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騎士団屯所の自室に戻ったアレクシスは、山積みの報告書を前に、深くため息をついた。
疲労は、確かに軽減されていた。あの黒く苦い液体は、まるで体に直接活力を注ぎ込むような、不思議な力を持っていた。
しかし、問題はそこではなかった。
(……あの味は、一体何だったんだ)
舌の上に、脳裏に、あの鮮烈な風味がこびりついて離れない。ただ苦いだけではない。その奥に潜む、複雑で、芳醇で、今まで一度も経験したことのない深い味わい。
報告書に書かれた文字が、まるで意味をなさず、頭の上を滑っていく。柄にもなく、彼は落ち着かなかった。
(もう一度……。いや、何を考えている。あのような軟弱な飲み物に、心を奪われるなど)
アレクシスは頭を振って雑念を追い払おうとしたが、あの店の、不思議な機械と、真剣な顔でそれを操っていた娘の姿が、瞼の裏に焼き付いていた。
◇
一方、カフェ・アルケミスタでは。
「ふぅ、なんとか格好はついたかしら」
マリアンは、カウンターを磨き上げながら安堵のため息をついた。
あの無愛想な騎士団長が帰った後、ぽつり、ぽつりとではあるが、何人かの客が店を訪れたのだ。近所に住むパン屋の主人、向かいの仕立て屋の女将、そして噂を聞きつけたらしい若い女性二人組。
誰もが、マリアンの淹れるコーヒーの味に驚き、「また来るよ」と言って帰っていった。
「いやあ、大したもんですよ、マリアン様! この調子なら、すぐに人気店ですぜ!」
カイは、空になったカップを洗いながら上機嫌に言った。
「そうだといいのだけれど。さ、そろそろ店じまいの準備を……」
マリアンがそう言いかけた、その時だった。
カラン、と。
今日、二度目となるそのベルの音に、二人は入り口を振り返った。そこに立っていたのは、夕暮れの光を背負った、見覚えのある大きな影。
「……げっ」
思わずカイの口から、そんな声が漏れた。
騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス。彼が、再び店の前に立っていた。
「……まだ、やっているか」
「え、ええ。どうぞ、いらっしゃいませ」
先ほどよりも、ほんの少しだけ険が取れているように見えるのは、気のせいだろうか。アレクシスは、また同じカウンター席にどかりと腰を下ろした。
「……同じものを」
「かしこまりました」
マリアンは、内心の驚きを隠し、再び彼の為にコーヒーを淹れ始めた。
手持ち無沙汰になったアレクシスの視線が、カウンターの上を彷徨う。そして、ある一点でぴたりと止まった。
それは、マリアンが試作したクッキーが盛られた、小さなバスケットだった。その横には、可愛らしい文字でこう書かれた札が添えられている。
『ご自由にどうぞ。魔力回復効果あり?』
アレクシスは、その札をちらりと見ただけで、すぐに興味がなさそうに視線を外した。
(甘いものなど、軟弱な者の食い物だ)
そう、彼は筋金入りの辛党で通っていた。騎士たるもの、己を律し、甘えを許すべきではない。それが彼の信念だった。
しかし。
厨房のオーブンから漂ってくる、バターと砂糖の焼ける、悪魔的なまでに甘い香り。そして目の前にある、こんがりと焼き色のついた、素朴だが実直そうな見た目のクッキー。
マリアンが、新しい豆を取りに、一瞬だけ奥の棚へと姿を消した。カイは洗い物で手一杯だ。
(……一枚だけなら。味見だ。毒見と言ってもいい)
アレクシスは、誰にも見られていないことを確認すると、まるで重要な機密文書を盗み出す密偵のように、素早く、しかし音を立てずに、クッキーを一枚手に取った。
そして、それを一口で、口の中に放り込む。
その瞬間。
鉄仮面と名高い騎士団長の顔に、かつて誰も見たことのないほどの、鮮やかな衝撃が走った。
(な……んだ、この味は……っ!?)
サクサク、ほろり、と崩れる絶妙な歯触り。鼻腔をくすぐる、芳醇なバターの香り。そして、舌の上で優しく溶けていく、上品で、しつこくない甘さ。時折感じる、わずかな塩気とハーブの爽やかな風味が、その甘さをさらに引き立てている。
疲労した体に、その優しい甘さが、じんわりと染み渡っていく。
危険だ。これは、あまりにも、危険な味だ。
アレクシスは、己の信念も、騎士団長の威厳も忘れ、我を忘れてもう一枚、さらにもう一枚と、夢中でクッキーに手を伸ばしていた。
「あら」
マリアンがカウンターに戻ってきた時、バスケットはほとんど空っぽになっていた。
「クッキー、お口に合いましたか? 騎士団長様」
「っ!?」
アレクシスは、口の周りについたクッキーの粉を、慌てて手の甲で拭った。しまった、という顔で咳払いを一つする。
「……ああ。悪くは、なかった」
「そうですか、よかった。そのクッキー、少しだけですが、魔力の消耗を穏やかに回復させる薬草を混ぜ込んであるんですの。騎士団のお仕事は、お体も魔力も、たくさんお使いになるでしょうから」
何気ないマリアンの言葉に、アレクシスは少し驚いた。自分の仕事を理解した上で、この菓子は作られている。ただ甘いだけの、軟弱な菓子ではないのだ。
彼は、淹れられたコーヒーを静かに飲み干すと、クッキーの代金も含めた銀貨をカウンターに置いた。
そして、店を出る間際、一度だけ足を止め、振り返らずに、小さな声でぽつりと呟いた。
「……また、来る」
その言葉を、マリアンとカイは聞き逃さなかった。
「見ましたか、マリアン様! あの氷の騎士団長、完全に胃袋掴まれましたぜ!」
カイが興奮気味に言うのを、マリアンはくすくすと笑いながら見つめていた。
「ふふ、面白いお客様ができたものだわ」
無愛想で堅物な騎士団長の、誰にも知られていない「秘密の趣味」。その扉が、今、静かに開かれたのだった。
疲労は、確かに軽減されていた。あの黒く苦い液体は、まるで体に直接活力を注ぎ込むような、不思議な力を持っていた。
しかし、問題はそこではなかった。
(……あの味は、一体何だったんだ)
舌の上に、脳裏に、あの鮮烈な風味がこびりついて離れない。ただ苦いだけではない。その奥に潜む、複雑で、芳醇で、今まで一度も経験したことのない深い味わい。
報告書に書かれた文字が、まるで意味をなさず、頭の上を滑っていく。柄にもなく、彼は落ち着かなかった。
(もう一度……。いや、何を考えている。あのような軟弱な飲み物に、心を奪われるなど)
アレクシスは頭を振って雑念を追い払おうとしたが、あの店の、不思議な機械と、真剣な顔でそれを操っていた娘の姿が、瞼の裏に焼き付いていた。
◇
一方、カフェ・アルケミスタでは。
「ふぅ、なんとか格好はついたかしら」
マリアンは、カウンターを磨き上げながら安堵のため息をついた。
あの無愛想な騎士団長が帰った後、ぽつり、ぽつりとではあるが、何人かの客が店を訪れたのだ。近所に住むパン屋の主人、向かいの仕立て屋の女将、そして噂を聞きつけたらしい若い女性二人組。
誰もが、マリアンの淹れるコーヒーの味に驚き、「また来るよ」と言って帰っていった。
「いやあ、大したもんですよ、マリアン様! この調子なら、すぐに人気店ですぜ!」
カイは、空になったカップを洗いながら上機嫌に言った。
「そうだといいのだけれど。さ、そろそろ店じまいの準備を……」
マリアンがそう言いかけた、その時だった。
カラン、と。
今日、二度目となるそのベルの音に、二人は入り口を振り返った。そこに立っていたのは、夕暮れの光を背負った、見覚えのある大きな影。
「……げっ」
思わずカイの口から、そんな声が漏れた。
騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス。彼が、再び店の前に立っていた。
