「悪役令嬢」の烙印? どうでもいいので、財政赤字です!

夏乃みのり

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「……空気が悪いですね」

王都の城門が見えてきた頃、私は馬車の窓を開けて呟いた。

物理的な意味でも、雰囲気的な意味でもだ。

久しぶりに見る王都は、どんよりとした灰色の空に覆われていた。

かつては華やかだった大通りも、どこか薄汚れている。

道を行き交う人々の表情も暗く、活気がない。

「……清掃予算が削減されたようだな」

隣に座るカエル公爵が、鋭い視線で街並みを観察する。

「排水溝が詰まっている。ゴミの収集も滞っているようだ。……衛生環境が悪化している」

「よく気付きましたね、閣下。その通りです」

私は満足げに頷いた。

「公衆衛生への投資をケチると、疫病リスクが高まり、結果として医療費や労働力の損失で高くつきます。……典型的な『安物買いの銭失い』の行政です」

「お前の口癖だな」

「真理ですから」

私たちは冷静に分析していたが、状況はそれほど悠長ではなかった。

城門の前には、物々しい装備に身を包んだ一団が待ち構えていたからだ。

王室近衛騎士団。

煌びやかな鎧を着ているが、その磨き方は甘く、隊列も乱れている。

私の「効率化フィルター」を通せば、彼らの戦闘力(コストパフォーマンス)が低いことは一目瞭然だった。

「止まれ! 止まれぇい!」

隊長らしき男が、剣を抜いて馬車の前に立ちはだかった。

御者が慌てて手綱を引く。

馬車が急停止し、車体が大きく揺れた。

「……来たか」

公爵が腰の剣に手を伸ばす。

「待ってください。まずは対話です。交渉の余地があるか、コスト計算します」

私は彼を制して、ゆっくりと馬車の扉を開けた。

ステップを降りると、数十人の騎士たちが一斉に槍を向けてきた。

「エルミタージュ公爵、およびミュナ・ガニエールだな!」

隊長が勝ち誇ったように叫んだ。

「王太子殿下の命により、貴様らを『国家反逆』および『公金横領』の容疑で拘束する!」

「……拘束、ですか」

私は扇を取り出し、口元を隠した。

「逮捕状は? 裁判所の令状はありますか?」

「問答無用! 殿下の言葉こそが法だ!」

「前時代的ですね。法治国家としてのプロセスを無視するとは」

私はため息をついた。

「それで? 私たちをどうするつもりですか? 牢屋へ?」

「そうだ! 大罪人には冷たい石の床がお似合いだ! ……特に貴様だ、ミュナ・ガニエール!」

隊長が私に近づき、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた。

「殿下はお怒りだぞ。生意気な女め。……その高慢な鼻をへし折ってやる。手錠を出せ!」

部下が粗末な鉄の手錠を持ってきた。

錆びている。

あんな不衛生なものを肌につけたら、破傷風になるリスクがある。

「手を出しな! おらっ!」

隊長が私の腕を乱暴に掴もうとした。

その瞬間だった。

ヒュッ。

風を切る音がしたかと思うと、

ガギィィン!!

金属音が響き、隊長の足元の石畳が砕け散った。

「ひぃっ!?」

隊長が飛び退く。

私の目の前には、抜身の剣を持ったカエル公爵が立っていた。

その背中からは、吹雪のような冷気が立ち上っている。

「……その汚い手で、彼女に触れるな」

声は低く、静かだった。

だが、その静けさが逆に恐ろしい。

絶対零度の殺気。

周囲の騎士たちが、恐怖で後ずさりする。

「カ、カエル公爵! き、貴様、近衛兵に剣を向けるか! これこそ反逆だぞ!」

「反逆? 笑わせるな」

公爵は冷ややかに言い放った。

「俺は辺境を守る軍人だ。……害獣から領民を守るのが仕事だ」

「が、害獣だと!? 我々のことか!」

「令状もなく、礼儀もなく、ただ欲望のままに淑女の腕を掴もうとする。……それを獣と言わずして何と言う」

公爵の剣先が、隊長の鼻先数ミリで止まる。

「ミュナは俺の客人であり、最高のパートナーだ。……指一本でも触れてみろ。その腕、永遠に使い物にならなくしてやる」

「ひ、ひぃぃ……!」

隊長が腰を抜かしてへたり込む。

本物の「武」の前に、張り子の虎である近衛兵など無力だった。

公爵の怒りは本物だった。

私のために、王家の兵に刃を向ける。

それは政治的に見れば、極めて「非効率」で「リスクの高い」行動だ。

でも。

(……嬉しい)

