18 / 28
18
しおりを挟む
「――グレイ」
カインの唇からこぼれた、その呼び名。
それは、まるで魔法の呪文だった。
時間の流れを止め、世界の音を消し去り、月明かりの下に立つ二人だけの空間を創り出す、甘い呪文。
グレイは、カインの熱を帯びた瞳に見つめられ、ただ、息をすることも忘れて立ち尽くしていた。
その魔法を解いたのは、広場の方から聞こえてきた、陽気な音楽と人々の歓声だった。
はっと我に返ったグレイは、まるで熱い鉄にでも触れたかのように、カインの腕の中から飛びのいた。
「わ、わたくし……! す、少し、夜風に当たってくるわ!」
それだけを早口で告げると、彼女は頬を真っ赤に染めたまま、逃げるようにその場を走り去ってしまった。
一人残されたカインは、その場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
彼女の温もりが、まだ腕の中に残っている。
彼女の驚いた顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
そして、自分の口が紡いだ、彼女の名前の響きが、まだ耳の奥で繰り返されている。
(俺は、今、何を……)
氷の騎士と謳われた、鉄の自制心は、どこへ行ってしまったのか。
気づけば、カインもまた、祝祭の喧騒から逃れるように、音もなくその場を離れていた。
館のバルコニーに出ると、ひんやりとした夜気が、火照った体を冷ましてくれる。
眼下には、町の広場を照らす、無数の灯りと、楽しげに踊る領民たちの姿が見えた。
あの輪の中心に、彼女がいる。
この地に希望の光を灯した、太陽のような女性。
カインは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。心臓が、今まで経験したことのない、速さと強さで鼓動を刻んでいる。
いつからだっただろうか。
彼女の姿を目で追うようになったのは。
彼女が笑うと、胸の奥が温かくなるのを感じるようになったのは。
彼女が危険に晒されると、己の身を顧みず、ただ守りたいと、魂が叫ぶようになったのは。
クッキーを巡る、馬車での攻防。
子供たちに向ける、無防備な笑顔。
領民の先頭に立ち、問題を解決する、気高いリーダーシップ。
悪徳商人を一喝する、悪役令嬢の仮面の下の、王者の風格。
そして、酒に酔い、無邪気にからかってきた、あの夜の顔。
一つ、また一つと、脳裏に浮かぶ彼女の姿が、カインの心の壁を、静かに、しかし確実に、溶かしていく。
尊敬。
信頼。
敬愛。
それらの言葉だけでは、もはや、この胸を焦がすような感情を、説明することはできなかった。
(ああ、そうか)
カインは、ついに、認めざるを得なかった。
(俺は、あの人に……グレイに、惹かれているのだ)
恋。
その、あまりにも場違いで、あまりにも身分不相応な単語が、はっきりと胸に落ちる。
自覚した瞬間、カインの心を占めたのは、甘い喜びなどではなかった。
深く、暗い、絶望にも似た葛藤だった。
自分は何者だ? 王家に仕える一介の騎士。たとえ騎士団長という地位にあろうとも、貴族の世界では、取るに足らない存在だ。
彼女は誰だ? 王国でも指折りの大貴族、アルヴァレス公爵家の令嬢。
そして何より――エリオット王太子の、元婚約者。
たとえ、その婚約が理不尽な形で破棄されたものであったとしても、彼女がかつて、王太子に定められた人であったという事実は、決して消えない。
そのような雲の上の存在に、私的な感情を抱くなど、許されるはずがない。
それは、騎士としての忠誠に背くことであり、仕えるべき主君に対する、裏切りにも等しい行為だ。
この気持ちは、決して、誰にも知られてはならない。
ましてや、彼女自身に悟られるなど、あってはならないのだ。
(忘れなければ)
カインは、強く、拳を握りしめた。
(この感情は、心の奥底に封じ込め、鍵をかけなければならない)
自分に許されるのは、彼女の剣となり、盾となることだけ。
彼女の騎士として、その人生と幸福を、影から守り抜く。
それが、自分の唯一の役目であり、存在意義なのだから。
カインは、大きく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。
その表情からは、先ほどまでの熱も、戸惑いも、すべてが消え去っていた。
