婚約破棄? 上等です! 悪役令嬢は、断罪よりも限定タルトが気になる!

夏乃みのり

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「ここに署名を」


重厚な執務机の上に、一枚の羊皮紙が置かれた。


そこには、王家の公文書かと思うほど厳格な書式で、びっしりと文字が綴られている。


これが、私とキース様の間で交わされる『婚約合意書』兼『専属パティシエ雇用契約書』だ。


私は羽ペンを手に取り、内容を確認していく。


「ええと……第1条。甲(キース)は乙(ジンジャー)に対し、公爵邸における全ての製菓設備の利用権を与える」


「うむ。オーブン、ミキサー、冷却室、すべて自由に使え」


「第2条。乙は甲に対し、一日三回のおやつを提供する義務を負う。ただし、甲の公務が多忙な場合は、夜食としての提供も可とする」


「重要だ。会議が長引いた時の糖分補給は死活問題だからな」


キース様が真剣な顔で頷く。


私はさらに読み進める。


「第3条。材料費は無制限とする。必要であれば、他国からの輸入も辞さない」


「当然だ。カカオ豆ひとつ妥協するつもりはない」


「第4条。……えっ、これなんですか?」


私はある一文で指を止めた。


『乙が作成した新作スイーツの最初の試食権利(ファースト・バイト)は、全て甲が独占するものとする』


「……何か不満か?」


キース様が眉間に皺を寄せた。


「不満というか、これでは使用人の皆様に味見を頼めないのですが」


「ならん。一番美味い状態の『最初の一口』は俺のものだ。誰にもやらん」


子供か。


この強面の公爵様、独占欲の方向性が完全におかしい。


「分かりました。では、特記事項として一つ追加してもよろしいですか?」


「言ってみろ」


「『甲は乙に対し、体重増加を理由とした解雇、および婚約破棄を申し立てることはできない』」


「……なに?」


「毎日お菓子を食べていれば、当然太ります。私がふくよかになったからといって『詐欺だ』と言われても困りますので」


キース様は私の全身をジロリと観察した。


そして、鼻で笑う。


「安心しろ。俺は見た目など気にしない。それに、お菓子作りは重労働だ。貴様が太れるものなら太ってみろ」


「言いましたね? 言質取りましたよ?」


私はサラサラと特記事項を追記し、最後に署名をした。


『ジンジャー・シュガー・ローフ』


続いてキース様が、力強い筆跡で署名する。


『キース・ビター』


これで契約成立だ。


私たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。


愛のない政略結婚?


いいえ、これは「愛(スイーツ)しかない」戦略的パートナーシップだ。


「よし、契約は結ばれた。早速だがジンジャー」


「はい、旦那様(仮)」


「厨房へ行くぞ。料理長に貴様を紹介せねばならん」


キース様が立ち上がる。


その背中からは「これから戦場へ向かう」ような覇気が漂っていた。


          ◇


公爵邸の厨房は、広大だった。


数十人の料理人が忙しなく動き回り、スープの鍋からは湯気が立ち上り、肉を焼く香ばしい匂いが充満している。


まさに戦場。


しかし、キース様が入室した瞬間、その喧噪はピタリと止んだ。


「……閣下!?」


全員が直立不動になり、敬礼する。


その顔には明らかな恐怖が張り付いていた。


(うわぁ、本当に恐れられてるんだ……)


