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あの衝撃的な『泥水ポーション事件』から、数週間が過ぎた。
アリア・フォン・クライネルトの名は、今や王都の貴族社会において、以前とは全く違う意味で知らぬ者はいない存在となっていた。
かつての『傲慢で嫉妬深い悪役令嬢』という評価はすっかり過去のもの。
今の彼女は、『チンピラを投げ飛ばし、炭と見紛う美味な菓子を作り、泥水で重傷を治す、予測不能な公爵令嬢』として、畏怖と、そして何より強い好奇の的となっていた。
そんな中、王宮では建国記念を祝う、年で最も大規模な舞踏会が催された。
「はぁ……この時間があれば、新しいポーションの調合が三種類は試せましたのに……」
会場の隅で、アリアは小さなため息をついた。
社交界から距離を置き、趣味に没頭する日々を送っていた彼女だったが、さすがにこの舞踏会は欠席するわけにもいかず、父に無理やり連れてこられたのだ。
きらびやかなドレスを纏った貴族たちが、優雅にダンスを踊り、洗練された会話に花を咲かせている。
彼らは皆、アリアのことを遠巻きに、しかし興味津々の目で見ているのが分かった。
「まあ、あの方が噂のアリア様…」
「なんと、今日は大人しくしていらっしゃるのね…」
「いつ、何をしでかすか分からんぞ。目を離すな」
そんな視線も、今のアリアにとってはどこ吹く風。
彼女の興味は、ワルツの調べでも、最新のゴシップでもなく、ただ一点にのみ注がれていた。
「まあ! このローストビーフ、火の通りが絶妙ですわ! 表面はカリッとしているのに、中は美しいロゼ色…!」
そう、壁際にずらりと並べられた、豪華絢爛な料理の数々である。
「こちらのテリーヌも素晴らしい…! わたくしの作るクッキーとは比べ物にならないほど、繊細で複雑な味のハーモニー…! これは研究の価値がありますわね!」
アリアは、ダンスの輪に加わることもなく、ひたすらに、一心不乱に、ビュッフェの皿と自分の口との間を往復していた。
その姿は、社交の場に現れた、優雅で美しいグルメハンターのようだった。
そんな彼女の姿を、会場の喧騒の中心から、じっと見つめる一対の瞳があった。
この国の第一王子、エリオット・フォン・アールグレイだ。
彼の腕には、今日の主役とばかりに可憐なドレスで着飾ったリリアナ・ローズが、ぴったりと寄り添っている。
しかし、エリオットの意識は、腕の中の新しい婚約者候補ではなく、遠くで料理を頬張る元婚約者に完全に奪われていた。
(アリア……)
自分が知っていたアリアは、いつも自分の気を引こうと必死で、高慢な態度とは裏腹に、その瞳には常に不安の色が浮かんでいた。
だが、今のアリアはどうだ。
自分のことなど、まるで存在しないかのように、心の底から楽しそうに、料理を味わっている。
最近耳にする、彼女に関する奇妙な噂の数々も、エリオットの心をざわつかせていた。
「エリオット様、どうかされましたの?」
リリアナが、不安そうに彼の顔を覗き込む。
「ああ、いや……少し、飲み物を取ってくる」
エリオットは、そう言ってリリアナの手をそっと離すと、人垣を抜け、まっすぐにアリアの元へと向かった。
アリアは、ちょうどデザートのタルトを一口で頬張ったところだった。
もぐもぐと幸せを噛み締めていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「アリア。……久しぶりだな」
聞き覚えのある声に、アリアは口の中のものをこくりと飲み込んでから、きょとんとした顔で振り返った。
「あら、エリオト様。ごきげんようでございます」
そのあまりにも素っ気ない、他人行儀な挨拶に、エリオットの眉がぴくりと動く。
彼は、アリアが少しは動揺したり、あるいは気まずそうな顔をしたりするのではないかと、どこかで期待していたのだ。
「君は、最近ずいぶん……変わったと聞いている」
エリオットは、わざと嫌味な口調で言った。
「街で騒ぎを起こしたり、騎士団に入り浸ったりしているそうじゃないか。公爵令嬢として、あまり褒められた行いではないな」
「ええ。お陰様で、自由を満喫しておりますので」
アリアはにこりと微笑んで答える。
その一点の曇りもない笑顔に、エリオットは苛立ちを覚えた。
「……私との婚約を破棄されて、そんなに楽しいか」
自分でも、なんと未練がましい問いかけだろうかと思う。
だが、聞かずにはいられなかった。
自分がいなくても、いや、いないからこそ輝いているように見えるアリアの姿が彼のプライドを酷く傷つけていた。
アリアは、その質問に少しだけ不思議そうな顔をした後満面の笑みで、はっきりと答えた。
「はい、とても!」
その純度100%の肯定に、エリオットは言葉を失った。
彼は、何か言い返そうと衝動的にアリアの腕を掴もうとする。
しかし、その手がアリアに触れる寸前二人の間にすっと大きな影が割り込んだ。
「その方に、何か御用かな、王子殿下」
低く、静かだが有無を言わせぬ圧を秘めた声。
そこに立っていたのは、警備のためにこの舞踏会に出席していた、王国騎士団長の制服を纏うゼノン・ヴァーミリオンだった。
彼の鉄のような瞳が、エリオットの伸ばした手を冷ややかに見下ろしていた。
アリア・フォン・クライネルトの名は、今や王都の貴族社会において、以前とは全く違う意味で知らぬ者はいない存在となっていた。
かつての『傲慢で嫉妬深い悪役令嬢』という評価はすっかり過去のもの。
今の彼女は、『チンピラを投げ飛ばし、炭と見紛う美味な菓子を作り、泥水で重傷を治す、予測不能な公爵令嬢』として、畏怖と、そして何より強い好奇の的となっていた。
そんな中、王宮では建国記念を祝う、年で最も大規模な舞踏会が催された。
「はぁ……この時間があれば、新しいポーションの調合が三種類は試せましたのに……」
会場の隅で、アリアは小さなため息をついた。
社交界から距離を置き、趣味に没頭する日々を送っていた彼女だったが、さすがにこの舞踏会は欠席するわけにもいかず、父に無理やり連れてこられたのだ。
きらびやかなドレスを纏った貴族たちが、優雅にダンスを踊り、洗練された会話に花を咲かせている。
彼らは皆、アリアのことを遠巻きに、しかし興味津々の目で見ているのが分かった。
「まあ、あの方が噂のアリア様…」
「なんと、今日は大人しくしていらっしゃるのね…」
「いつ、何をしでかすか分からんぞ。目を離すな」
そんな視線も、今のアリアにとってはどこ吹く風。
彼女の興味は、ワルツの調べでも、最新のゴシップでもなく、ただ一点にのみ注がれていた。
「まあ! このローストビーフ、火の通りが絶妙ですわ! 表面はカリッとしているのに、中は美しいロゼ色…!」
そう、壁際にずらりと並べられた、豪華絢爛な料理の数々である。
「こちらのテリーヌも素晴らしい…! わたくしの作るクッキーとは比べ物にならないほど、繊細で複雑な味のハーモニー…! これは研究の価値がありますわね!」
アリアは、ダンスの輪に加わることもなく、ひたすらに、一心不乱に、ビュッフェの皿と自分の口との間を往復していた。
その姿は、社交の場に現れた、優雅で美しいグルメハンターのようだった。
そんな彼女の姿を、会場の喧騒の中心から、じっと見つめる一対の瞳があった。
この国の第一王子、エリオット・フォン・アールグレイだ。
彼の腕には、今日の主役とばかりに可憐なドレスで着飾ったリリアナ・ローズが、ぴったりと寄り添っている。
しかし、エリオットの意識は、腕の中の新しい婚約者候補ではなく、遠くで料理を頬張る元婚約者に完全に奪われていた。
(アリア……)
自分が知っていたアリアは、いつも自分の気を引こうと必死で、高慢な態度とは裏腹に、その瞳には常に不安の色が浮かんでいた。
だが、今のアリアはどうだ。
自分のことなど、まるで存在しないかのように、心の底から楽しそうに、料理を味わっている。
最近耳にする、彼女に関する奇妙な噂の数々も、エリオットの心をざわつかせていた。
「エリオット様、どうかされましたの?」
リリアナが、不安そうに彼の顔を覗き込む。
「ああ、いや……少し、飲み物を取ってくる」
エリオットは、そう言ってリリアナの手をそっと離すと、人垣を抜け、まっすぐにアリアの元へと向かった。
アリアは、ちょうどデザートのタルトを一口で頬張ったところだった。
もぐもぐと幸せを噛み締めていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「アリア。……久しぶりだな」
聞き覚えのある声に、アリアは口の中のものをこくりと飲み込んでから、きょとんとした顔で振り返った。
「あら、エリオト様。ごきげんようでございます」
そのあまりにも素っ気ない、他人行儀な挨拶に、エリオットの眉がぴくりと動く。
彼は、アリアが少しは動揺したり、あるいは気まずそうな顔をしたりするのではないかと、どこかで期待していたのだ。
「君は、最近ずいぶん……変わったと聞いている」
エリオットは、わざと嫌味な口調で言った。
「街で騒ぎを起こしたり、騎士団に入り浸ったりしているそうじゃないか。公爵令嬢として、あまり褒められた行いではないな」
「ええ。お陰様で、自由を満喫しておりますので」
アリアはにこりと微笑んで答える。
その一点の曇りもない笑顔に、エリオットは苛立ちを覚えた。
「……私との婚約を破棄されて、そんなに楽しいか」
自分でも、なんと未練がましい問いかけだろうかと思う。
だが、聞かずにはいられなかった。
自分がいなくても、いや、いないからこそ輝いているように見えるアリアの姿が彼のプライドを酷く傷つけていた。
アリアは、その質問に少しだけ不思議そうな顔をした後満面の笑みで、はっきりと答えた。
「はい、とても!」
その純度100%の肯定に、エリオットは言葉を失った。
彼は、何か言い返そうと衝動的にアリアの腕を掴もうとする。
しかし、その手がアリアに触れる寸前二人の間にすっと大きな影が割り込んだ。
「その方に、何か御用かな、王子殿下」
低く、静かだが有無を言わせぬ圧を秘めた声。
そこに立っていたのは、警備のためにこの舞踏会に出席していた、王国騎士団長の制服を纏うゼノン・ヴァーミリオンだった。
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