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「カフェ・アルケミスタ」がオープンして、数週間が経った。
マリアンの淹れるコーヒーと手作りの焼き菓子は、じんわりと、しかし確実に、この路地裏に住まう人々の心と胃袋を掴み始めていた。
常連客も少しずつ増えてきた。毎朝コーヒー豆を買いに来るパン屋の主人。昼下がりに、仕事の合間の息抜きにやってくる仕立て屋の女将。そして、屯所での厳しい訓練を終えた若い騎士たちが、甘いものを求めてやってくることも多くなった。
店は、マリアンが夢見た通りの、ささやかで温かい賑わいに満ちていた。
そして、その常連客リストの筆頭に、いつの間にか名を連ねている人物がいた。
カラン。
夕暮れの光が店内に長く影を落とし始める、決まった時刻。今日もまた、店のベルがあの男の訪れを告げた。
「……」
騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス。
彼はもはや何も言わず、まっすぐにいつもの席――カウンターの一番隅の、店全体を見渡せる席へと向かい、どかりと腰を下ろす。
「いらっしゃいませ、騎士団長様。本日も、お疲れ様です」
マリアンが笑顔で声をかけると、アレクシスはこくりと頷くだけ。
「ご注文は、いつものでよろしいですか?」
「……ああ」
それが、彼らの間の決まり文句だった。
「いつもの」とは、その日のマリアンのおすすめのコーヒーと、カウンターに置かれた「本日の試作品」と称するスイーツのセットのことである。
マリアンがコーヒーを淹れる間、アレクシスは分厚い報告書に目を通しているが、その意識の一部は、カウンターの中で動くマリアンの手元と、厨房から漂ってくる甘い香りに向けられていることを、マリアンは知っていた。
「お待たせいたしました。本日のコーヒーと、『木の実とはちみつのタルト』ですわ」
ことり、と彼の前に置かれた皿の上には、こんがりと焼き上げられたタルトが乗っている。アレクシスは報告書から目を上げると、無言でフォークを手に取った。
一口食べ、そしてコーヒーを一口すする。その繰り返し。
その間、彼は一切の感想を口にしない。ただ黙々と、しかしどこか真剣な面持ちで、マリアンの「錬金術」を吟味している。
そして、すべてを食べ終え、代金を置くと、彼は決まって帰り際に、ぼそりと一言だけ感想を告げていくのだ。
「……今日のタルトは、はちみつが強すぎる」
あるいは、別の日のこと。
「……昨日のクッキーに入っていた香辛料は、悪くない」
また、ある日は。
「……あの酸っぱい果物の菓子は、もう作るな」
それは、およそ客が店主に向ける言葉とは思えないほど、ぶっきらぼうで、上から目線の批評だった。
しかしマリアンは、それが彼の不器用なコミュニケーションの形であり、的確な味覚に基づいた正直な感想であることを理解していた。
「カイ、聞いた? はちみつが強すぎるですって。やっぱり、もう少しナッツの香ばしさを立てるべきだったのね」
「マリアン様、あんたもすっかり猛獣使いが板についてきましたな。あの団長様を手懐けるなんて」
「人聞きの悪いこと言わないの。お客様からの貴重なご意見よ」
カイの茶化しを柳に受け流しながら、マリアンは彼の言葉を元に、次の日のレシピに改良を加えていく。その言葉少ないやり取りは、いつしか二人にとって、心地よい日課となっていた。
そんなある日の昼下がりのこと。
マリアンは、業者から届いたばかりのコーヒー豆の麻袋を、店の倉庫に運ぼうと奮闘していた。
「うっ……お、重たい……!」
見た目以上にずっしりと重い袋を、床から持ち上げようとした瞬間、ぐらりと体勢を崩してしまう。
「きゃっ!」
袋が床に落ちる、と覚悟したその時。
目の前にすっと大きな影が差し、マリアンが抱えていた麻袋が、ふわりと宙に浮いた。
「……え?」
見上げると、そこにいたのは、いつの間にか立ち上がっていたアレクシスだった。彼は、マリアンが両手でやっとだった麻袋を、まるで小脇に小枝でも抱えるように、片手で軽々と持ち上げていた。
「き、騎士団長様!? いつからそこに……」
「……邪魔だ。どこに置く」
アレクシスは、マリアンの驚きを意にも介さず、低い声で尋ねる。
「あ、あの、奥の倉庫にお願いします……」
彼は言われた通りに倉庫へ麻袋を運ぶと、また何事もなかったかのように自分の席に戻り、読みかけの新聞を広げた。
「あ、あの……! ありがとうございました、助かりましたわ」
マリアンがお礼を言うと、アレクシスは新聞から顔も上げずに、ぼそりと言った。
「……手が滑っただけだ」
その意味不明な言い訳と、新聞で隠された彼の耳が、ほんのりと赤く染まっていることに気づいて、マリアンの口から、思わずくすり、と笑みがこぼれた。
(本当に、面白い方)
ただの無愛想で怖いだけの人ではない。その無口と仏頂面の裏に隠された、不器用な優しさ。
その日の閉店後、マリアンは一人厨房に立ち、明日の「試作品」の準備をしていた。
「あの人は、甘すぎるのは好きじゃない。でも、苦いだけじゃ満足しないのよね……」
彼女が作っていたのは、カカオをふんだんに使った、甘さ控えめのビターチョコレートケーキだった。
「きっと、こういうのがお好きなはずだわ」
無愛D想な常連客の顔を思い浮かべながら、マリアンは楽しそうに泡だて器を動かす。彼との静かな交流が、彼女の日常に新しい彩りを添え始めていることに、彼女自身、まだ気づいていなかった。
マリアンの淹れるコーヒーと手作りの焼き菓子は、じんわりと、しかし確実に、この路地裏に住まう人々の心と胃袋を掴み始めていた。
常連客も少しずつ増えてきた。毎朝コーヒー豆を買いに来るパン屋の主人。昼下がりに、仕事の合間の息抜きにやってくる仕立て屋の女将。そして、屯所での厳しい訓練を終えた若い騎士たちが、甘いものを求めてやってくることも多くなった。
店は、マリアンが夢見た通りの、ささやかで温かい賑わいに満ちていた。
そして、その常連客リストの筆頭に、いつの間にか名を連ねている人物がいた。
カラン。
夕暮れの光が店内に長く影を落とし始める、決まった時刻。今日もまた、店のベルがあの男の訪れを告げた。
「……」
騎士団長、アレクシス・フォン・ヴァイス。
彼はもはや何も言わず、まっすぐにいつもの席――カウンターの一番隅の、店全体を見渡せる席へと向かい、どかりと腰を下ろす。
「いらっしゃいませ、騎士団長様。本日も、お疲れ様です」
マリアンが笑顔で声をかけると、アレクシスはこくりと頷くだけ。
「ご注文は、いつものでよろしいですか?」
「……ああ」
それが、彼らの間の決まり文句だった。
「いつもの」とは、その日のマリアンのおすすめのコーヒーと、カウンターに置かれた「本日の試作品」と称するスイーツのセットのことである。
マリアンがコーヒーを淹れる間、アレクシスは分厚い報告書に目を通しているが、その意識の一部は、カウンターの中で動くマリアンの手元と、厨房から漂ってくる甘い香りに向けられていることを、マリアンは知っていた。
「お待たせいたしました。本日のコーヒーと、『木の実とはちみつのタルト』ですわ」
ことり、と彼の前に置かれた皿の上には、こんがりと焼き上げられたタルトが乗っている。アレクシスは報告書から目を上げると、無言でフォークを手に取った。
一口食べ、そしてコーヒーを一口すする。その繰り返し。
その間、彼は一切の感想を口にしない。ただ黙々と、しかしどこか真剣な面持ちで、マリアンの「錬金術」を吟味している。
そして、すべてを食べ終え、代金を置くと、彼は決まって帰り際に、ぼそりと一言だけ感想を告げていくのだ。
「……今日のタルトは、はちみつが強すぎる」
あるいは、別の日のこと。
「……昨日のクッキーに入っていた香辛料は、悪くない」
また、ある日は。
「……あの酸っぱい果物の菓子は、もう作るな」
それは、およそ客が店主に向ける言葉とは思えないほど、ぶっきらぼうで、上から目線の批評だった。
しかしマリアンは、それが彼の不器用なコミュニケーションの形であり、的確な味覚に基づいた正直な感想であることを理解していた。
「カイ、聞いた? はちみつが強すぎるですって。やっぱり、もう少しナッツの香ばしさを立てるべきだったのね」
「マリアン様、あんたもすっかり猛獣使いが板についてきましたな。あの団長様を手懐けるなんて」
「人聞きの悪いこと言わないの。お客様からの貴重なご意見よ」
カイの茶化しを柳に受け流しながら、マリアンは彼の言葉を元に、次の日のレシピに改良を加えていく。その言葉少ないやり取りは、いつしか二人にとって、心地よい日課となっていた。
そんなある日の昼下がりのこと。
マリアンは、業者から届いたばかりのコーヒー豆の麻袋を、店の倉庫に運ぼうと奮闘していた。
「うっ……お、重たい……!」
見た目以上にずっしりと重い袋を、床から持ち上げようとした瞬間、ぐらりと体勢を崩してしまう。
「きゃっ!」
袋が床に落ちる、と覚悟したその時。
目の前にすっと大きな影が差し、マリアンが抱えていた麻袋が、ふわりと宙に浮いた。
「……え?」
見上げると、そこにいたのは、いつの間にか立ち上がっていたアレクシスだった。彼は、マリアンが両手でやっとだった麻袋を、まるで小脇に小枝でも抱えるように、片手で軽々と持ち上げていた。
「き、騎士団長様!? いつからそこに……」
「……邪魔だ。どこに置く」
アレクシスは、マリアンの驚きを意にも介さず、低い声で尋ねる。
「あ、あの、奥の倉庫にお願いします……」
彼は言われた通りに倉庫へ麻袋を運ぶと、また何事もなかったかのように自分の席に戻り、読みかけの新聞を広げた。
「あ、あの……! ありがとうございました、助かりましたわ」
マリアンがお礼を言うと、アレクシスは新聞から顔も上げずに、ぼそりと言った。
「……手が滑っただけだ」
その意味不明な言い訳と、新聞で隠された彼の耳が、ほんのりと赤く染まっていることに気づいて、マリアンの口から、思わずくすり、と笑みがこぼれた。
(本当に、面白い方)
ただの無愛想で怖いだけの人ではない。その無口と仏頂面の裏に隠された、不器用な優しさ。
その日の閉店後、マリアンは一人厨房に立ち、明日の「試作品」の準備をしていた。
「あの人は、甘すぎるのは好きじゃない。でも、苦いだけじゃ満足しないのよね……」
彼女が作っていたのは、カカオをふんだんに使った、甘さ控えめのビターチョコレートケーキだった。
「きっと、こういうのがお好きなはずだわ」
無愛D想な常連客の顔を思い浮かべながら、マリアンは楽しそうに泡だて器を動かす。彼との静かな交流が、彼女の日常に新しい彩りを添え始めていることに、彼女自身、まだ気づいていなかった。
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