悪役令嬢は、婚約破棄の瞬間を食い気味で承諾する!

夏乃みのり

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翌朝。

ハイラント城の客室(現在はリリナの監獄兼寝室)に、絶叫が響き渡った。

「う、うご……動けませんわぁぁぁぁッ!!」

ベッドの上で、リリナが芋虫のように身をよじっている。

布団を跳ねのけることすらできない。

全身の筋肉が、かつてないほどの熱を持ち、悲鳴を上げているのだ。

そこへ、爽やかな朝日と共に私が現れる。

「おはようございます、リリナ様。素晴らしい朝ですね。さあ、トレーニングの時間ですよ」

「き、鬼……! 貴女は鬼ですの……!? 見てください、この体を! 指一本動かせませんわ!」

「おめでとうございます。それは『筋肉痛』という名の勲章です」

私は拍手をした。

「筋肉繊維が断裂し、修復しようとしている証拠。今、貴女の体内で劇的な進化が始まっているのです」

「進化なんてしたくありません! 私は退化してベッドと同化したいのです!」

「甘ったれないでください。今日は『体幹トレーニング』の日です。動かなくてもできるメニューを用意しました」

「動かないなら……まあ、聞くだけ聞いてあげますわ」

数分後。

リリナは床の上でプルプルと震えていた。

「こ、これは……地味にキツいですわぁぁぁッ!!」

彼女が行っているのは『プランク』。

肘とつま先だけで体を支え、一直線にキープする姿勢だ。

見た目は静止しているが、腹筋と背筋への負荷は凄まじい。

「お尻が下がっています! キープ! あと三十秒!」

「三十秒が永遠に感じられますわ! 王宮の校長先生の話より長いですわよ!」

「雑念を捨てて! 筋肉と対話するのです!」

「筋肉は『もう無理』と言ってますわ!」

ギャーギャーと騒ぎながらも、リリナは崩れ落ちなかった。

根性がある。

やはり、この子は素質があるのかもしれない。

          ◇

トレーニング後の休憩時間。

私たちは中庭のベンチに並んで座り、マリーが用意してくれた特製プロテインドリンク(きな粉とミルクと蜂蜜入り)を飲んでいた。

「……んぐ、んぐ。……意外と美味しいですわね、これ」

「でしょう? タンパク質と糖質を同時に摂取することで、リカバリーを早めます」

リリナはコップを両手で持ち、遠い目をしている。

「……ねえ、マルグリット様」

「なんです?」

「貴女、本気で王太子妃の座を捨ててよかったんですの?」

不意に、真面目なトーンで聞かれた。

私はコップを置き、青空を見上げた。

「ええ。微塵も後悔していません」

「なぜ? 地位も名誉も、将来の安泰も約束されていたのに。貴女なら、あの愚かなアルフレッド様を操縦して、実権を握ることもできたはずでしょう?」

リリナの分析は正しい。

その気になれば、私は裏で国を動かす『女帝』になれただろう。

だが。

「……窮屈だからです」

「窮屈?」

「ええ。王妃になれば、一生コルセットで内臓を圧迫され、ハイヒールで足の形を変形させられ、美味しくもない冷めた料理を笑顔で食べ続けなければなりません」

私は自分のウエスト(現在はジャージのゴムで快適)を指差した。

「私は、自分の体を自分でコントロールしたいのです。食べたい時に食べ、動きたい時に動き、眠りたい時に眠る。……それができるのは、この辺境だけです」

「……」

リリナが黙り込む。

彼女もまた、貴族社会の「窮屈さ」を知っているはずだ。

男爵家の娘として、常に上位貴族の顔色を窺い、可愛らしく振る舞うことを強要されてきたのだから。

「リリナ様。貴女こそ、なぜあんなにも『王妃』の座に執着していたのですか?」

私が逆に問いかけると、リリナはフン、と鼻を鳴らした。

「決まっていますわ。……見返してやりたかったからですの」

「誰を?」

「実家の父や、私を馬鹿にした令嬢たちを、です。男爵家の娘だからと見下してきた連中を、王妃になって跪かせてやりたかった。……それだけですわ」

リリナは自嘲気味に笑った。

「でも、ここに来て気づきましたの。……あのまま王宮にいたら、私は一生、誰かの評価を気にして生きていかなければならなかったんだって」

彼女は自分の手のひらを見つめる。

そこには、昨日の畑仕事でできた小さなマメがあった。