キース様は無言で厨房の中央に進み出ると、一人の巨漢の男を呼びつけた。


「ガストン、いるか」


「はっ! ここに!」


現れたのは、熊のような体格をした料理長ガストンだった。


腕には無数の包丁傷、顔には頑固そうな髭。


いかにも「男の料理」を作りそうな風貌だ。


「本日より、製菓部門の責任者を新設する」


キース様が私を背中から押し出した。


「こいつだ」


「……は?」


ガストンが目を丸くして私を見下ろした。


「閣下、冗談でしょう? こんな……ひょろひょろしたお嬢ちゃんに、何ができるんですか? ここは戦場ですよ。おままごとの場所じゃねえんです」


ごもっともな意見だ。


しかし、キース様の温度が氷点下まで下がった。


「……ガストン。貴様、俺の決定に異を唱えるのか?」


「い、いえ! 滅相もございません! しかしですね、職人たちも納得しないと言いますか……」


空気が凍りつく。


このままでは、キース様がガストンを物理的に排除しかねない。


私は慌てて二人の間に割って入った。


「はじめまして、料理長さん! ジンジャーと申します!」


「あ、ああ……」


「おままごと、とおっしゃいましたね?」


私はにっこりと微笑んだ。


「では、勝負しましょうか」


「あ?」


「私が今から一品作ります。もしそれが料理長さんのお口に合わなければ、私はここから出て行きます。でも、もし美味しかったら……」


私は周囲を見渡した。


「この厨房の『製菓エリア』の全権限、私にください」


ガストンが鼻を鳴らした。


「へっ、いい度胸だ。泣いて逃げ出すなよ、お嬢ちゃん」


          ◇


三十分後。


厨房には、甘く芳しい香りが漂っていた。


私が作ったのは、シンプルな『スフレパンケーキ』だ。


メレンゲの力だけで膨らませた、厚さ五センチにもなる極厚パンケーキ。


焼き立ての湯気が立ち上るその上に、ホイップバターとメープルシロップをたっぷりとかける。


「どうぞ、召し上がれ」


ガストンは疑わしげに皿を受け取った。


「ふん、ただのパンケーキじゃねえか。こんなもん……」


彼はフォークを突き刺した。


その瞬間。


「……!?」


手応えがなかったらしい。


フォークが、まるで雲を刺したかのようにスッと沈んだのだ。


「な、なんだこの柔らかさは……?」


恐る恐る口に運ぶ。


パクり。


厨房中の視線がガストンに集まる。


彼は咀嚼しようとして、動きを止めた。


「……消えた」


「え?」と周囲がざわつく。


「口に入れた瞬間、シュワッと溶けて消えやがった! なんだこれは! 俺は今、空気を食ったのか!?」


「空気じゃありません。卵の力です」


私は胸を張った。


「しっかりと泡立てたメレンゲと、絶妙な火加減。強すぎれば焦げるし、弱すぎれば膨らまない。この『儚さ』こそが、私の技術(スキル)です」


ガストンは震える手で、二口目を食べた。


今度はシロップとバターを絡めて。


「……うめぇ……」


強面の料理長の目から、一筋の涙がこぼれた。


「バターの塩気とシロップの甘み……そしてこの食感……俺は、俺は今まで何を焼いていたんだ……肉か? ただの肉だったのか……?」


完全に落ちた。


キース様が腕を組んで、勝ち誇った顔をしている。


「どうだガストン。認めるか」


「認めます! 参りました!」


ガストンはその巨体を揺らして、私の前に膝をついた。


「姐さん! いや、師匠と呼ばせてください!」


「えっ、師匠はやめてください」


「製菓エリアと言わず、オーブンでも何でも使ってください! 俺たちにその『消える魔法』を教えてくれぇぇ!」


他の料理人たちも、我も我もと集まってくる。


「俺にも一口!」


「すげぇ、皿が揺れてるぞ!」


厨房は一瞬にして、私の独擅場となった。


キース様が満足そうに頷き、私に耳打ちする。


「よくやった、ジンジャー。これで厨房は貴様の城だ」


「ふふっ、チョロい……いえ、皆様素直で助かりました」


「……今、本音が漏れたぞ」


こうして。


契約書には書かれていない『第5条:料理長以下、厨房スタッフは乙の信者となること』が、事実上成立したのだった。


私は麺棒を指揮棒のように掲げ、高らかに宣言した。


「さあ皆様! まずは挨拶代わりに、全種類のクッキーを焼きますよ! 小麦粉を持ってきて!」


「「「イエッサー!!」」」


怒号のような返事が返ってくる。


公爵邸の厨房に、革命の火(オーブンの火)が灯った瞬間だった。


しかし、この熱気が、翌日からとんでもない勘違いを生むことになるのを、私たちはまだ知らなかった。
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