そこには、いつもの、冷徹で、完璧な『氷の騎士』の仮面だけが、再び、固くかぶせられていた。
だが、彼自身、気づいてはいなかった。
一度、火が灯ってしまった心を、ただ蓋をするだけで、本当に消し去ることなど、できはしないということに。
バルコニーに吹く夜風が、彼の内に秘めた、熱い決意の行方を、静かに見守っているかのようだった。
カインの唇からこぼれた、その呼び名。
それは、まるで魔法の呪文だった。
時間の流れを止め、世界の音を消し去り、月明かりの下に立つ二人だけの空間を創り出す、甘い呪文。
グレイは、カインの熱を帯びた瞳に見つめられ、ただ、息をすることも忘れて立ち尽くしていた。
その魔法を解いたのは、広場の方から聞こえてきた、陽気な音楽と人々の歓声だった。
はっと我に返ったグレイは、まるで熱い鉄にでも触れたかのように、カインの腕の中から飛びのいた。
「わ、わたくし……! す、少し、夜風に当たってくるわ!」
それだけを早口で告げると、彼女は頬を真っ赤に染めたまま、逃げるようにその場を走り去ってしまった。
一人残されたカインは、その場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
彼女の温もりが、まだ腕の中に残っている。
彼女の驚いた顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
そして、自分の口が紡いだ、彼女の名前の響きが、まだ耳の奥で繰り返されている。
(俺は、今、何を……)
氷の騎士と謳われた、鉄の自制心は、どこへ行ってしまったのか。
気づけば、カインもまた、祝祭の喧騒から逃れるように、音もなくその場を離れていた。
館のバルコニーに出ると、ひんやりとした夜気が、火照った体を冷ましてくれる。
眼下には、町の広場を照らす、無数の灯りと、楽しげに踊る領民たちの姿が見えた。
あの輪の中心に、彼女がいる。
この地に希望の光を灯した、太陽のような女性。
カインは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。心臓が、今まで経験したことのない、速さと強さで鼓動を刻んでいる。
いつからだっただろうか。
彼女の姿を目で追うようになったのは。
彼女が笑うと、胸の奥が温かくなるのを感じるようになったのは。
彼女が危険に晒されると、己の身を顧みず、ただ守りたいと、魂が叫ぶようになったのは。
クッキーを巡る、馬車での攻防。
子供たちに向ける、無防備な笑顔。
領民の先頭に立ち、問題を解決する、気高いリーダーシップ。
悪徳商人を一喝する、悪役令嬢の仮面の下の、王者の風格。
そして、酒に酔い、無邪気にからかってきた、あの夜の顔。
一つ、また一つと、脳裏に浮かぶ彼女の姿が、カインの心の壁を、静かに、しかし確実に、溶かしていく。
尊敬。
信頼。
敬愛。
それらの言葉だけでは、もはや、この胸を焦がすような感情を、説明することはできなかった。
(ああ、そうか)
カインは、ついに、認めざるを得なかった。
(俺は、あの人に……グレイに、惹かれているのだ)
恋。
その、あまりにも場違いで、あまりにも身分不相応な単語が、はっきりと胸に落ちる。
自覚した瞬間、カインの心を占めたのは、甘い喜びなどではなかった。
深く、暗い、絶望にも似た葛藤だった。
自分は何者だ? 王家に仕える一介の騎士。たとえ騎士団長という地位にあろうとも、貴族の世界では、取るに足らない存在だ。
彼女は誰だ? 王国でも指折りの大貴族、アルヴァレス公爵家の令嬢。
そして何より――エリオット王太子の、元婚約者。
たとえ、その婚約が理不尽な形で破棄されたものであったとしても、彼女がかつて、王太子に定められた人であったという事実は、決して消えない。
そのような雲の上の存在に、私的な感情を抱くなど、許されるはずがない。
それは、騎士としての忠誠に背くことであり、仕えるべき主君に対する、裏切りにも等しい行為だ。
この気持ちは、決して、誰にも知られてはならない。
ましてや、彼女自身に悟られるなど、あってはならないのだ。
(忘れなければ)
カインは、強く、拳を握りしめた。
(この感情は、心の奥底に封じ込め、鍵をかけなければならない)