「昨日、泥だらけになって働いて、ご飯を食べて、泥のように眠って……。起きたら体が痛くて最悪でしたけど、なんだか……頭の中はスッキリしていますの」

「それは、脳内麻薬(エンドルフィン)が出ているからですね」

「ムードのない言い方はやめてくださいまし!」

リリナが怒るが、その表情は以前のような作り笑いではなく、自然なものだった。

「マルグリット様。私、決めましたわ」

「何をです?」

「ここで貴女に勝ちますわ」

リリナは私を指差した。

「王妃の座なんてくれてやります。私はこの辺境で、貴女よりも健康的で、貴女よりもジェラルド様に愛される『最強の女』になってみせます!」

なんというポジティブシンキング。

そして、なんという負けず嫌い。

でも、その闘争心こそが筋肉を育てる一番の肥料だ。

「いいでしょう。受けて立ちます」

私はニヤリと笑い、握り拳を突き出した。

「え? なんですの、その野蛮なポーズは」

「拳と拳を合わせる挨拶(フィスト・バンプ)です。戦友の証ですよ」

「……や、野蛮ですわね。……今回だけですわよ」

リリナは照れくさそうに、恐る恐る自分の小さな拳を、私の拳にコツンと当てた。

その瞬間。

私たちの間に、奇妙な連帯感が生まれた気がした。

『悪役令嬢』と『ヒロイン』。

かつて敵対していた二人は今、『筋肉』と『自由』という共通の目的のために、がっちりと手を組んだのである(物理的な意味でも)。

「さて、休憩は終わりです。次はランジですよ、リリナ様」

「ひぃっ! まだやるんですの!?」

「当然です。最強の女になるのでしょう?」

「言わなきゃよかったですわーッ!!」

リリナの悲鳴が再び上がる。

だが、その声には以前ほどの悲壮感はなかった。

          ◇

その様子を、城のテラスからジェラルド様が見下ろしていた。

「……仲が良いな」

彼は満足そうにコーヒーを啜る。

「閣下。あのピンク髪の令嬢、本当に置いておくのですか? スパイの可能性も……」

側近の騎士が懸念を示すが、ジェラルド様は首を振った。

「問題ない。マルグリットが手懐けている。……それに、あいつもいい目をし始めた」

「目、ですか?」

「ああ。ここに来た当初は『媚びる目』をしていたが、今は『生きようとする目』をしている。……ここの飯が美味い証拠だ」

ジェラルド様は、妙に納得したように頷いた。

「マルグリットがいると、周りの人間まで変わっていくな」

「ええ。城の雰囲気も随分と明るくなりました」

「……俺も、変われただろうか」

ジェラルド様が窓ガラスに映る自分の顔を見る。

相変わらずの強面だ。眉間の皺も健在だ。

「……顔は変わりませんね」

側近が正直に答える。

「うるさい。……だが、心は以前より軽い」

ジェラルド様はテラスの手すりに手をかけ、中庭でスクワットに励む二人の令嬢を見つめた。

「守るべきものが増えるというのは、悪くないものだ」

彼の表情は、氷が溶けた後の春の雪解け水のように、静かで穏やかだった。

          ◇

一方、その頃。

王都の男爵家邸宅。

「なっ、なんだと!? リリナが帰ってこない!?」

リリナの父、男爵が絶叫していた。

「は、はい……。アルフレッド殿下の馬車にも乗らず、ハイラント辺境伯領に残ると……」

「馬鹿な! あんな魔境に!?」

男爵は頭を抱えた。

リリナは彼にとって、家名を上げるための「切り札」だった。

美貌と愛嬌で王子を籠絡し、王妃の座を射止めるはずだったのだ。

それが、まさか辺境で土いじりを始めているなどとは夢にも思うまい。

「くそっ……こうなったら、強硬手段だ! リリナを連れ戻せ! ついでに、そのハイラント辺境伯とかいう男に慰謝料を請求してやる!」

男爵は金に汚い男だった。

娘の幸せより、娘の価値を優先するタイプだ。

「傭兵を雇え! 腕利きの荒くれ者たちだ! 辺境伯など恐るるに足らん!」

男爵の怒号が飛ぶ。

彼もまた知らなかったのだ。

ハイラント辺境伯領が、今や「最強の悪役令嬢」と「覚醒したヒロイン」、そして「魔王級の辺境伯」が守る、難攻不落の筋肉要塞と化していることを。

彼が送り込もうとしている傭兵たちが、のちに「トラウマ級の恐怖体験」を味わうことになるなど、まだ誰も予想していなかった。
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