不覚にも、胸が熱くなった。

損得勘定抜きで、私を守ろうとしてくれる。

その事実が、どんな宝石よりも価値あるものに思えた。

だが、ここで彼を犯罪者にするわけにはいかない。

私は一歩前に出て、公爵の腕にそっと手を添えた。

「……カエル様。下がってください」

「だが、ミュナ」

「暴力はコストがかかります。剣が刃こぼれしますし、返り血で服が汚れます」

私はニッコリと笑った。

「それに、こんな三流の兵士を相手にしても、貴方の剣の価値が下がるだけです」

「……む」

「私に任せてください。……想定の範囲内(織り込み済み)です」

私は隊長を見下ろした。

「手錠は結構です。逃げも隠れもしません。王宮までご同行しましょう」

「は、はあ……?」

「ただし、馬車で移動します。その汚い牢屋馬車には乗りません。衛生基準を満たしていませんので」

「な、何を勝手な……!」

「嫌なら、ここで公爵と『決闘』しますか? 勝率は万に一つもありませんが、治療費の予算は確保していますか?」

私が脅し(事実確認)をかけると、隊長は青ざめて首を横に振った。

「わ、分かった……。馬車での移動を許可する! ただし、逃げるなよ!」

「逃げませんよ。……精算に行くだけですから」

私たちは再び馬車に乗り込んだ。

扉が閉まると、公爵が不満げに剣を収めた。

「……なぜ止めた。あんな奴ら、一捻りだったのに」

「暴力で解決すると、こちらの正当性が失われます。……それに」

私は鞄から一枚の書類を取り出した。

「この事態を見越して、予算を組んでありますから」

「予算?」

「はい。『特別損失引当金』です」

「……なんだそれは」

「今回のような、理不尽なトラブルに対処するための予備費です。……具体的には、王都の有力な弁護士への依頼料、新聞記者へのリーク料、そして……民衆を味方につけるための工作費です」

私は不敵に笑った。

「彼らが私たちを『悪党』として捕らえれば捕らえるほど、私たちの『悲劇のヒーロー』としての価値は上がります。……宣伝効果は抜群です」

公爵はポカンとした後、呆れたように笑った。

「……お前、自分が捕まることまで計算に入れていたのか」

「当然です。ピンチはチャンス。……逮捕劇というイベントを、最大限に利用させてもらいます」

馬車は王宮へと進む。

窓の外では、市民たちが「あれは氷雪公爵だ」「隣にいるのは、あの悪役令嬢か?」「なんだか堂々としているな」と噂している。

私は背筋を伸ばし、優雅に微笑んで手を振った。

さあ、ショータイムの始まりだ。

王宮に到着すると、私たちはそのまま謁見の間へと通された。

玉座には国王陛下……ではなく、王太子アルベールが踏ん反り返って座っていた。

その隣には、新しいドレス(買えなかったはずだが、どうしたのだろう?)を着たクララが侍っている。

「よく来たな、罪人ども!」

アルベールが高らかに笑った。

「神妙にしろ! 僕の前だぞ!」

私はカーテシーもせず、直立したまま彼を見据えた。

「……お久しぶりです、殿下。相変わらず、無駄に声が大きいですね」

「なっ……! いきなり不敬だぞ!」

「事実を申し上げたまでです。……それで? 私たちが何をしたというのですか?」

「とぼけるな! 辺境での勝手な商売! 納税の拒否! これらは王家への反逆だ!」

アルベールは机を叩いた。

「よって、ミュナ・ガニエール! 貴様の私財をすべて没収する! そしてカエル・エルミタージュ! 貴様の爵位を剥奪し、領地を王家に返還させてもらう!」

言いたい放題だ。

会場にいた貴族たち――アルベールの取り巻きたち――が、「そうだそうだ!」と野次を飛ばす。

カエル公爵が殺気を放とうとするのを、私は目配せで制した。

そして、静かに口を開いた。

「……なるほど。財産没収、ですか」

「そうだ! 怖かろう! 今すぐ土下座して許しを乞えば、命だけは助けてやるぞ!」

「いえ、怖くはありません。ただ……」

私は懐から、分厚い帳簿を取り出した。

「没収されるのは構いませんが、その場合、当家の『負債』も一緒に引き継いでいただくことになりますが、よろしいですね?」

「……は? 負債?」

アルベールの顔が止まる。

「はい。現在、エルミタージュ領は大規模な投資を行っています。工場の建設費、材料の仕入れ代、輸送網の整備費……これらはすべて、銀行からの借入金で賄っています」

私は嘘をついた。

実際は、私の手腕で無借金経営だ。

だが、彼らに本当の帳簿を見せる義務はない。

「その総額、金貨五万枚。……領地を没収するということは、この借金の返済義務も王家に移るということです」

「ご、五万……!?」

アルベールの目が飛び出る。

「さらに、私個人も先物取引でレバレッジを効かせた投資を行っておりまして……失敗すれば、金貨十万枚の損失が出ます。没収するなら、このリスクも背負っていただきます」

「じゅ、十万……!」

会場がざわめく。

「おい、とんでもない借金持ちなんじゃないか?」

「没収したら、王家が破産するぞ……」

「あの女、実は火の車だったのか?」

計算ができない彼らは、私のハッタリを真に受けたようだ。

アルベールが狼狽する。

「う、嘘だ! 儲かっていると聞いたぞ!」

「ええ、売上はあります。ですが、投資額も莫大なのです。……ビジネスの基本ですよ? 『資産』と『負債』はセットなのです」

私は冷ややかに微笑んだ。

「さあ、どうされますか? 私の財産(と借金)を没収しますか? それとも……」

アルベールは脂汗を流した。

金が欲しくて呼んだのに、借金を押し付けられてはたまらない。

「くっ……! だ、騙されんぞ! お前がそんなに無能な経営をするはずがない!」

「おや、私を評価してくださるのですか? 光栄です」

「うるさい! とにかく、お前は有罪だ! 牢屋に入れ! 財産の調査が終わるまで、地下牢で頭を冷やせ!」

結局、議論を放棄して力技に出た。

衛兵たちが私たちを取り囲む。

「……行くぞ、ミュナ」

公爵が私の肩を抱いた。

「牢屋だろうがどこだろうが、俺がついていれば関係ない」

「ええ。……宿泊費が浮いたと考えましょう」

私たちは抵抗せず、連行された。

背後で、クララが「ざまあみなさい!」と叫んでいるのが聞こえた。

地下牢は、想像通り寒くて汚かった。

「……最悪の環境ですね」

私は鉄格子の向こうを見ながら呟いた。

「湿度は高いし、カビ臭い。これでは囚人の健康状態が悪化し、労働力としての価値が下がります」

「……お前、こんな時まで」

同じ牢屋に入れられた公爵が、壁に寄りかかって苦笑している。

「当然です。……それに、計算通りです」

「計算?」

「はい。アルベール殿下は、焦っています。調査なんて待てないはずです。すぐに私たちに『取引』を持ちかけてくるでしょう」

「取引?」

「『金を払えば出してやる』と。……それが彼の狙いですから」

私は冷たい石の床に、ハンカチを敷いて座った。

「ですが、私は一ゴルも払いません。……逆に、払わせるのです」

「どうやって?」

「見ていてください。……私の『特別損失引当金』の使い道を」

その時。

カツカツと、足音が近づいてきた。

現れたのは、アルベールでもクララでもなかった。

意外な人物の登場に、私は少しだけ目を丸くした。

「……久しぶりだな、ミュナ」

鉄格子の前に立ったのは、国王陛下その人だった。

お忍びなのだろう、フードを目深に被っているが、その威厳は隠せない。

「……陛下。このようなむさ苦しい場所に、何用でしょうか」

私が尋ねると、陛下は深くため息をついた。

「……アルベールの暴走を止められず、すまない」

「謝罪は結構です。実質的な損害賠償を求めます」

「……相変わらずだな」

陛下は苦笑し、懐から鍵を取り出した。

「ここから出すことはできん。今はアルベールが実権を握っているようなものでな。……だが、差し入れはできる」

陛下が差し出したのは、バスケットに入ったパンとチーズ、そしてワインだった。

「……それと、情報だ」

陛下は声を潜めた。

「明日の正午、公開裁判が開かれる。そこでアルベールは、偽造された証拠を使ってお前たちを断罪するつもりだ」

「偽造証拠ですか。想定内です」

「だが、陪審員も買収されている。……勝ち目はないぞ」

陛下は心配そうに私を見た。

「逃げるなら、今夜中に手引きをするが?」

それは、国王としての精一杯の譲歩だったのだろう。

だが、私は首を横に振った。

「逃げません。……逃げたら、私の『信用』に傷がつきます」

私は立ち上がり、鉄格子越しに陛下を見据えた。

「陛下。一つだけ、お願いがあります」

「なんだ?」

「明日の裁判……必ず、ご観覧ください。そして、王国の財務大臣も同席させてください」

「……何をする気だ?」

「公開監査(オーディット)です」

私はニヤリと笑った。

「王太子の不正経理を、国民の前で暴きます。……数字という名の断罪の剣で」

陛下は息を呑み、そして……ニヤリと笑い返した。

「……分かった。面白い。最前列で見届けさせてもらおう」

陛下が去った後、公爵が私を見た。

「……やる気満々だな」

「ええ。私の『怒り』は、公爵様のように熱くはありませんが……」

私は帳簿を撫でた。

「冷たく、重く、そして執念深いですよ?」

地下牢の夜。

私たちはワインを飲みながら、明日の作戦会議(という名の祝杯の前祝い)を行った。

カエル公爵の怒りは、私の計算によって鎮められ、今や静かな闘志へと変わっていた。

「守ってやる」と言った彼。

「守らせてあげる」と答えた私。

この二人が組んで、負けるはずがないのだ。

夜明けは近い。

アルベール殿下にとっての、終わりの始まりが迫っていた。
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