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騎士団第三部隊の隊長室は、緊張に満ちていた。
「……以上です。よろしいか」
目の前に立つ上官、アレクシス・フォン・ヴァイスから放たれる絶対零度の威圧感に、隊長は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
「屯所の隣にあるカフェ、アルケミスタ。ここ一週間ほどの間に、この店に対して行われたと思われる嫌がらせ行為の全容を、極秘裏に調査しろ」
アレクシスの声は、冬の湖面のように静かだったが、その底には激しい怒りが渦巻いているのがわかった。
「犯人の特定、及び、その背後関係まで、だ。物的証拠も可能な限り集めろ」
「はっ、しかし、それなりの時間が……」
「期限は、明日の朝までだ」
「い、一日でございますか!?」
思わず聞き返した隊長を、アレクシスは氷のような一瞥で黙らせた。
「……不可能か?」
「い、いえ! 可能であります! 全力を挙げて、必ずや!」
隊長は、人生で一番の力強さで敬礼すると、執務室を飛び出していった。
一人残された部屋で、アレクシスは窓の外に目をやった。見えるのは、今はもう灯りの消えた、隣の小さなカフェ。
(なぜ、何も言わなかった)
脳裏に浮かぶのは、気丈に、しかし明らかに疲れた顔で微笑んでいた、あの店の主の顔。
(なぜ、俺を頼らなかったんだ、マリアン)
ギリ、と奥歯を噛みしめる。彼女が一人で耐え忍んでいた時間に、自分は何も気づかず、ただのうのうとコーヒーを飲んでいた。その事実が、アレクシスの胸を鋭く抉った。
◇
翌朝、夜を徹した調査の結果をまとめた報告書が、アレクシスの机の上に置かれた。
彼は、静かにそのページをめくっていく。
『深夜、店の前に生ゴミを投棄する男の目撃証言多数』
『壁への落書きに使用された塗料の入手先の特定』
『複数の納入業者への圧力、及び脅迫の事実確認』
一つ、また一つと事実が明らかになるたびに、執務室の温度が下がっていくかのような錯覚に陥る。
そして、報告書の最後には、犯人として特定された人物の名前が記されていた。
カフェ・アルケミスタから、二つ先の通りにある老舗カフェ『銀の匙』の店主、ゲイル。最近、アルケミスタに客を奪われ、経営が傾いていたという、卑小な動機と共に。
アレクシスは、報告書を閉じると、ゆっくりと目を伏せた。
怒り。
犯人の卑劣な行為に対する、燃えるような怒り。
そして、彼女を守れなかった自分自身に対する、冷たい怒り。
その二つの感情が、彼の内で静かに、しかし激しく渦巻いていた。
◇
その日の夕方。アレクシスは、いつもと寸分違わぬ時間に、カフェの扉を開けた。
「いらっしゃいませ、騎士団長様……」
カウンターに立つマリアンの顔色は、昨日よりもさらに悪かった。笑顔も力なく、その目は心労で深く落ちくぼんでいる。
「申し訳ありません……。今日も、いつもの豆がご用意できなくて……。こちらの豆で、よろしいでしょうか?」
彼女は、代用品のコーヒー豆の袋を、申し訳なさそうに差し出した。
「……構わん」
アレクシスは、短くそう答えた。
彼は、彼女が追い詰められている原因のすべてを知っている。だが、それをここで暴くことはしない。彼女が必死で守ろうとしている店の平穏を、そして彼女の矜持を、これ以上傷つけたくはなかった。
やがて、淹れられたコーヒーを一口すする。やはり、いつもの味ではなかった。
アレクシスは、カップを置くと、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで、口を開いた。
「豆の件だが」
「……はい」
「心当たりがある。俺の知人が……ヴァイス辺境伯領で、良質な豆を栽培している農園をやっている。明日、そこの者をここに寄越そう。今後の取引について、話をさせろ」
「え……!?」
マリアンは、驚きに目を見開いた。ヴァイス辺境伯領と言えば、国境近くの、気候の厳しい土地のはずだ。そこで、コーヒー豆などという繊細な作物が?
