勝ち取れ!婚約破棄、悪役令嬢のふりを極めます!

夏乃みのり

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「――グレイ」

カインの唇からこぼれた、その呼び名。

それは、まるで魔法の呪文だった。

時間の流れを止め、世界の音を消し去り、月明かりの下に立つ二人だけの空間を創り出す、甘い呪文。

グレイは、カインの熱を帯びた瞳に見つめられ、ただ、息をすることも忘れて立ち尽くしていた。

その魔法を解いたのは、広場の方から聞こえてきた、陽気な音楽と人々の歓声だった。

はっと我に返ったグレイは、まるで熱い鉄にでも触れたかのように、カインの腕の中から飛びのいた。

「わ、わたくし……! す、少し、夜風に当たってくるわ!」

それだけを早口で告げると、彼女は頬を真っ赤に染めたまま、逃げるようにその場を走り去ってしまった。

一人残されたカインは、その場に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。

彼女の温もりが、まだ腕の中に残っている。
彼女の驚いた顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。
そして、自分の口が紡いだ、彼女の名前の響きが、まだ耳の奥で繰り返されている。

(俺は、今、何を……)

氷の騎士と謳われた、鉄の自制心は、どこへ行ってしまったのか。

気づけば、カインもまた、祝祭の喧騒から逃れるように、音もなくその場を離れていた。

館のバルコニーに出ると、ひんやりとした夜気が、火照った体を冷ましてくれる。

眼下には、町の広場を照らす、無数の灯りと、楽しげに踊る領民たちの姿が見えた。

あの輪の中心に、彼女がいる。

この地に希望の光を灯した、太陽のような女性。

カインは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。心臓が、今まで経験したことのない、速さと強さで鼓動を刻んでいる。

いつからだっただろうか。

彼女の姿を目で追うようになったのは。
彼女が笑うと、胸の奥が温かくなるのを感じるようになったのは。
彼女が危険に晒されると、己の身を顧みず、ただ守りたいと、魂が叫ぶようになったのは。

クッキーを巡る、馬車での攻防。
子供たちに向ける、無防備な笑顔。
領民の先頭に立ち、問題を解決する、気高いリーダーシップ。
悪徳商人を一喝する、悪役令嬢の仮面の下の、王者の風格。
そして、酒に酔い、無邪気にからかってきた、あの夜の顔。

一つ、また一つと、脳裏に浮かぶ彼女の姿が、カインの心の壁を、静かに、しかし確実に、溶かしていく。

尊敬。
信頼。
敬愛。

それらの言葉だけでは、もはや、この胸を焦がすような感情を、説明することはできなかった。

(ああ、そうか)

カインは、ついに、認めざるを得なかった。

(俺は、あの人に……グレイに、惹かれているのだ)

恋。

その、あまりにも場違いで、あまりにも身分不相応な単語が、はっきりと胸に落ちる。

自覚した瞬間、カインの心を占めたのは、甘い喜びなどではなかった。

深く、暗い、絶望にも似た葛藤だった。

自分は何者だ? 王家に仕える一介の騎士。たとえ騎士団長という地位にあろうとも、貴族の世界では、取るに足らない存在だ。

彼女は誰だ? 王国でも指折りの大貴族、アルヴァレス公爵家の令嬢。

そして何より――エリオット王太子の、元婚約者。

たとえ、その婚約が理不尽な形で破棄されたものであったとしても、彼女がかつて、王太子に定められた人であったという事実は、決して消えない。

そのような雲の上の存在に、私的な感情を抱くなど、許されるはずがない。

それは、騎士としての忠誠に背くことであり、仕えるべき主君に対する、裏切りにも等しい行為だ。

この気持ちは、決して、誰にも知られてはならない。
ましてや、彼女自身に悟られるなど、あってはならないのだ。

(忘れなければ)

カインは、強く、拳を握りしめた。

(この感情は、心の奥底に封じ込め、鍵をかけなければならない)

自分に許されるのは、彼女の剣となり、盾となることだけ。

彼女の騎士として、その人生と幸福を、影から守り抜く。

それが、自分の唯一の役目であり、存在意義なのだから。

カインは、大きく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。

その表情からは、先ほどまでの熱も、戸惑いも、すべてが消え去っていた。

そこには、いつもの、冷徹で、完璧な『氷の騎士』の仮面だけが、再び、固くかぶせられていた。

だが、彼自身、気づいてはいなかった。

一度、火が灯ってしまった心を、ただ蓋をするだけで、本当に消し去ることなど、できはしないということに。

バルコニーに吹く夜風が、彼の内に秘めた、熱い決意の行方を、静かに見守っているかのようだった。
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