「……まだ、やっているか」
「え、ええ。どうぞ、いらっしゃいませ」
先ほどよりも、ほんの少しだけ険が取れているように見えるのは、気のせいだろうか。アレクシスは、また同じカウンター席にどかりと腰を下ろした。
「……同じものを」
「かしこまりました」
マリアンは、内心の驚きを隠し、再び彼の為にコーヒーを淹れ始めた。
手持ち無沙汰になったアレクシスの視線が、カウンターの上を彷徨う。そして、ある一点でぴたりと止まった。
それは、マリアンが試作したクッキーが盛られた、小さなバスケットだった。その横には、可愛らしい文字でこう書かれた札が添えられている。
『ご自由にどうぞ。魔力回復効果あり?』
アレクシスは、その札をちらりと見ただけで、すぐに興味がなさそうに視線を外した。
(甘いものなど、軟弱な者の食い物だ)
そう、彼は筋金入りの辛党で通っていた。騎士たるもの、己を律し、甘えを許すべきではない。それが彼の信念だった。
しかし。
厨房のオーブンから漂ってくる、バターと砂糖の焼ける、悪魔的なまでに甘い香り。そして目の前にある、こんがりと焼き色のついた、素朴だが実直そうな見た目のクッキー。
マリアンが、新しい豆を取りに、一瞬だけ奥の棚へと姿を消した。カイは洗い物で手一杯だ。
(……一枚だけなら。味見だ。毒見と言ってもいい)
アレクシスは、誰にも見られていないことを確認すると、まるで重要な機密文書を盗み出す密偵のように、素早く、しかし音を立てずに、クッキーを一枚手に取った。
そして、それを一口で、口の中に放り込む。
その瞬間。
鉄仮面と名高い騎士団長の顔に、かつて誰も見たことのないほどの、鮮やかな衝撃が走った。
(な……んだ、この味は……っ!?)
サクサク、ほろり、と崩れる絶妙な歯触り。鼻腔をくすぐる、芳醇なバターの香り。そして、舌の上で優しく溶けていく、上品で、しつこくない甘さ。時折感じる、わずかな塩気とハーブの爽やかな風味が、その甘さをさらに引き立てている。
疲労した体に、その優しい甘さが、じんわりと染み渡っていく。
危険だ。これは、あまりにも、危険な味だ。
アレクシスは、己の信念も、騎士団長の威厳も忘れ、我を忘れてもう一枚、さらにもう一枚と、夢中でクッキーに手を伸ばしていた。
「あら」
マリアンがカウンターに戻ってきた時、バスケットはほとんど空っぽになっていた。
「クッキー、お口に合いましたか? 騎士団長様」
「っ!?」
アレクシスは、口の周りについたクッキーの粉を、慌てて手の甲で拭った。しまった、という顔で咳払いを一つする。
「……ああ。悪くは、なかった」
「そうですか、よかった。そのクッキー、少しだけですが、魔力の消耗を穏やかに回復させる薬草を混ぜ込んであるんですの。騎士団のお仕事は、お体も魔力も、たくさんお使いになるでしょうから」
何気ないマリアンの言葉に、アレクシスは少し驚いた。自分の仕事を理解した上で、この菓子は作られている。ただ甘いだけの、軟弱な菓子ではないのだ。
彼は、淹れられたコーヒーを静かに飲み干すと、クッキーの代金も含めた銀貨をカウンターに置いた。
そして、店を出る間際、一度だけ足を止め、振り返らずに、小さな声でぽつりと呟いた。
「……また、来る」
その言葉を、マリアンとカイは聞き逃さなかった。
「見ましたか、マリアン様! あの氷の騎士団長、完全に胃袋掴まれましたぜ!」
カイが興奮気味に言うのを、マリアンはくすくすと笑いながら見つめていた。
「ふふ、面白いお客様ができたものだわ」
無愛想で堅物な騎士団長の、誰にも知られていない「秘密の趣味」。その扉が、今、静かに開かれたのだった。
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