婚約破棄? 上等です! 悪役令嬢は、断罪よりも限定タルトが気になる!

夏乃みのり

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公爵邸の朝は早い。


そして、重苦しい。


それが、ここ数年の常識だった。


主であるキース・ビター公爵は、その強面と冷徹な振る舞いで、使用人たちから畏怖されていた。


廊下を歩けばモーゼの十戒のように人が退き、視線が合えば石になると噂される。


そんな「魔王城」のような公爵邸に、異変が起きていた。


「……おい、聞いたか?」


「ああ、聞いたぞ。昨日の厨房の騒ぎ」


廊下の隅で、メイドたちがヒソヒソと話し合っている。


「なんでも、連れてこられた女性……ジンジャー様が、ガストン料理長を魔法で屈服させたらしいわ」


「魔法? どんな?」


「『消えるパンケーキ』よ。食べた瞬間に記憶が飛ぶ薬が入っていたとか……」


「ひぃっ、恐ろしい! やはりあの方は、閣下が連れてきた魔女なのね!」


尾ひれがつきまくっている。


そんな噂話が飛び交う中、当の本人である私は、朝から厨房で小麦粉まみれになっていた。


「お嬢! シュー生地の焼き上がり、あと三分です!」


「了解です! カスタードの冷却は?」


「完璧です! 氷水でキンキンに冷やしておきました!」


「よし、ではその間に生クリームを立てましょう! 砂糖は控えめ、キルシュを少々!」


「「「イエッサー!!」」」


厨房は戦場のような熱気に包まれていた。


ガストン料理長を筆頭に、コワモテの料理人たちが私の指示でキビキビと動いている。


その手には泡立て器や絞り袋。


似合わないことこの上ないが、彼らの目は真剣そのものだ。


「お嬢、質問が!」


「何でしょう、ガストンさん」


「このシュークリーム、閣下の朝食用ですよね? 朝からこんな甘いものを……閣下がお怒りになりませんか?」


ガストンが心配そうに眉を寄せる。


無理もない。


今までのキース様の朝食といえば、ブラックコーヒーと硬いパン、そして素っ気ない卵料理のみだったらしい。


「大丈夫です。昨日、契約書に『朝のおやつ必須』と明記しましたから」


「け、契約書に……?」


「それに、糖分は脳のエネルギー源です。これから公務に向かう閣下にこそ必要なのです!」


私は力説した。


そして、焼き上がった黄金色のシュー皮に、たっぷりとダブルクリームを詰め込む。


仕上げに粉砂糖を雪のように降らせれば、特製シュークリームの完成だ。


「さあ、これをワゴンに乗せて! いざ、ダイニングへ!」


「お、俺たちが運ぶんですか!?」


「当然です。自信作なんでしょう?」


私は尻込みするガストンたちの背中を叩き、ダイニングへと行進を開始した。


          ◇


ダイニングルーム。


そこには、いつものように新聞を読みながら、ブラックコーヒーを啜るキース様の姿があった。


眉間には深い皺。


漂うピリピリとした空気。


給仕のメイドたちが、少しでも音を立てないように、息を殺して動いている。


そこへ。


「おはようございます、キース様!」


私が元気よく扉を開け放った。


甘いバニラの香りが、重苦しい空気を物理的に押し流す。


キース様が顔を上げ、私を見た瞬間。


ピクッ。


眉間の皺が、一ミリほど動いたのを私は見逃さなかった。


「……朝から騒がしいな、ジンジャー」


「朝食後のデザートをお持ちしました! 『目覚めのダブルクリームシュー』です!」


私が合図をすると、ガストンが震える手で皿を差し出した。


「か、閣下……どうぞ……」


キース様は皿の上のシュークリームを凝視した。


そして、周囲のメイドたちを一瞥する。


「……人払いをしてくれ」


「へ?」


「全員、下がれ」


低い声での命令。


メイドたちは「処刑が始まる!」と勘違いしたのか、青ざめた顔で一斉に退室した。


ガストンも逃げようとしたが、私が裾を掴んで引き留めた。


「ガストンさんは残ってください。感想を聞くのも仕事です」


「ひぃぃ……」


部屋には私とキース様、そしてガストンの三人だけになった。


静寂。


キース様はゆっくりとシュークリームを手に取った。


ナイフもフォークも使わない。手掴みだ。


「……いただく」


ガブッ。


豪快な音がした。


あふれ出そうになるクリームを、舌で巧みに絡め取る。


そして。


「…………」


キース様が目を閉じ、天を仰いだ。


その口元が、ふにゃりと緩む。


「……うまい」


「でしょう!?」


私はガッツポーズをした。


「皮の香ばしさとクリームの濃厚さ! そして何より、このボリューム! 朝の空腹にガツンと来ますよね!」


「ああ……脳髄に染み渡るようだ……」


キース様は恍惚とした表情で、あっという間に一つを平らげた。


そして、指についたクリームを名残惜しそうに舐める。