自分に許されるのは、彼女の剣となり、盾となることだけ。
彼女の騎士として、その人生と幸福を、影から守り抜く。
それが、自分の唯一の役目であり、存在意義なのだから。
カインは、大きく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。
その表情からは、先ほどまでの熱も、戸惑いも、すべてが消え去っていた。
そこには、いつもの、冷徹で、完璧な『氷の騎士』の仮面だけが、再び、固くかぶせられていた。
だが、彼自身、気づいてはいなかった。
一度、火が灯ってしまった心を、ただ蓋をするだけで、本当に消し去ることなど、できはしないということに。
バルコニーに吹く夜風が、彼の内に秘めた、熱い決意の行方を、静かに見守っているかのようだった。
69
あなたにおすすめの小説
銀鷲と銀の腕章
河原巽
恋愛
生まれ持った髪色のせいで両親に疎まれ屋敷を飛び出した元子爵令嬢カレンは王城の食堂職員に何故か採用されてしまい、修道院で出会ったソフィアと共に働くことに。
仕事を通じて知り合った第二騎士団長カッツェ、副団長レグデンバーとの交流を経るうち、彼らとソフィアの間に微妙な関係が生まれていることに気付いてしまう。カレンは第三者として静観しているつもりだったけれど……実は大きな企みの渦中にしっかりと巻き込まれていた。
意思を持って生きることに不慣れな中、母との確執や初めて抱く感情に揺り動かされながら自分の存在を確立しようとする元令嬢のお話。恋愛の進行はゆっくりめです。
全48話、約18万字。毎日18時に4話ずつ更新。別サイトにも掲載しております。
噂の聖女と国王陛下 ―婚約破棄を願った令嬢は、溺愛される
柴田はつみ
恋愛
幼い頃から共に育った国王アランは、私にとって憧れであり、唯一の婚約者だった。
だが、最近になって「陛下は聖女殿と親しいらしい」という噂が宮廷中に広まる。
聖女は誰もが認める美しい女性で、陛下の隣に立つ姿は絵のようにお似合い――私など必要ないのではないか。
胸を締め付ける不安に耐えかねた私は、ついにアランへ婚約破棄を申し出る。
「……私では、陛下の隣に立つ資格がありません」
けれど、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「お前は俺の妻になる。誰が何と言おうと、それは変わらない」
噂の裏に隠された真実、幼馴染が密かに抱き続けていた深い愛情――
一度手放そうとした運命の絆は、より強く絡み合い、私を逃がさなくなる。
“足りない”令嬢だと思われていた私は、彼らの愛が偽物だと知っている。
ぽんぽこ狸
恋愛
レーナは、婚約者であるアーベルと妹のマイリスから書類にサインを求められていた。
その書類は見る限り婚約解消と罪の自白が目的に見える。
ただの婚約解消ならばまだしも、後者は意味がわからない。覚えもないし、やってもいない。
しかし彼らは「名前すら書けないわけじゃないだろう?」とおちょくってくる。
それを今までは当然のこととして受け入れていたが、レーナはこうして歳を重ねて変わった。
彼らに馬鹿にされていることもちゃんとわかる。しかし、変わったということを示す方法がわからないので、一般貴族に解放されている図書館に向かうことにしたのだった。
ある公爵令嬢の死に様
鈴木 桜
恋愛
彼女は生まれた時から死ぬことが決まっていた。
まもなく迎える18歳の誕生日、国を守るために神にささげられる生贄となる。
だが、彼女は言った。
「私は、死にたくないの。
──悪いけど、付き合ってもらうわよ」
かくして始まった、強引で無茶な逃亡劇。
生真面目な騎士と、死にたくない令嬢が、少しずつ心を通わせながら
自分たちの運命と世界の秘密に向き合っていく──。
乙女ゲームっぽい世界に転生したけど何もかもうろ覚え!~たぶん悪役令嬢だと思うけど自信が無い~
天木奏音
恋愛
雨の日に滑って転んで頭を打った私は、気付いたら公爵令嬢ヴィオレッタに転生していた。
どうやらここは前世親しんだ乙女ゲームかラノベの世界っぽいけど、疲れ切ったアラフォーのうろんな記憶力では何の作品の世界か特定できない。
鑑で見た感じ、どう見ても悪役令嬢顔なヴィオレッタ。このままだと破滅一直線!?ヒロインっぽい子を探して仲良くなって、この世界では平穏無事に長生きしてみせます!
