とは穏やかではありませんね」
私は頭上のバルコニーを見上げ、冷静に返答した。
相手は泣く子も黙る『氷の皇帝』アレクセイ・フォン・バルバロッサ。
隣国の支配者であり、冷徹無比な軍人皇帝としても名高い人物だ。
彼が介入してきたことで会場の空気は凍りついているが、私にとっては「新たな取引先候補」でしかない。
「陛下。申し出は大変ありがたいのですが、これは私とこちらのバカ――いえ、ロランド殿下との間の債務問題です。部外者の介入は、商談の複雑化を招きますので」
「商談、か。婚約破棄をそう呼ぶ令嬢は初めてだ」
アレクセイは喉を鳴らして笑うと、ひらりとバルコニーを飛び越えた。
着地音すらさせず、私の目の前に降り立つ。
近くで見ると、その美貌は暴力的なほどだった。
透き通るような銀髪に、吸い込まれそうな夜色の瞳。
背は高く、威圧感があるはずなのに、不思議と恐怖は感じない。
むしろ、漂ってくる最高級の香水の香りに、「この香料は東方の希少種だな、原価高そう」などと考えてしまうのが私の職業病だ。
「おい、アレクセイ! 僕の婚約破棄に口を出すな!」
蚊帳の外に置かれたロランドが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「だいたい、その請求額はなんだ! ふざけるな! こんな大金、払えるわけがないだろう!」
「払えない?」
私はアレクセイから視線を外し、哀れな元婚約者に向き直った。
「おかしいですね。殿下は以前、『真実の愛のためなら、王位も財産も惜しくない』と詩的に語っておられましたよね? その愛の値段が、これです」
私は請求書を指先で弾く。
「惜しいと仰るなら、貴方の愛はその程度だったということですわ」
「ぐぬぬ……っ! だ、だが、その内訳がおかしいと言っているんだ! 『精神的苦痛』だと? 貴様のような鉄の女が傷つくわけがない!」
「傷つきましたとも。心が張り裂けそうで、夜もぐっすり8時間しか眠れませんでした」
「十分寝てるじゃないか!」
「それに、これをご覧ください」
私は、従者に命じて持ってこさせたトランクを開けた。
中から取り出したのは、大量の「魔道具写真」だ。
魔力を流すと、過去の光景が鮮明に浮かび上がる高価な代物である。
私はそれをトランプのように広げ、ロランドの目の前に突き出した。
「な、なんだこれは……」
「証拠物件AからZです」
一枚目を指差す。
「これは三ヶ月前の午後二時。公務を『腹痛』でサボり、リリーナ様と城下のカフェでパフェを食べている殿下です」
「げっ」
「二枚目。先月の予算会議の日。『急な視察』と称して、リリーナ様と湖でボートに乗っている殿下」
「ど、どうしてそれを……」
「三枚目。これは傑作ですわ。私の誕生日に『君へのプレゼントを探しに行く』と言って出かけ、リリーナ様に宝石を買ってあげている殿下。ちなみにその宝石代、公費ではなく王室の予備費から出ていますね? 横領ですよ」
「ひぃっ!?」
ロランドが青ざめる。
周囲の貴族たちが、「最低だ……」「横領はまずいだろう」「あんなに堂々と浮気を……」と白い目を向け始めた。
リリーナが金切り声を上げる。
「い、嫌ぁ! なんで覗き見してるんですかぁ! エミリエ様のストーカー! 変態!」
「人聞きの悪いことを仰らないで。これは『市場調査』です。投資先(=婚約者)が不良債権化していないかチェックするのは、マネージメントの基本でしょう?」
私は冷徹に言い放ち、さらに電卓を叩いた。
タタタッ! という音が、銃声のように響く。
「調査費用、探偵雇用費、現像代、および『見たくもないバカップルのイチャつきを見せられた私の視覚への慰謝料』……これらも追加させていただきます」
「ま、まだ増えるのか!?」
「当然です。時は金なり。私の貴重な時間を、貴方たちの茶番劇に使わせたのですから」
私は一歩、ロランドに詰め寄った。
コツン、とヒールの音が鳴る。
「殿下。貴方は私を『金にがめつい女』だと思っているでしょう?」
「そ、そうだ! 貴様はいつも金の話ばかり! ロマンのかけらもない!」
「ええ、その通りです。私はロマンよりもパンを愛しますし、愛の言葉よりも銀行の残高照会にときめきます」
私は胸を張って断言した。
「ですが、勘違いしないでいただきたい。私は金が好きなのではなく、『約束と対価』を重んじているだけです」
「約束……?」
「婚約とは契約です。貴方はそれを一方的に破棄し、不実を働いた。ならば、契約に基づき違約金を支払う。これは商売の、いえ、人間社会の基本ルールです」
私はロランドの胸元に、請求書を叩きつけた。
「愛がないなら、金をよこせ。シンプルでしょう?」
「…………ッ」
ロランドは言葉を失い、膝から崩れ落ちた。
あまりの金額と、反論の余地のない正論(と物理的な証拠)に、完全に心が折れたようだ。
「ロ、ロランド様ぁ……しっかりしてくださいぃ……」
リリーナが揺さぶるが、彼は燃え尽きた灰のように反応しない。
「さて」
私は一仕事終えた充実感とともに、再びアレクセイの方を向いた。
彼は先ほどから、腹を抱えて笑いを堪えている。
「お見苦しいところをお見せしました、皇帝陛下。……さて、先ほどのお話ですが」
「ああ。私が肩代わりしてやるという話か?」
「はい。ですが、タダでとは言いませんよね?」
「もちろんだ。私は慈善事業家ではない」
アレクセイはニヤリと笑い、私の手を取った。
その手は大きく、熱かった。
「その請求額、私が全額キャッシュで支払おう。我が国の国家予算から見れば、はした金だ」
周囲がどよめく。
公爵令嬢への慰謝料としては破格の金額を「はした金」と言い切る皇帝の財力に、誰もが息を呑んだ。
「その代わり、エミリエ嬢。君のその『才能』を私が買う」
「才能、ですか?」
「ああ。徹底した現金主義、冷徹な計算能力、そして一国の王子を論破して再起不能にする胆力……。すべて、我が国に必要な人材だ」
アレクセイは私の顔を覗き込み、悪戯っぽい瞳で囁いた。
「どうだ? バカ王子の元で腐るより、私の元でその才能を換金してみないか? 待遇は言い値で構わない」
「……言い値、ですか」
その言葉に、私の計算機(あたま)がフル回転を始めた。
隣国バルバロッサは、軍事力こそ最強だが、内政や経済面ではまだ発展途上と聞く。
つまり、そこに私が介入する余地は無限にある。
しかも、皇帝直々のヘッドハンティング。
これは、またとない「優良物件」ではないか?
私はチラリと、床に伏しているロランドを見た。
彼からこの金額を回収するのは、現実的に数年かかるだろう。
分割払いになれば、その都度顔を合わせなければならない。ストレスで肌が荒れる。
ならば、ここで債権を皇帝に譲渡(ファクタリング)し、私は新たな市場(隣国)へ進出するのが、最も合理的かつ高利益な選択……!
私は電卓をドレスのポケットにしまい、優雅にカーテシーをした。
「承知いたしました、陛下。いえ……新しい『ボス』」
私はアレクセイの手を握り返す。
「その商談、成立とさせていただきます。ただし」
「ただし?」
「残業代、休日出当、および危険手当は別途請求させていただきますので、あしからず」
アレクセイは目を丸くし、それから盛大に吹き出した。
「ははは! いいだろう! 望むところだ、強欲な悪役令嬢!」
こうして、私の婚約破棄騒動は、予想外の「転職」へと繋がったのだった。
私は頭上のバルコニーを見上げ、冷静に返答した。
相手は泣く子も黙る『氷の皇帝』アレクセイ・フォン・バルバロッサ。
隣国の支配者であり、冷徹無比な軍人皇帝としても名高い人物だ。
彼が介入してきたことで会場の空気は凍りついているが、私にとっては「新たな取引先候補」でしかない。
「陛下。申し出は大変ありがたいのですが、これは私とこちらのバカ――いえ、ロランド殿下との間の債務問題です。部外者の介入は、商談の複雑化を招きますので」
「商談、か。婚約破棄をそう呼ぶ令嬢は初めてだ」
アレクセイは喉を鳴らして笑うと、ひらりとバルコニーを飛び越えた。
着地音すらさせず、私の目の前に降り立つ。
近くで見ると、その美貌は暴力的なほどだった。
透き通るような銀髪に、吸い込まれそうな夜色の瞳。
背は高く、威圧感があるはずなのに、不思議と恐怖は感じない。
むしろ、漂ってくる最高級の香水の香りに、「この香料は東方の希少種だな、原価高そう」などと考えてしまうのが私の職業病だ。
「おい、アレクセイ! 僕の婚約破棄に口を出すな!」
蚊帳の外に置かれたロランドが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「だいたい、その請求額はなんだ! ふざけるな! こんな大金、払えるわけがないだろう!」
「払えない?」
私はアレクセイから視線を外し、哀れな元婚約者に向き直った。
「おかしいですね。殿下は以前、『真実の愛のためなら、王位も財産も惜しくない』と詩的に語っておられましたよね? その愛の値段が、これです」
私は請求書を指先で弾く。
「惜しいと仰るなら、貴方の愛はその程度だったということですわ」
「ぐぬぬ……っ! だ、だが、その内訳がおかしいと言っているんだ! 『精神的苦痛』だと? 貴様のような鉄の女が傷つくわけがない!」
「傷つきましたとも。心が張り裂けそうで、夜もぐっすり8時間しか眠れませんでした」
「十分寝てるじゃないか!」
「それに、これをご覧ください」
私は、従者に命じて持ってこさせたトランクを開けた。
中から取り出したのは、大量の「魔道具写真」だ。
魔力を流すと、過去の光景が鮮明に浮かび上がる高価な代物である。
私はそれをトランプのように広げ、ロランドの目の前に突き出した。
「な、なんだこれは……」
「証拠物件AからZです」
一枚目を指差す。
「これは三ヶ月前の午後二時。公務を『腹痛』でサボり、リリーナ様と城下のカフェでパフェを食べている殿下です」
