悪役令嬢は、こってり濃厚すぎて婚約破棄されました。

夏乃みのり

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厨房での「ビーフシチュー革命」から数時間後。

私はソルティ公爵の執務室に呼び出されていた。

重厚なオーク材の扉を開けると、そこはやはり色味のない、しかし先ほどよりは幾分か室温の高い部屋だった。

ソルティ公爵はマホガニーの机に向かい、書類を広げていたが、私が入室するとすぐに顔を上げた。

「来たか。座ってくれ」

彼は革張りのソファを勧めた。

私は優雅に腰を下ろし、扇子を広げた。

「それで? 改まって何のお話ですの? まさか、食後のデザートの催促ではありませんわよね?」

「……それも魅力的だが、今は違う」

公爵は立ち上がり、私の向かいのソファに座った。

その表情は真剣そのものだ。

「改めて礼を言う。今日のシチューは……救いだった」

「お礼には及びませんわ。料理人が料理を作るのは当然のこと。それに、あのキッチンを放置するのは私の美学に反しましたもの」

「お前のおかげで、屋敷の使用人たちにも活気が戻った。……あんなに笑う彼らを見たのは初めてだ」

彼は少し寂しげに目を伏せた。

「私は、彼らに恐怖しか与えてこなかったからな」

「まあ、あの冷凍庫のような環境では無理もありませんわ。人間、寒いと心まで凍えるものです」

「……私のせいだ」

ソルティ公爵は自分の右手を見つめた。

そこから立ち上る冷気は、シチューを食べた直後よりは収まっているものの、まだ完全には消えていない。

「私の魔力特性は『絶対零度』。生まれた時から、触れるもの全てを凍らせ、熱を奪ってしまう呪われた体質だ」

「呪い、ですか」

「ああ。熱だけでなく、感覚さえも奪う。味覚、嗅覚、触覚……。私が感じるのは、永遠に続く寒さと、底なしの飢餓感だけだった」

彼は私を真っ直ぐに見つめた。

「どんな高価な料理も、私の口に入った瞬間に凍りつき、味のない氷塊に変わる。魔術師や医者にも見せたが、誰も治せなかった。……今日、お前に会うまでは」

「なるほど。そこで私の『濃厚』な魔力の出番というわけですのね」

私は納得した。

私の魔力は、彼とは真逆の性質を持つ。

過剰なまでの熱量、質量、そして生命力。

「そうだ。お前の魔力は、私の冷気を中和し、さらにそれを上回る熱で私の感覚を蘇らせた。……これは、奇跡だ」

ソルティ公爵が身を乗り出した。

その顔が急激に近い。

「デミグラス。単刀直入に言おう。私にはお前が必要だ。お前という『熱源』がなければ、私は遠からず魔力暴走を起こして死ぬか、あるいは世界ごと凍りつくことになる」

「世界ごとって、スケールが大きいですわね」

「脅しではない。事実だ。だから……契約を結びたい」

「契約?」

私は眉をひそめた。

「雇用契約ではなくて?」

「違う。『供与契約』だ」

公爵は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに置いた。

そこには、達筆な文字で何やら恐ろしい条項が羅列されていた。

『甲(ソルティ)は乙(デミグラス)の生活の全てを保障し、望むものを全て提供する』
『乙は甲に対し、一日三食以上の濃厚な魔力入り料理を提供する義務を負う』
『乙は甲の許可なく、甲の半径1キロメートル圏外へ出てはならない』
『乙は、甲以外の男に料理を振る舞ってはならない(毒物は除く)』

「……ちょっと待ってくださいまし。後半、かなり束縛が強くありませんこと?」

「当然だ。お前は私の生命維持装置なのだから」

公爵は真顔で言った。

「他の男に料理を作るなど論外だ。お前の魔力は私だけのものだ」

「独占欲がお強いこと。……でも、悪くありませんわね」

私はニヤリと笑った。

この条件、私にとってもメリットが大きい。

実家を追い出され、無一文になった私にとって、衣食住の保障は最優先事項だ。

しかも「望むものを全て提供する」とある。

これは、高級食材使い放題、キッチンリフォームし放題ということではないか。

「わかりましたわ。その契約、受けて立ちましょう」

「本当か」

「ええ。ただし、特約事項を追加していただきます」

「言ってみろ」

私は指を立てて宣言した。

「一、私の料理に文句を言わないこと(まあ、貴方は言わないでしょうけど)」
「二、私が誰をどう料理(物理的な意味も含む)しようと、一切口出ししないこと」
「三、今後、元婚約者や実家が何か言ってきた場合、全力で私を守り、かつ『ざまぁ』の手助けをすること」

