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「……は? もう一度おっしゃってくださいませ。私の算盤が聞き間違えたようですわ」
山小屋のテラス。
王都から馬を飛ばしてきた使者の言葉を聞き、私は愛用の算盤を叩く手を止めた。
隣でプロテイン飲料を優雅に嗜んでいたリリアン様も、プロテインを吹き出しそうになって咳き込んでいる。
「ですから、ジェリカ様。国王陛下がおっしゃるのです。……『セドリックとジェリカの婚約破棄は、手続き上の不手際により無効。よって二人の婚約は継続されるものとする』と」
使者は冷や汗を拭いながら、金色の封蝋がなされた書状を差し出した。
それを見た瞬間、薪割りの途中で休憩していたセドリック殿下が、顔を輝かせて立ち上がった。
「な、何だと!? 父上がそう言ったのか! ああ、神よ! ようやくこの筋肉地獄から解放されるんだな! リリアン、ジェリカ、聞いたか! 僕は王都に帰るぞ!」
「殿下、お座りになって。大腿筋(だいたいきん)の緊張が解けていますわよ」
リリアン様が冷ややかに言い放つ。
セドリック殿下は「ひっ」と声を上げて、再び岩の上に座り直した。
「パチ、パチパチパチ……。……使者の方。陛下にお伝えください。……『一度発行された領収書の内容変更は、税務署が認めません』と」
「……はい? ぜいむ……?」
「婚約とは、家と家との契約ですわ。それを公衆の面前で、一方的に破棄したのは殿下ご自身。私は既にその『契約終了』を前提として、新居を構え、騎士団への投資を行い、さらにはリリアン様の筋肉改造という新規事業(プロジェクト)まで立ち上げています」
私は立ち上がり、使者へと詰め寄った。
「今さら『やっぱり無しで』などという要望を受け入れるのは、市場の信義にもとります。パチリ。……婚約復帰に伴う私の損失を計算しますと、再契約金として金貨五十億枚は必要になりますが、王家の金庫にそれだけの余裕がございますか?」
「ご、五十億……!? 公嬢、それは流石に国家予算を揺るがす額では……」
「私の『自由』と、目の前の『良質な筋肉たち』を鑑賞する権利。それを奪う代償としては安すぎるくらいですわ!」
私が叫んだその時、背後から重厚な気配が近づいてきた。
キース様だ。彼は剣の訓練を終えたばかりらしく、薄いシャツが汗で肌に張り付いている。
その下で呼吸に合わせて波打つ腹斜筋(ふくしゃきん)……。
(……っ! ああ、これですわ。この景色を捨てて、再びあの無能な殿下の書類仕事に追われる日々に戻る? ……計算するまでもありません。損失一〇〇パーセントですわ!)
「……使者殿。私の耳にも、今の話は届いたぞ」
キース様の声は、いつになく低く、冷たかった。
彼は私の肩にそっと手を置き、使者を威圧するように見据えた。
「アステリア公嬢は、現在、近衛騎士団の『事務改善アドバイザー』という極めて重要な役職に就いている。彼女がいなくなれば、騎士団の運営、ひいては国境の防衛力に深刻な影響が出る。……陛下には、そうお伝えしろ」
「キ、キース様……!」
(……ああ。……パチリ。今、キース様の指先から伝わる振動。怒りと、そして……少しの不安? ……この筋肉の震え、計算によれば私を『離したくない』という執着の表れですわね! 百点、いえ、一億点ですわ!)
「キース、貴様! 僕からジェリカを奪うつもりか!」
セドリック殿下が勇気を振り絞って叫んだ。
「殿下。奪うも何も、あなたは彼女を捨てたはずだ。……それに、今のあなたに、彼女を支えるだけの『軸』があるとは思えませんが?」
「ぐっ……。それは……、それはこれから鍛える予定で……!」
「予定は未定ですわ、殿下」
私は算盤をチャッ、と鳴らした。
「使者の方。陛下にはこうお伝えください。……『ジェリカ・フォン・アステリアは、現在、新しい資産(筋肉)の運用に忙しく、旧来の負債(殿下)に関わる時間は一秒たりともございません』と」
「し、しかし、陛下は強硬ですぞ! 無理にでも連れ戻せと仰せになれば……」
「その時は、私の領地の木こりたちと、この進化した騎士団全員で、王宮の門前でスクワット・デモを行いますわ。……いいですね、総員!」
「「「「おおおおお!!」」」」
騎士たちが一斉に、鍛え抜かれた上腕二頭筋を誇示しながら叫んだ。
その圧倒的な肉の壁に、使者は腰を抜かして震え上がった。
「わ、わかりました……。そのようにお伝えします……!」
使者は逃げるように馬に飛び乗り、王都へと去っていった。
嵐が去った後の山小屋に、キース様のため息が響く。
「……公嬢。……本当に、帰らなくていいのか? 君なら、王妃という地位さえ手に入れられたはずだ」
キース様が、少しだけ不安そうな瞳で私を見つめてきた。
私は彼の逞しい胸元――大胸筋の厚みを指先でそっと確かめ、満面の笑みを浮かべた。
「キース様。……私は、数字に嘘はつきません。今の私の幸福指数は、王妃になる場合の三千倍。……理由は、言わなくても分かりますわね?」
「……いや、全く分からないが」
キース様は顔を赤くして視線を逸らした。
だが、その肩の力がふっと抜けたのを、私は見逃さなかった。
(……ふふふ。……パチリ。黒字継続。……王都の権力より、目の前の筋肉。これが私の、揺るぎない経営方針ですわ!)