「げっ」
「二枚目。先月の予算会議の日。『急な視察』と称して、リリーナ様と湖でボートに乗っている殿下」
「ど、どうしてそれを……」
「三枚目。これは傑作ですわ。私の誕生日に『君へのプレゼントを探しに行く』と言って出かけ、リリーナ様に宝石を買ってあげている殿下。ちなみにその宝石代、公費ではなく王室の予備費から出ていますね? 横領ですよ」
「ひぃっ!?」
ロランドが青ざめる。
周囲の貴族たちが、「最低だ……」「横領はまずいだろう」「あんなに堂々と浮気を……」と白い目を向け始めた。
リリーナが金切り声を上げる。
「い、嫌ぁ! なんで覗き見してるんですかぁ! エミリエ様のストーカー! 変態!」
「人聞きの悪いことを仰らないで。これは『市場調査』です。投資先(=婚約者)が不良債権化していないかチェックするのは、マネージメントの基本でしょう?」
私は冷徹に言い放ち、さらに電卓を叩いた。
タタタッ! という音が、銃声のように響く。
「調査費用、探偵雇用費、現像代、および『見たくもないバカップルのイチャつきを見せられた私の視覚への慰謝料』……これらも追加させていただきます」
「ま、まだ増えるのか!?」
「当然です。時は金なり。私の貴重な時間を、貴方たちの茶番劇に使わせたのですから」
私は一歩、ロランドに詰め寄った。
コツン、とヒールの音が鳴る。
「殿下。貴方は私を『金にがめつい女』だと思っているでしょう?」
「そ、そうだ! 貴様はいつも金の話ばかり! ロマンのかけらもない!」
「ええ、その通りです。私はロマンよりもパンを愛しますし、愛の言葉よりも銀行の残高照会にときめきます」
私は胸を張って断言した。
「ですが、勘違いしないでいただきたい。私は金が好きなのではなく、『約束と対価』を重んじているだけです」
「約束……?」
「婚約とは契約です。貴方はそれを一方的に破棄し、不実を働いた。ならば、契約に基づき違約金を支払う。これは商売の、いえ、人間社会の基本ルールです」
私はロランドの胸元に、請求書を叩きつけた。
「愛がないなら、金をよこせ。シンプルでしょう?」
「…………ッ」
ロランドは言葉を失い、膝から崩れ落ちた。
あまりの金額と、反論の余地のない正論(と物理的な証拠)に、完全に心が折れたようだ。
「ロ、ロランド様ぁ……しっかりしてくださいぃ……」
リリーナが揺さぶるが、彼は燃え尽きた灰のように反応しない。
「さて」
私は一仕事終えた充実感とともに、再びアレクセイの方を向いた。
彼は先ほどから、腹を抱えて笑いを堪えている。
「お見苦しいところをお見せしました、皇帝陛下。……さて、先ほどのお話ですが」
「ああ。私が肩代わりしてやるという話か?」
「はい。ですが、タダでとは言いませんよね?」
「もちろんだ。私は慈善事業家ではない」
アレクセイはニヤリと笑い、私の手を取った。
その手は大きく、熱かった。
「その請求額、私が全額キャッシュで支払おう。我が国の国家予算から見れば、はした金だ」
周囲がどよめく。
公爵令嬢への慰謝料としては破格の金額を「はした金」と言い切る皇帝の財力に、誰もが息を呑んだ。
「その代わり、エミリエ嬢。君のその『才能』を私が買う」
「才能、ですか?」
「ああ。徹底した現金主義、冷徹な計算能力、そして一国の王子を論破して再起不能にする胆力……。すべて、我が国に必要な人材だ」
アレクセイは私の顔を覗き込み、悪戯っぽい瞳で囁いた。
「どうだ? バカ王子の元で腐るより、私の元でその才能を換金してみないか? 待遇は言い値で構わない」
「……言い値、ですか」
その言葉に、私の計算機(あたま)がフル回転を始めた。
隣国バルバロッサは、軍事力こそ最強だが、内政や経済面ではまだ発展途上と聞く。
つまり、そこに私が介入する余地は無限にある。
しかも、皇帝直々のヘッドハンティング。
これは、またとない「優良物件」ではないか?
私はチラリと、床に伏しているロランドを見た。
彼からこの金額を回収するのは、現実的に数年かかるだろう。
分割払いになれば、その都度顔を合わせなければならない。ストレスで肌が荒れる。
ならば、ここで債権を皇帝に譲渡(ファクタリング)し、私は新たな市場(隣国)へ進出するのが、最も合理的かつ高利益な選択……!
私は電卓をドレスのポケットにしまい、優雅にカーテシーをした。
「承知いたしました、陛下。いえ……新しい『ボス』」
私はアレクセイの手を握り返す。
「その商談、成立とさせていただきます。ただし」
「ただし?」
「残業代、休日出当、および危険手当は別途請求させていただきますので、あしからず」
アレクセイは目を丸くし、それから盛大に吹き出した。
「ははは! いいだろう! 望むところだ、強欲な悪役令嬢!」
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