婚約破棄? ああ、そうですか。それより料理がが冷めるので失礼します。

夏乃みのり

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「……ふぅ。今日も良い戦い(食事)でした」

クリムゾン公爵邸に戻ったメモリーは、自室のベッドにダイブした。
手には、戦利品である「王宮地下食糧庫の鍵」が握られている。

「(これさえあれば、夜中にこっそり王宮に忍び込み、熟成生ハムをスライスして持ち帰ることも可能ですわ……!)」

鍵を頬擦りするメモリー。
ふと、鍵の持ち手に刻まれた小さな文字が目に入った。

『注意:地下迷宮(ダンジョン)直結につき、深入り厳禁。食われるぞ』

「……『食われるぞ』? ふふ、面白い冗談ですわね」

メモリーは鼻で笑った。

「私が食材に食われるのではありません。私が食材を食うのです。ダンジョンの魔物だろうと、美味しく調理して差し上げますわ!」

そんな頼もしい独り言を呟いていると、コンコン、とドアがノックされた。

「メモリー。入ってもいいか?」

シズルの声だ。
メモリーは慌てて起き上がり、ドレスの乱れを直した。

「どうぞ、シズル様! 夜食の差し入れですか?」

ガチャリとドアが開き、シズルが入ってくる。
手には何も持っていない。

「……残念ながら、食べ物ではない」

「あら。では、明日の朝食の打ち合わせですね?」

「それも違う。……少し、真面目な話だ」

シズルは部屋の中に入ると、窓際のソファに腰掛けた。
月明かりに照らされたその表情は、どこか切なげで、そして真剣そのものだった。

「今日の料理対決での勝利……見事だった。改めて礼を言う」

「いえいえ。美味しいリゾットを食べたかっただけですので」

「……アラン殿下は、まだ君に未練があるようだったな」

シズルがポツリと漏らす。
確かに、別れ際のアラン王子の「くそっ、覚えてろよ! また(ご飯を食べに)来るからな!」という捨て台詞は、執着の塊だった。

「もし……彼が本気で謝罪し、君を王妃として迎えたいと言ってきたら、どうする?」

シズルが探るような視線を向ける。
メモリーは即答した。

「お断りです。王妃なんて窮屈な仕事、御免被ります。それに、王宮の食事は上品すぎて量が足りません」

「……そうか」

シズルが安堵のため息をつく。
そして、彼は立ち上がり、メモリーの目の前に立った。
何かを決意したように、懐から小さな箱を取り出す。

「メモリー。君にこれを渡したい」

「箱……? まさか、最高級トリュフチョコ!?」

「違う」

パカッ。
箱が開かれると、そこには銀色に輝く、装飾の凝った『鍵』が入っていた。
王宮の鍵よりもさらに精巧で、クリムゾン家の紋章が刻まれている。

「これは……?」

「この屋敷の『マスターキー』だ」

シズルは鍵を手に取り、メモリーの手のひらに乗せた。
彼の指が、メモリーの手を包み込むように握る。

「これがあれば、この屋敷の全ての部屋に入ることができる。玄関も、書斎も、金庫室も……そして、私の寝室もだ」

シズルは顔を近づけ、甘く囁いた。

「この鍵を持っていてほしい。……ゲストとしてではなく、この屋敷の『女主人』として、ずっと私の傍にいてくれないか?」

ドキン。
心臓が高鳴る。
月夜。美貌の公爵。そして「ずっといてくれ」という言葉。
これは間違いなく、愛の告白――プロポーズの場面である。

メモリーは鍵を見つめ、シズルを見つめ返し、そして感動で瞳を潤ませた。

「シズル様……!」

「メモリー……」

「これがあれば、深夜でも厨房に入り放題ということですね!?」

「…………は?」

良いムードが、ガラスのように粉砕された。

メモリーは鍵を握りしめ、目を輝かせて続けた。

「『全ての部屋』ということは、当然、地下のワインセラーや、シェフが隠しているお菓子倉庫、そして厳重にロックされた『業務用特大冷蔵庫』も開けられるということですよね!?」

「……いや、まあ、開けられるが……」

「ありがとうございます! 冷蔵庫の鍵をくださるなんて、最高のプロポーズです! お受けします!」

「……プロポーズだと認識はしているのか。なら、いいか……」

シズルはガクリと肩を落とした。
ロマンチックな雰囲気は霧散したが、彼女が「ずっといる」と言ったことには変わりない。
彼は苦笑し、メモリーの頭をポンと撫でた。

「好きに使え。ただし、夜中のつまみ食いで腹を壊すなよ」

「はい! 管理ありがとうございます、旦那様(オーナー)!」

こうして。
メモリーは「王宮食糧庫の鍵」と「公爵邸冷蔵庫の鍵」という、二つの最強アイテムを手に入れた。
もはや彼女の食欲を阻むものは何もない。

世界は彼女の胃袋のために回っている――はずだった。

***

翌朝。
朝食の席で、異変は起きた。

「……セバス。なんだ、このスープは」

シズルがスプーンを止め、怪訝な顔をする。
いつもなら濃厚なポタージュが出てくるはずが、今日のスープは具のないコンソメスープだったのだ。

「申し訳ございません、旦那様」

執事のセバスが、沈痛な面持ちで頭を下げる。
その横には、料理長も青い顔で控えていた。

「実は……今朝届くはずだった食材が、届いていないのです」

「なんだと?」

「野菜、肉、乳製品……全ての物流が止まっております。業者の話では、何者かが流通ルートを封鎖し、クリムゾン領への搬入を妨害していると……」

「妨害……?」

シズルの目がすっと細まり、温度が下がる。
「氷の公爵」の顔だ。

「誰の仕業だ」

「現在調査中ですが……噂では、王都の大手商会が絡んでいるとか」

ガタッ!

椅子が倒れる音が響いた。
メモリーである。
彼女は空っぽの皿を見つめ、ワナワナと震えていた。

「……許せない」

「メモリー?」

「私の朝食のベーコンエッグを奪い、あまつさえシズル様の栄養源を断つ……? そんな極悪非道な真似、断じて許せませんわ!」

メモリーが顔を上げる。
その瞳には、悪役令嬢モード全開の、漆黒の炎が燃え盛っていた。

「シズル様。行きますよ」

「どこへだ?」

「決まっています。その不届きな商人の元へ『道場破り』です! 食い物の恨みは恐ろしいということを、骨の髄まで教えて差し上げましょう!」

メモリーはナプキンを投げ捨て、仁王立ちになった。

平和なグルメライフは終わりを告げた。
次なる戦いの舞台は、悪徳商人が支配する「物流戦争」。
空腹の悪役令嬢が、フライパンを片手に殴り込みをかける!
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