婚約破棄? ああ、そうですか。それより料理がが冷めるので失礼します。

夏乃みのり

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「……ない」

クリムゾン公爵邸のダイニング。
メモリーは、目の前の皿を亡霊を見るような目で見つめていた。

「ない。ない。ありませんわ」

「何がだ?」

向かいに座るシズルが、少し怯えたように尋ねる。
今のメモリーから発せられるオーラは、魔王のそれよりもどす黒い。

「ベーコンです! そして卵です! 私が毎朝の楽しみにしている、あのカリカリでジューシーな厚切りベーコンと、半熟目玉焼きのゴールデンコンビがありません!」

ダンッ!
メモリーがテーブルを叩く。
そこにあるのは、具のない薄いスープと、少し硬くなったパンだけだ。

「これではまるで、修道院の断食修行ではありませんか! 私は育ち盛りなんですよ!?」

「……すまない。在庫が尽きたようだ」

シズルが痛ましげに眉を寄せる。
執事のセバスが進み出て、沈痛な面持ちで報告した。

「メモリー様。先ほども申し上げましたが、領内への物流が完全に遮断されております。肉も卵も、小麦粉さえも……今朝届くはずだったトラックが、全て引き返してしまったのです」

「引き返した? なぜです?」

「『ゴルド商会』です」

セバスが吐き捨てるように言った。

「王都の大手商会ですが、彼らがこの周辺の流通ルートを買い占め、『通行料』を釣り上げたのです。通常の十倍の関税を払わなければ、食材は通さないと」

「十倍……!?」

「はい。周辺の農家や卸売業者も脅されており、クリムゾン領には一切の食材を売るなと圧力をかけられています」

「……なるほど」

シズルの瞳が凍てつく。

「私への嫌がらせか。最近、私が王宮で目立ちすぎたからな(主にメモリーのせいで)。既得権益を脅かされると思った古狸どもが手を組んだか」

シズルは立ち上がった。
領主として、民を飢えさせるわけにはいかない。

「セバス、騎士団を招集しろ。武力行使も辞さない構えで……」

「お待ちください」

その声を遮ったのは、メモリーだった。

彼女は静かに立ち上がっていた。
先ほどまでの「駄々っ子」のような雰囲気は消え失せ、冷徹で、そして底知れない圧力を放つ「真の悪役令嬢」の顔になっていた。

「シズル様。騎士団など必要ありません。大袈裟に動けば、向こうも用心棒を集めて戦争になります。食材が傷つくだけです」

「……では、どうする?」

「私が行きます」

メモリーはニッコリと笑った。
その笑顔は美しいが、目は笑っていない。捕食者の目だ。

「ゴルド商会と言いましたわね? ……いい度胸です。私の『朝の至福』を奪った罪、万死に値します」

彼女は懐から、愛用の「マイ・スプーン(純銀製)」を取り出した。
その輝きが、チャキッという音と共に殺意を帯びる。

「食材を独占し、不当に値を吊り上げて私腹を肥やす……。料理への冒涜です。そのような輩には、私が直接『食の教育的指導』をして差し上げなければなりません」

「……教育的指導、とは?」

「決まっています。彼らが隠し持っている最高級食材を、目の前で美味しく調理して食べ尽くしてやるのです。精神的ダメージを与え、二度と逆らえないようにしてやります」

「(……物理的ダメージより質が悪いな)」

シズルは苦笑したが、同時に頼もしくも思った。
この女なら、本当にやってのけるだろう。

「わかった。私も同行しよう。……私の領地で好き勝手をした落とし前はつけさせねばな」

「はい! では善は急げです。馬車を出してください! ……あ、その前に」

メモリーはテーブルに残っていた硬いパンを全てナプキンに包んだ。

「道中の非常食です。腹が減っては戦はできませんから」

***

数時間後。
シズルとメモリーを乗せた馬車は、領境の街にある『ゴルド商会』の支部に到着した。

街の様子は異様だった。
市場には商品が並んでおらず、活気がない。
しかし、街の一角にある商会の屋敷だけは、派手な装飾で飾り立てられ、中からは肉を焼く匂いと、下品な笑い声が聞こえてくる。

「……匂いますわ」

馬車を降りたメモリーが、鼻をヒクヒクさせる。

「腐った性根の匂いと……それ以上に、最高級の和牛のステーキを焼く匂いが!!」

「和牛だと?」

「間違いありません。あの脂の甘い香りは、A5ランクのサーロインです!」

メモリーの怒りのボルテージが頂点に達した。

「民衆を飢えさせておいて、自分たちだけステーキパーティー!? 許せません! あの肉は、もっと美味しく食べてくれる人の胃袋に入るべきです! つまり私の!」

「……結局そこか」

「シズル様、正面突破です!」

「おい、作戦はないのか?」

「ありません。空腹の私が通る道、それが道です!」

メモリーはドレスの裾を翻し、商会の門番の前に立った。

「な、何だお前たちは! ここはゴルド様の屋敷だぞ!」

槍を構える門番。
しかし、メモリーは止まらない。

「おどきなさい。……今、私は猛烈に機嫌が悪いのです」

ギロリ。
空腹で殺気立った「悪役令嬢の眼光」が炸裂する。

「ひっ……!?」

門番は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、腰を抜かして道を空けた。

「お邪魔しますわよ~!!」

バンッ!!
厚い扉が蹴破られる。

中では、恰幅の良い中年男――ゴルド会長と、数人の商人が豪華な食事を楽しんでいる最中だった。

「な、何事だ!?」

フォークを止めて振り返るゴルド。
その視線の先には、両手にスプーンとフォークを構え、鬼の形相で立っているメモリーと、その後ろで優雅に微笑む「氷の公爵」の姿があった。

「ごきげんよう、豚野郎様方。……お食事中失礼いたします」

メモリーの声が、冷たく響き渡る。

「そのお肉、焼き加減が少々甘いようですわね。私が『仕上げ』をして差し上げましょうか?」
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