リリアン様が「お師匠様、今のうちに背筋トレーニング、もう一セットいかがですの!」とはしゃいでいる。
私の新しい人生の帳簿には、今日も「幸せ」という名の利益が、山のように積み上がっていくのだった。
山小屋のテラス。
王都から馬を飛ばしてきた使者の言葉を聞き、私は愛用の算盤を叩く手を止めた。
隣でプロテイン飲料を優雅に嗜んでいたリリアン様も、プロテインを吹き出しそうになって咳き込んでいる。
「ですから、ジェリカ様。国王陛下がおっしゃるのです。……『セドリックとジェリカの婚約破棄は、手続き上の不手際により無効。よって二人の婚約は継続されるものとする』と」
使者は冷や汗を拭いながら、金色の封蝋がなされた書状を差し出した。
それを見た瞬間、薪割りの途中で休憩していたセドリック殿下が、顔を輝かせて立ち上がった。
「な、何だと!? 父上がそう言ったのか! ああ、神よ! ようやくこの筋肉地獄から解放されるんだな! リリアン、ジェリカ、聞いたか! 僕は王都に帰るぞ!」
「殿下、お座りになって。大腿筋(だいたいきん)の緊張が解けていますわよ」
リリアン様が冷ややかに言い放つ。
セドリック殿下は「ひっ」と声を上げて、再び岩の上に座り直した。
「パチ、パチパチパチ……。……使者の方。陛下にお伝えください。……『一度発行された領収書の内容変更は、税務署が認めません』と」
「……はい? ぜいむ……?」
「婚約とは、家と家との契約ですわ。それを公衆の面前で、一方的に破棄したのは殿下ご自身。私は既にその『契約終了』を前提として、新居を構え、騎士団への投資を行い、さらにはリリアン様の筋肉改造という新規事業(プロジェクト)まで立ち上げています」
私は立ち上がり、使者へと詰め寄った。
「今さら『やっぱり無しで』などという要望を受け入れるのは、市場の信義にもとります。パチリ。……婚約復帰に伴う私の損失を計算しますと、再契約金として金貨五十億枚は必要になりますが、王家の金庫にそれだけの余裕がございますか?」
「ご、五十億……!? 公嬢、それは流石に国家予算を揺るがす額では……」
「私の『自由』と、目の前の『良質な筋肉たち』を鑑賞する権利。それを奪う代償としては安すぎるくらいですわ!」
私が叫んだその時、背後から重厚な気配が近づいてきた。
キース様だ。彼は剣の訓練を終えたばかりらしく、薄いシャツが汗で肌に張り付いている。
その下で呼吸に合わせて波打つ腹斜筋(ふくしゃきん)……。
(……っ! ああ、これですわ。この景色を捨てて、再びあの無能な殿下の書類仕事に追われる日々に戻る? ……計算するまでもありません。損失一〇〇パーセントですわ!)
「……使者殿。私の耳にも、今の話は届いたぞ」
キース様の声は、いつになく低く、冷たかった。
彼は私の肩にそっと手を置き、使者を威圧するように見据えた。
「アステリア公嬢は、現在、近衛騎士団の『事務改善アドバイザー』という極めて重要な役職に就いている。彼女がいなくなれば、騎士団の運営、ひいては国境の防衛力に深刻な影響が出る。……陛下には、そうお伝えしろ」
「キ、キース様……!」
(……ああ。……パチリ。今、キース様の指先から伝わる振動。怒りと、そして……少しの不安? ……この筋肉の震え、計算によれば私を『離したくない』という執着の表れですわね! 百点、いえ、一億点ですわ!)
「キース、貴様! 僕からジェリカを奪うつもりか!」
セドリック殿下が勇気を振り絞って叫んだ。
「殿下。奪うも何も、あなたは彼女を捨てたはずだ。……それに、今のあなたに、彼女を支えるだけの『軸』があるとは思えませんが?」
「ぐっ……。それは……、それはこれから鍛える予定で……!」
「予定は未定ですわ、殿下」
私は算盤をチャッ、と鳴らした。
「使者の方。陛下にはこうお伝えください。……『ジェリカ・フォン・アステリアは、現在、新しい資産(筋肉)の運用に忙しく、旧来の負債(殿下)に関わる時間は一秒たりともございません』と」
「し、しかし、陛下は強硬ですぞ! 無理にでも連れ戻せと仰せになれば……」
「その時は、私の領地の木こりたちと、この進化した騎士団全員で、王宮の門前でスクワット・デモを行いますわ。……いいですね、総員!」
「「「「おおおおお!!」」」」
騎士たちが一斉に、鍛え抜かれた上腕二頭筋を誇示しながら叫んだ。
その圧倒的な肉の壁に、使者は腰を抜かして震え上がった。
「わ、わかりました……。そのようにお伝えします……!」
使者は逃げるように馬に飛び乗り、王都へと去っていった。
嵐が去った後の山小屋に、キース様のため息が響く。
「……公嬢。……本当に、帰らなくていいのか? 君なら、王妃という地位さえ手に入れられたはずだ」
キース様が、少しだけ不安そうな瞳で私を見つめてきた。
私は彼の逞しい胸元――大胸筋の厚みを指先でそっと確かめ、満面の笑みを浮かべた。
「キース様。……私は、数字に嘘はつきません。今の私の幸福指数は、王妃になる場合の三千倍。……理由は、言わなくても分かりますわね?」
「……いや、全く分からないが」
キース様は顔を赤くして視線を逸らした。
だが、その肩の力がふっと抜けたのを、私は見逃さなかった。
(……ふふふ。……パチリ。黒字継続。……王都の権力より、目の前の筋肉。これが私の、揺るぎない経営方針ですわ!)
リリアン様が「お師匠様、今のうちに背筋トレーニング、もう一セットいかがですの!」とはしゃいでいる。
私の新しい人生の帳簿には、今日も「幸せ」という名の利益が、山のように積み上がっていくのだった。
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