「そ、そんな……! 辺境伯家の御用達の農園など、わたくしのような、こんな小さな店に……お支払いできるかどうかも……」
狼狽するマリアンに、アレクシスは静かに首を振った。
「俺が個人的に頼むだけだ。価格のことも含め、融通は利かせる。気にするな」
そして、彼はいつもの「言い訳」を口にした。
「君の店のコーヒーの味が落ちるのは、俺が困る。……ただ、それだけだ」
その言葉は、いつもと同じぶっきらぼうな響きを持っていた。しかし、今のマリアンの心には、どんな優しい言葉よりも温かく、そして力強く響いた。
涙が、滲みそうになるのを、ぐっと堪える。
「……ありがとう、ございます」
かろうじてそれだけを言うのが、精一杯だった。
アレクシスは、コーヒーを飲み干すと、いつも通り代金を置いて立ち上がった。
しかし、彼が向かった先は、屯所ではなかった。
夕闇が迫る王都の路地を、彼は静かに、しかし確かな足取りで進んでいく。その背中からは、絶対零度の、静かな怒りのオーラが放たれていた。
目的地は、老舗カフェ『銀の匙』。
(さて)
彼の心の中で、冷たい声が響く。
(少し、話をしようか)
「……以上です。よろしいか」
目の前に立つ上官、アレクシス・フォン・ヴァイスから放たれる絶対零度の威圧感に、隊長は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
「屯所の隣にあるカフェ、アルケミスタ。ここ一週間ほどの間に、この店に対して行われたと思われる嫌がらせ行為の全容を、極秘裏に調査しろ」
アレクシスの声は、冬の湖面のように静かだったが、その底には激しい怒りが渦巻いているのがわかった。
「犯人の特定、及び、その背後関係まで、だ。物的証拠も可能な限り集めろ」
「はっ、しかし、それなりの時間が……」
「期限は、明日の朝までだ」
「い、一日でございますか!?」
思わず聞き返した隊長を、アレクシスは氷のような一瞥で黙らせた。
「……不可能か?」
「い、いえ! 可能であります! 全力を挙げて、必ずや!」
隊長は、人生で一番の力強さで敬礼すると、執務室を飛び出していった。
一人残された部屋で、アレクシスは窓の外に目をやった。見えるのは、今はもう灯りの消えた、隣の小さなカフェ。
(なぜ、何も言わなかった)
脳裏に浮かぶのは、気丈に、しかし明らかに疲れた顔で微笑んでいた、あの店の主の顔。
(なぜ、俺を頼らなかったんだ、マリアン)
ギリ、と奥歯を噛みしめる。彼女が一人で耐え忍んでいた時間に、自分は何も気づかず、ただのうのうとコーヒーを飲んでいた。その事実が、アレクシスの胸を鋭く抉った。
◇
翌朝、夜を徹した調査の結果をまとめた報告書が、アレクシスの机の上に置かれた。
彼は、静かにそのページをめくっていく。
『深夜、店の前に生ゴミを投棄する男の目撃証言多数』
『壁への落書きに使用された塗料の入手先の特定』
『複数の納入業者への圧力、及び脅迫の事実確認』
一つ、また一つと事実が明らかになるたびに、執務室の温度が下がっていくかのような錯覚に陥る。
そして、報告書の最後には、犯人として特定された人物の名前が記されていた。
カフェ・アルケミスタから、二つ先の通りにある老舗カフェ『銀の匙』の店主、ゲイル。最近、アルケミスタに客を奪われ、経営が傾いていたという、卑小な動機と共に。
アレクシスは、報告書を閉じると、ゆっくりと目を伏せた。
怒り。
犯人の卑劣な行為に対する、燃えるような怒り。
そして、彼女を守れなかった自分自身に対する、冷たい怒り。
その二つの感情が、彼の内で静かに、しかし激しく渦巻いていた。
◇
その日の夕方。アレクシスは、いつもと寸分違わぬ時間に、カフェの扉を開けた。
「いらっしゃいませ、騎士団長様……」
カウンターに立つマリアンの顔色は、昨日よりもさらに悪かった。笑顔も力なく、その目は心労で深く落ちくぼんでいる。
「申し訳ありません……。今日も、いつもの豆がご用意できなくて……。こちらの豆で、よろしいでしょうか?」
彼女は、代用品のコーヒー豆の袋を、申し訳なさそうに差し出した。
「……構わん」
アレクシスは、短くそう答えた。
彼は、彼女が追い詰められている原因のすべてを知っている。だが、それをここで暴くことはしない。彼女が必死で守ろうとしている店の平穏を、そして彼女の矜持を、これ以上傷つけたくはなかった。
やがて、淹れられたコーヒーを一口すする。やはり、いつもの味ではなかった。
アレクシスは、カップを置くと、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで、口を開いた。
「豆の件だが」
「……はい」
「心当たりがある。俺の知人が……ヴァイス辺境伯領で、良質な豆を栽培している農園をやっている。明日、そこの者をここに寄越そう。今後の取引について、話をさせろ」
「え……!?」
マリアンは、驚きに目を見開いた。ヴァイス辺境伯領と言えば、国境近くの、気候の厳しい土地のはずだ。そこで、コーヒー豆などという繊細な作物が?
「そ、そんな……! 辺境伯家の御用達の農園など、わたくしのような、こんな小さな店に……お支払いできるかどうかも……」
狼狽するマリアンに、アレクシスは静かに首を振った。
「俺が個人的に頼むだけだ。価格のことも含め、融通は利かせる。気にするな」
そして、彼はいつもの「言い訳」を口にした。
「君の店のコーヒーの味が落ちるのは、俺が困る。……ただ、それだけだ」
その言葉は、いつもと同じぶっきらぼうな響きを持っていた。しかし、今のマリアンの心には、どんな優しい言葉よりも温かく、そして力強く響いた。
涙が、滲みそうになるのを、ぐっと堪える。
「……ありがとう、ございます」
かろうじてそれだけを言うのが、精一杯だった。
アレクシスは、コーヒーを飲み干すと、いつも通り代金を置いて立ち上がった。
しかし、彼が向かった先は、屯所ではなかった。
夕闇が迫る王都の路地を、彼は静かに、しかし確かな足取りで進んでいく。その背中からは、絶対零度の、静かな怒りのオーラが放たれていた。
目的地は、老舗カフェ『銀の匙』。
(さて)
彼の心の中で、冷たい声が響く。
(少し、話をしようか)
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