婚約破棄、万歳!あとは推しを愛でるだけの簡単なお仕事です

夏乃みのり

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「ジェーリカーーーー! どこだジェリカ! こんな熊が出るような不衛生な場所に、僕をいつまで待たせるつもりだ!」

アステリア領、標高千二百メートルの「筋肉強化合宿所(元・山小屋)」。
そこに、山道には全く適さない金糸の刺繍入りマントを羽織ったセドリック殿下が、今にも泣き出しそうな顔で現れた。

彼の背後では、無理やり付き合わされた側近たちが、青い顔をして膝をガクガクと震わせている。
ちなみに、彼らが乗ってきた豪華な馬車は、三キロ手前の急勾配で車軸が折れてリタイアしたらしい。

「パチ、パチパチ。……殿下。入山届の提出もなしに、そのような軽装で我が領地の聖域に踏み込むとは。……救助費用として、金貨五十枚を計上してもよろしいですか?」

私は、キース様の「背筋(はいきん)のうねり」をスケッチしていた筆を置き、冷徹な視線を向けた。

「ふ、ふざけるな! 貴様、皇太子である僕から金を取るつもりか! それより見てみろ、僕の靴を! 最高級のシルク製が、泥で台無しだぞ!」

「殿下。山の神は、シルクの靴を履いているからといって斜面を平らにしてはくれませんわ。……ハンス。殿下に『山歩きにおける靴の重要性と、摩擦係数による転倒リスク』についてのレクチャーを」

「お嬢様、そんなものより、まずは殿下を座らせるのが先かと。……ほら、あんなに足が震えて。生まれたての小鹿のようですよ」

ハンスが指差した先で、セドリック殿下は岩に腰を下ろそうとして、バランスを崩し無様に尻餅をついた。

「わあぁっ!? な、なんだこの岩は! 尖っていて痛いではないか!」

「それは岩ではなく、自然の厳しさという名の教育的指導ですわ。……リリアン様、出番です」

「はいっ、お師匠様!」

トレーニングウェア(動きやすさ重視の改造ドレス)に着替えたリリアン様が、薪を二十キロほど背負った状態で、軽やかに岩場を駆け下りてきた。

「殿下! お久しぶりですわ! ……まあ、殿下。そのお座りになった姿勢、大臀筋(だいでんきん)が完全に緩んでおりますわよ。もっとこう、グッと力を入れて、重心を安定させないと!」

「リ、リリアン!? 貴様、その背中の荷物は何だ! それからその……なんだか顔つきが以前より険しくなっていないか?」

「険しいのではなく、『引き締まった』と言ってくださいまし! 殿下、今のわたくしなら、殿下をお姫様抱っこして山頂まで往復できますわよ。……試してみます?」

リリアン様がムキッと腕を曲げて見せると、セドリック殿下は「ひいっ」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
かつて守ってあげたくなるような可憐な少女だったリリアン様は、今や「殿下を物理的に守れる女」へと進化を遂げていたのだ。

そこへ、上半身裸で丸太を担いだキース様が戻ってきた。
汗で光る大胸筋。夕陽に映える腹斜筋。

(……ああ。絶景。これこそが、八億ゴールドを払ってもお釣りが来る『真実の景色』ですわ……!)

「殿下。……こんな山奥まで、一体何用ですか。訓練の邪魔をしないでいただきたい」

キース様の冷ややかな声が響く。
セドリック殿下は、自分より圧倒的に大きく、逞しい男たちの群れに囲まれ、完全に気圧されていた。

「き、キース! お前もジェリカにたぶらかされているのか! 王都では、アステリア家が騎士団を取り込んでクーデターを計画しているという噂まで出ているんだぞ!」

「クーデター? パチリ。……殿下、そんな非効率なことはいたしませんわ。国家を転覆させるよりも、今の国家予算を筋肉維持費に回させる方が、よほど建設的ですもの」

「どっちにしろろくなことじゃないだろう!」

セドリック殿下が立ち上がろうとした、その時だった。
「……あ」というマヌケな声と共に、彼の足元の小石が崩れた。

そこは、合宿所のすぐ裏にある緩やかな斜面……のはずだったが、数日前の雨で地盤が緩んでいたらしい。

「あ、あああああああーーーーっ!」

「あ、殿下」

セドリック殿下は、まるで転がる樽のようにゴロゴロと斜面を転げ落ちていった。
と言っても、十メートルほど下の泥溜まりにボチャンと落ちる程度の、命に別状はない「笑える遭難」である。

「……ハンス、タイマーを。救助完了まで何分かかるか計測しなさい」

「了解しました、お嬢様」

「リリアン様、あなたは彼を回収しなさい。……ただし、泥だらけの彼を運ぶ際、脊柱起立筋(せきちゅうきりつきん)を意識するのを忘れないように」

「承知いたしました! 良い負荷(ウェイト)になりますわ!」

リリアン様は嬉々として斜面を滑り降りていった。
泥の中で「助けて……リリアン……」と情けなく手を伸ばすセドリック殿下を、リリアン様は片手でひょいと持ち上げ、そのまま肩に担ぎ上げた。

「……ほら、殿下。しっかり掴まっていてくださいまし。……ふんっ! ……ああ、殿下。以前より少しお痩せになりました? もっとタンパク質を摂らないと、筋肉が分解されてしまいますわよ」

「……リリアン、君……本当に、僕の知っているリリアンか……?」

泥まみれの皇太子を担ぎ、平然と斜面を登ってくるリリアン様。
その姿は、もはや「令嬢」という枠を超え、一種の「英雄(ヒーロー)」の風格すら漂わせていた。

斜面の上でそれを見ていたキース様が、私に小声で尋ねた。

「……アステリア公嬢。……あんなリリアン嬢を見たら、殿下も流石に懲りて帰るのではないか?」

「いえ、キース様。私の計算では、殿下のようなタイプは、自分を物理的に制圧してくれる強さに、逆に依存(デレ)始める可能性がありますわ。……パチリ。そうなれば、リリアン様の筋肉はさらに磨かれ、殿下は大人しくなる。……win-winですわね」

「……君の『win』の定義が、ますます怖くなってきたよ」

キース様は、そう言いながらも、私のために用意されていた椅子(実は私が座るためのものではなく、彼の筋肉を特定の角度で固定して眺めるための展示台)に、疲れた様子で腰を下ろした。

私は、泥まみれで泣き喚くセドリック殿下をBGMに、キース様の太ももの筋肉――大腿直筋の盛り上がりを心ゆくまで堪能した。

(山、遭難、そして泥まみれの殿下。……全ての変数が、私の『幸福』を最大化する方向へ働いていますわ。……ああ、婚約破棄して本当に良かった!)

夜の帳が下りる頃、山小屋にはリリアン様のスパルタな「遭難後ケア(筋トレ)」の指導に、殿下の悲鳴が虚しく響き渡っていた。
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