婚約破棄、万歳!あとは推しを愛でるだけの簡単なお仕事です

夏乃みのり

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「リリアン! リリアンはどこだ! こんな筋肉臭い女の家にいつまで滞在している!」

静かな午後のマッスル・パレスに、聞きたくもない高音の怒鳴り声が響き渡った。
私はバルコニーで、キース様から差し入れられた高タンパク・低塩分の燻製肉をつまみながら、ゆっくりと算盤を弾いた。

「……パチリ。不法侵入、及び静謐保持義務違反。殿下、これで通算十五回目のレッドカードですわよ」

「うるさい! 婚約破棄された腹いせに、僕のリリアンを監禁して洗脳するなど、公爵令嬢として恥ずかしくないのか!」

セドリック殿下が庭を突っ切り、一階のトレーニングルームへと乱入してくる。
その後ろには、相変わらず困り顔の近衛兵たちが数名。彼らも私の「食事改革」の恩恵を受けているためか、心なしか殿下を止める動きが鈍い。

「監禁? 失礼な。これは『国家財産(次期王妃予定者)のバリューアップ計画』ですわ。……リリアン様、いかがですか? あと三十秒、キープですわよ!」

「…………っ、……っう、うううう……!」

トレーニングルームの中央。
リリアン様は今、床に肘をつき、体を一直線に保つ「プランク」の姿勢で静止していた。
その額からは大粒の汗が流れ、可憐な顔は真っ赤になっている。だが、その瞳にはかつての弱々しさはなく、どこか「悟り」に近い光が宿っていた。

「リ、リリアン!? なんだその、床を這いずるような情けない格好は! 早く僕のところへ来い、美味しいお菓子を買ってやったぞ!」

セドリック殿下が駆け寄ろうとしたその時。
リリアン様が、低い、しかしよく通る声で呟いた。

「……殿下。……静かにして、いただけますか」

「え?」

「今……わたくしの……腹直筋(ふくちょくきん)が……熱い対話を、しているのです……。邪魔を、しないで……!」

「対話!? 筋肉と対話だと!? ジェリカ、貴様、本当にリリアンに何を教えたんだ!」

私は優雅に階段を下り、セドリック殿下の前に立った。

「教えたのは、己を支える『軸』の作り方ですわ。……はい、リリアン様。三、二、一……終了です!」

「……ぷはっ! ……はぁ、はぁ、はぁ……。……見えましたわ……、ジェリカ様。わたくし、今、宇宙の真理(筋肉)の端っこに触れましたわ……!」

リリアン様は床に倒れ込むこともなく、スッと立ち上がった。
驚くべきことに、その立ち姿は一週間前とは見違えるほど凛としていた。猫背だった背筋は真っ直ぐに伸び、顎を引いたその表情には、確かな自信が漲っている。

「リリアン! さあ、こんな所はもういい。王宮へ戻ろう。君がいないと、書類の整理が終わらなくて僕が困るんだ!」

セドリック殿下がリリアン様の細い手首を掴もうとした。
だが、リリアン様はそれをしなやかな動きで回避し、逆に殿下の肩に手を置いた。

「殿下。……そのお声の出し方、喉の筋肉に負担がかかりすぎていますわ。もっと腹圧(ふくあつ)を意識して、深く息を吸ってからお話しになって」

「は、はらあつ……?」

「それから、殿下。わたくしを連れ戻したいのでしたら、まずはその丸まった背中をどうにかしてくださいませ。わたくし、最近気づきましたの。自信のない男の方ほど、胸筋が萎縮して肩が内側に入り込んでいるのだと。……今の殿下の姿勢、正直に申し上げて、全くときめきませんわ」

「な……っ、なな、何だと!?」

セドリック殿下が、まるで見知らぬ化け物を見るような目でリリアン様を凝視した。
リリアン様は、ニコリとあざとい笑みを浮かべた――が、その笑みの裏には、鋼のような意志が隠されている。

「わたくし、ジェリカ様に教えていただきましたの。誰かに守られるのを待つのではなく、自分で自分を支える筋肉を持てば、殿下のワガママなんて重力にすら感じないのだと!」

「パチパチパチ。満点ですわ、リリアン様」

私は拍手を送りながら、愕然とする殿下へと視線を移した。

「殿下。ご覧の通り、彼女は『アップグレード』されました。もう、あなたの甘えを受け止めるだけのサンドバッグではありませんわ。……もし彼女を連れ戻したいのなら、殿下自身も彼女に見合うだけの『軸』を鍛えてこられることですわね」

「き、貴様ら……! 女のくせに、筋肉、筋肉と……! そんなに筋肉が好きなら、その騎士団長と勝手に筋肉祭でもやっていろ!」

セドリック殿下は、顔を真っ赤にして地団駄を踏むと、逃げるように部屋を飛び出していった。
その走り方すらも、「大腿四頭筋の使い方がなっていない」とリリアン様が冷静に分析していたのには、流石の私も感銘を受けた。

「……ふぅ。……ジェリカ様。わたくし、言えましたわ。殿下に、はっきりと……!」

「ええ、素晴らしかったですわよ、リリアン様。パチリ。……さて、殿下という余計な脂肪(ストレス)を燃焼させたところで、次のセットに移りましょうか。今度はダンベルを使って、上腕三頭筋を追い込みますわよ」

「はいっ、お師匠様!」

リリアン様の返事は、軍隊のように力強くなっていた。
そんな二人の様子を、執務室から戻ってきたキース様が、扉の陰から呆然と眺めていた。

「……アステリア公嬢。……君は、リリアン嬢を一体何に改造するつもりだ? 彼女、さっき殿下を片手で投げ飛ばしそうな勢いだったぞ」

「あら、キース様。彼女はただ、自分の価値を再計算しただけですわ。……それよりキース様。今の騒動で、私の指導時間は十分延長されました。……補填として、少しだけ……お隣、よろしいかしら?」

私はキース様の隣に歩み寄り、その腕に視線を落とした。
仕事終わりの、少し汗ばんだ肌の下で眠る、静かな筋肉。

「……何だ、また触るのか?」

「いえ。今日は、眺めるだけにいたします。……パチリ。キース様の筋肉は、いつ見ても『正しい答え』を教えてくれますわね」

「……君の言葉は、相変わらず理解が追いつかないが」

キース様は困ったように笑い、だがその腕を隠そうとはしなかった。
私の算盤の珠が、夕暮れの光を受けて静かに輝く。

婚約破棄から始まった私の新しい計算式。
そこには今、かつての敵も、憧れの騎士も、そして強くなった自分も、完璧なバランスで組み込まれていた。
赤字だった人生は、今や誰もが羨むほどの、莫大な「幸福」という名の黒字を計上し続けている。
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