その姿を見て、ガストンが腰を抜かした。


「う、嘘だろ……あの閣下が……指を舐めた……?」


「ガストン」


「は、はいっ!」


「貴様が焼いたのか?」


「い、いえ! 生地はお嬢……いえ、ジンジャー様のご指導で! 俺はただ、クリームを詰めただけで……」


「良い仕事だ」


キース様が、ニッと笑った。


それは、いつもの冷徹な仮面が外れた、少年のように無邪気な笑顔だった。


「今までの貴様の料理は、ただ腹を満たすだけの作業だった。だが、これは違う。……愛を感じる」


「あ、愛……!?」


ガストンが赤面した。


「褒美をとらす。何か欲しいものはあるか?」


「い、いえ! 閣下のそのお言葉だけで十分でさぁ!」


「そうか。では、明日からはカスタードのバニラを倍増しろ」


「イエッサー!」


ガストンは涙目になって敬礼し、脱兎のごとく厨房へ戻っていった。


きっと今頃、「閣下が笑った! 俺のシュークリームで笑った!」と自慢しているに違いない。


二人きりになったダイニングで、私はキース様に二つ目のシュークリームを差し出した。


「はい、おかわりです」


「気が利くな」


キース様はそれを受け取りながら、真剣な顔で言った。


「ジンジャー、貴様はやはり天才だ。この城の空気が変わった気がする」


「空気が?」


「ああ。今朝、廊下ですれ違ったメイドが、俺を見て悲鳴を上げなかった」


「それは良かったです」


「まあ、腰を抜かしてへたり込んではいたが」


「……まだリハビリが必要ですね」


私は苦笑した。


使用人たちの恐怖心は、一朝一夕には消えないだろう。


でも、こうやって「甘いもの」を介在させることで、少しずつ誤解が解けていけばいい。


「ところでキース様」


「なんだ」


「口の端にクリームがついていますよ」


私が指差すと、キース様は慌ててナプキンで拭った。


「……見ていたなら早く言え」


「可愛らしかったので、つい」


「ぶっ……!」


キース様がむせた。


耳まで真っ赤になっている。


「き、貴様……俺をからかっているのか?」


「いいえ、事実を述べただけです。そのギャップ、素晴らしいと思いますよ」


「……フン、減らず口を」


キース様はそっぽを向いたが、その口元が緩んでいるのを私は知っている。


          ◇


その日の午後。


公爵邸の廊下で、奇妙な光景が目撃された。


メイドの一人が、震える手でワゴンを運んでいたのだ。


その上には、焼き立てのマドレーヌが山のように積まれている。


「ど、どうしよう……これを執務室に持って行けって……」


「大丈夫よ、マリア。さっきガストンさんが言ってたわ。『菓子を持っていく時だけは、閣下は猛獣じゃなくて猫になる』って」


「本当かなぁ……」


メイドのマリアは決死の覚悟で執務室のドアをノックした。


「し、失礼いたします! お、お、おやつをお持ちしました!」


「入れ」


低い声。


マリアはガタガタと震えながら入室し、ワゴンをキース様の机の横に置いた。


キース様は書類から目を離さず、無言で手を伸ばした。


そして、マドレーヌを一つ掴み、口に放り込む。


サクッ。


咀嚼音。


次の瞬間。


「……ふぅ」


キース様が、深く、満足げなため息をついたのだ。


そして、ちらりとマリアを見た。


「……ご苦労」


「へ?」


「退室していい。……ああ、待て」


「は、はいっ! 申し訳ございません! 命だけは!」


「この紅茶、少しぬるい。淹れ直せ」


「……はい?」


「菓子が最高なのに、茶がぬるくては台無しだ。熱いのを頼む」


「あ、はい! ただいま!」


マリアは執務室を飛び出した。


そして、廊下で待っていた同僚たちに叫んだ。


「生きてる! 私、生きてるわ! それに閣下が……お茶をリクエストしたのよ!」


「ええっ!? あの『水でいい』が口癖の閣下が!?」


「お菓子のおかげよ! ジンジャー様のお菓子マジックだわ!」


こうして。


「お菓子を持っていけば安全」という新たな神話が、公爵邸に爆誕した。


さらに、「ジンジャー様は猛獣使いの女神である」という噂もセットで広まっていく。


当の女神(私)は、そんなこととは露知らず、厨房で「明日はタルトにするか、ゼリーにするか」と悩んでいるだけなのだが。


公爵邸の恐怖政治は、バターと砂糖の香りに浸食され、確実に崩壊しつつあった。


ただ一つ、誤算があったとすれば。


「……ジンジャー様と閣下、夜な夜な厨房で密会しているらしいわよ」


「えっ、やっぱりそういう関係!?」


「甘い匂いが毎晩漂ってくるもの。きっと、熱烈な……キャッ!」


使用人たちの間で、私たちの「スイーツ会議(夜食)」が、完全に「愛の営み」として誤変換されていることだけは、まだ誰も訂正していなかった。
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