ざまぁ不要の悪役令嬢!婚約破棄は想定内、むしろご褒美ですわ!

夏乃みのり

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騎士団屯所の自室に戻ったアレクシスは、山積みの報告書を前に、深くため息をついた。

疲労は、確かに軽減されていた。あの黒く苦い液体は、まるで体に直接活力を注ぎ込むような、不思議な力を持っていた。

しかし、問題はそこではなかった。

(……あの味は、一体何だったんだ)

舌の上に、脳裏に、あの鮮烈な風味がこびりついて離れない。ただ苦いだけではない。その奥に潜む、複雑で、芳醇で、今まで一度も経験したことのない深い味わい。

報告書に書かれた文字が、まるで意味をなさず、頭の上を滑っていく。柄にもなく、彼は落ち着かなかった。

(もう一度……。いや、何を考えている。あのような軟弱な飲み物に、心を奪われるなど)

アレクシスは頭を振って雑念を追い払おうとしたが、あの店の、不思議な機械と、真剣な顔でそれを操っていた娘の姿が、瞼の裏に焼き付いていた。



一方、カフェ・アルケミスタでは。

「ふぅ、なんとか格好はついたかしら」

マリアンは、カウンターを磨き上げながら安堵のため息をついた。

あの無愛想な騎士団長が帰った後、ぽつり、ぽつりとではあるが、何人かの客が店を訪れたのだ。近所に住むパン屋の主人、向かいの仕立て屋の女将、そして噂を聞きつけたらしい若い女性二人組。

誰もが、マリアンの淹れるコーヒーの味に驚き、「また来るよ」と言って帰っていった。

「いやあ、大したもんですよ、マリアン様! この調子なら、すぐに人気店ですぜ!」

カイは、空になったカップを洗いながら上機嫌に言った。

「そうだといいのだけれど。さ、そろそろ店じまいの準備を……」

マリアンがそう言いかけた、その時だった。

カラン、と。

今日、二度目となるそのベルの音に、二人は入り口を振り返った。そこに立っていたのは、夕暮れの光を背負った、見覚えのある大きな影。

「……げっ」

思わずカイの口から、そんな声が漏れた。

騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス。彼が、再び店の前に立っていた。

「……まだ、やっているか」

「え、ええ。どうぞ、いらっしゃいませ」

先ほどよりも、ほんの少しだけ険が取れているように見えるのは、気のせいだろうか。アレクシスは、また同じカウンター席にどかりと腰を下ろした。

「……同じものを」

「かしこまりました」

マリアンは、内心の驚きを隠し、再び彼の為にコーヒーを淹れ始めた。

手持ち無沙汰になったアレクシスの視線が、カウンターの上を彷徨う。そして、ある一点でぴたりと止まった。

それは、マリアンが試作したクッキーが盛られた、小さなバスケットだった。その横には、可愛らしい文字でこう書かれた札が添えられている。

『ご自由にどうぞ。魔力回復効果あり?』

アレクシスは、その札をちらりと見ただけで、すぐに興味がなさそうに視線を外した。

(甘いものなど、軟弱な者の食い物だ)

そう、彼は筋金入りの辛党で通っていた。騎士たるもの、己を律し、甘えを許すべきではない。それが彼の信念だった。

しかし。

厨房のオーブンから漂ってくる、バターと砂糖の焼ける、悪魔的なまでに甘い香り。そして目の前にある、こんがりと焼き色のついた、素朴だが実直そうな見た目のクッキー。

マリアンが、新しい豆を取りに、一瞬だけ奥の棚へと姿を消した。カイは洗い物で手一杯だ。

(……一枚だけなら。味見だ。毒見と言ってもいい)

アレクシスは、誰にも見られていないことを確認すると、まるで重要な機密文書を盗み出す密偵のように、素早く、しかし音を立てずに、クッキーを一枚手に取った。

そして、それを一口で、口の中に放り込む。

その瞬間。

鉄仮面と名高い騎士団長の顔に、かつて誰も見たことのないほどの、鮮やかな衝撃が走った。

(な……んだ、この味は……っ!?)

サクサク、ほろり、と崩れる絶妙な歯触り。鼻腔をくすぐる、芳醇なバターの香り。そして、舌の上で優しく溶けていく、上品で、しつこくない甘さ。時折感じる、わずかな塩気とハーブの爽やかな風味が、その甘さをさらに引き立てている。

疲労した体に、その優しい甘さが、じんわりと染み渡っていく。

危険だ。これは、あまりにも、危険な味だ。

アレクシスは、己の信念も、騎士団長の威厳も忘れ、我を忘れてもう一枚、さらにもう一枚と、夢中でクッキーに手を伸ばしていた。

「あら」

マリアンがカウンターに戻ってきた時、バスケットはほとんど空っぽになっていた。

「クッキー、お口に合いましたか? 騎士団長様」

「っ!?」

アレクシスは、口の周りについたクッキーの粉を、慌てて手の甲で拭った。しまった、という顔で咳払いを一つする。

「……ああ。悪くは、なかった」

「そうですか、よかった。そのクッキー、少しだけですが、魔力の消耗を穏やかに回復させる薬草を混ぜ込んであるんですの。騎士団のお仕事は、お体も魔力も、たくさんお使いになるでしょうから」

何気ないマリアンの言葉に、アレクシスは少し驚いた。自分の仕事を理解した上で、この菓子は作られている。ただ甘いだけの、軟弱な菓子ではないのだ。

彼は、淹れられたコーヒーを静かに飲み干すと、クッキーの代金も含めた銀貨をカウンターに置いた。

そして、店を出る間際、一度だけ足を止め、振り返らずに、小さな声でぽつりと呟いた。

「……また、来る」

その言葉を、マリアンとカイは聞き逃さなかった。

「見ましたか、マリアン様! あの氷の騎士団長、完全に胃袋掴まれましたぜ!」

カイが興奮気味に言うのを、マリアンはくすくすと笑いながら見つめていた。

「ふふ、面白いお客様ができたものだわ」

無愛想で堅物な騎士団長の、誰にも知られていない「秘密の趣味」。その扉が、今、静かに開かれたのだった。
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