特に三番目が重要だ。

あのコンソメ王子や、私を捨てた実家を見返すためには、公爵という後ろ盾は最強の武器になる。

ソルティ公爵は即答した。

「承知した。お前を害する者は、国が相手でも凍らせて粉砕しよう」

「頼もしいですわね(ちょっと過激だけど)」

「では、契約成立の証を」

公爵が立ち上がり、私の隣に座った。

そして、私の手を取り、その手の甲に唇を寄せ――るかと思いきや、私の手首をガブリと甘噛みした。

「ひゃっ!?」

痛くはないが、ひんやりとした感触と、何か熱いものが流れ込んでくる感覚に、私は声を上げた。

「な、何しますの!?」

「魔力のパスを繋げた。これで、お前がどこにいても私が感知できる。そして、私の魔力をお前に供給することも可能になった」

公爵が口を離す。

私の手首には、雪の結晶のような痣がうっすらと浮かび上がっていた。

「……これ、マーキングですの?」

「そうだ。お前は私のものだという印だ」

「……趣味が悪いですわ」

私は手首をさすりながら、しかし悪い気はしなかった。

今まで「いらない」と言われ続けてきた私を、ここまで必要としてくれる。

その事実は、傷ついた私のプライドを心地よく満たしてくれた。

「さて、契約も済んだことだ。……デミグラス」

「なんですの?」

「……腹が減った」

「さっきシチューを鍋ごと食べたばかりでしょうが!!」

私は思わずツッコミを入れた。

この男、燃費が悪すぎる。

「あれは夕食だ。今は夜食の時間だろう?」

「貴方の胃袋はブラックホールですの!?」

「お前の料理を食べると、魔力が活性化して代謝が上がるのだ。……頼む。口寂しいんだ」

公爵が、上目遣いで私を見る。

あの氷の公爵が、餌を待つ犬のような目で。

このギャップはずるい。

「……はぁ。仕方ありませんわね」

私は立ち上がった。

「ちょうど、デザートが欲しかったところですわ。簡単なものなら作ってあげます」

「甘いものか? 甘いものも、お前が作れば味がするのか?」

「当然ですわ。私の甘味(スイーツ)は、脳髄が溶けるほど濃厚ですわよ?」

「……期待している」

ゴクリ、と公爵が喉を鳴らす。

私は執務室を出ようとして、ふと気づいた。

扉の陰で、執事のセロリが震えながら立っていたことに。

「……お嬢様。聞かせてもらいましたよ」

「あらセロリ、解凍できたのね」

「ええ、なんとか。……で、契約成立って、本気ですか? これ、完全に『悪魔の契約』ですよ?」

セロリが青ざめた顔で羊皮紙を指差す。

「いいじゃない。衣食住完備、福利厚生充実。貴方の給料も倍にしてあげるわよ」

「給料倍!? ……まあ、それなら……いやいや、命の危険が!」

「大丈夫よ。私の料理がある限り、彼は大人しい猛獣だわ」

私はセロリの背中をバンと叩いた。

「さあ、行くわよセロリ! 夜食は『濃厚キャラメル・パンケーキ』よ! 砂糖と生クリームを通常の三倍用意しなさい!」

「三倍!? 夜中にそんなもの食べたら死にますよ!?」

「死なないわよ! 幸せで死にそうになるだけよ!」

私は笑い声を上げながら、再び厨房へと向かった。

背後から、ソルティ公爵が「キャラメル……」と幸せそうに呟きながらついてくる気配がする。

こうして、私と「氷の公爵」との、奇妙で濃厚な同居生活が正式に幕を開けた。

だが、この時の私はまだ、この契約が国中に知れ渡り、王宮を巻き込んだ大騒動に発展することなど、露ほども思っていなかったのである。
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