※他サイトにも掲載しています
『選ばれなかった令嬢は、世界の外で静かに微笑む』
ふわふわ
恋愛
婚約者エステランス・ショウシユウに一方的な婚約破棄を告げられ、
偽ヒロイン・エア・ソフィアの引き立て役として切り捨てられた令嬢
シャウ・エッセン。
「君はもう必要ない」
そう言われた瞬間、彼女は絶望しなかった。
――なぜなら、その言葉は“自由”の始まりだったから。
王宮の表舞台から退き、誰にも選ばれない立場を自ら選んだシャウ。
だが皮肉なことに、彼女が去った後の世界は、少しずつ歪みを正し始める。
奇跡に頼らず、誰かを神格化せず、
一人に負担を押し付けない仕組みへ――
それは、彼女がかつて静かに築き、手放した「考え方」そのものだった。
元婚約者はようやく理解し、
偽ヒロインは役割を降り、
世界は「彼女がいなくても回る場所」へと変わっていく。
復讐も断罪もない。
あるのは、物語の中心から降りるという、最も静かな“ざまぁ”。
これは、
選ばれなかった令嬢が、
誰の期待にも縛られず、
名もなき日々を生きることを選ぶ物語。
【完結】身代わりに病弱だった令嬢が隣国の冷酷王子と政略結婚したら、薬師の知識が役に立ちました。
朝日みらい
恋愛
リリスは内気な性格の貴族令嬢。幼い頃に患った大病の影響で、薬師顔負けの知識を持ち、自ら薬を調合する日々を送っている。家族の愛情を一身に受ける妹セシリアとは対照的に、彼女は控えめで存在感が薄い。
ある日、リリスは両親から突然「妹の代わりに隣国の王子と政略結婚をするように」と命じられる。結婚相手であるエドアルド王子は、かつて幼馴染でありながら、今では冷たく距離を置かれる存在。リリスは幼い頃から密かにエドアルドに憧れていたが、病弱だった過去もあって自分に自信が持てず、彼の真意がわからないまま結婚の日を迎えてしまい――
【完結】ルイーズの献身~世話焼き令嬢は婚約者に見切りをつけて完璧侍女を目指します!~
青依香伽
恋愛
ルイーズは婚約者を幼少の頃から家族のように大切に思っていた
そこに男女の情はなかったが、将来的には伴侶になるのだからとルイーズなりに尽くしてきた
しかし彼にとってルイーズの献身は余計なお世話でしかなかったのだろう
婚約者の裏切りにより人生の転換期を迎えるルイーズ
婚約者との別れを選択したルイーズは完璧な侍女になることができるのか
この物語は様々な人たちとの出会いによって、成長していく女の子のお話
*更新は不定期です
*加筆修正中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる