悪役令嬢は、婚約破棄をあざ笑う!

夏乃みのり

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翌朝。

爽やかな朝の光が、森の木漏れ日となって降り注いでいる。

小鳥がさえずる中、リシャス家の荷馬車(兼移動式厨房)からは、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂っていた。

「お待たせした。朝食の準備が整った」

グランシェフが、恭しく銀のプレートを差し出した。

彼が作ったのは、一見するとシンプルなオムレツだ。

だが、その表面は赤ちゃんの肌のように滑らかで、ナイフを入れずとも内側のトロトロ具合が伝わってくる。

付け合わせには、厚切りのベーコンと、森で採れたハーブのサラダ。

「ほう……」

サンドイッチは優雅にナプキンを首元にかけた。

彼女の目は、宝石鑑定士のように鋭く皿の上をスキャンしている。

「見た目は合格ね。黄色と赤と緑のコントラストが美しいわ。朝の気怠い胃袋を視覚から刺激する計算ができている」

「光栄だ。だが、味はもっと驚くぞ」

グランシェフは自信満々に腕を組んだ。

昨夜のリゾットで、彼はサンドイッチの好みを完全に把握した(つもりだ)。

火加減、塩加減、アクセントの胡椒。

すべてを完璧に計算し尽くした、渾身の一皿である。

「では」

サンドイッチはナイフを入れた。

ぷるん、とオムレツが揺れ、中から半熟の卵液が黄金のソースとなって流れ出す。

それを一口、口へ運ぶ。

咀嚼。

嚥下。

静寂。

森の静けさが、やけに耳につく。

グランシェフは固唾を呑んで、彼女の言葉を待った。

「美味い」と言うか?

それとも「最高」と叫ぶか?

しかし、サンドイッチの口から漏れたのは、予想外の言葉だった。

「……惜しいわね」

「……は?」

グランシェフのクールな仮面が崩れた。

「お、惜しい? 今、惜しいと言ったのか?」

「ええ。点数をつけるなら九十八点。あと二点足りないわ」

「バカな! 完璧なはずだ! 卵の撹拌は三回裏ごしをして空気を抱き込ませたし、バターは最高級の発酵バターを使った! 焼き時間も秒単位で管理したんだぞ!」

グランシェフが前のめりに抗議する。

彼は完璧主義者だ。

九十八点という評価は、彼にとって屈辱以外の何物でもない。

サンドイッチは、残りのオムレツをフォークで突きながら、冷ややかに告げた。

「塩よ」

「塩?」

「ええ。塩が、0.1グラム多いわ」

「……はぁ!?」

グランシェフは素っ頓狂な声を上げた。

「0.1グラムだと!? そんな微細な差、人間に分かるはずが……!」

「分かるわよ。私の舌を舐めないでちょうだい」

サンドイッチは溜め息をついた。

「貴方、昨日のリゾットと同じ分量の塩を使ったでしょう?」

「あ、ああ。それが私の黄金比率だからな」

「そこが間違いなのよ。今日の朝は、昨日よりも湿度が五パーセント高いわ」

「湿度……?」

「湿気が多い日は、人間の舌は塩味を強く感じやすいの。それに、貴方が使ったこのベーコン。昨日のものより脂身が少ない部位だわ。脂の甘みが減った分、塩気がダイレクトに舌に当たる」

サンドイッチは人差し指を立ててチッチッと振った。

「環境、食材の個体差、そして食べる側の体調。それら全てを計算に入れて調整してこそ、真の『グランシェフ(偉大なる料理人)』じゃないのかしら?」

「ぐ……ぬぅ……!」

グランシェフは言葉を失った。

彼は急いで自分の分を口に運んだ。

味わう。

真剣に、全神経を集中させて。

「(……確かに。言われてみれば、ほんの僅かに、舌先に刺さるような塩気(カド)がある……)」

それは普通の人なら「誤差」あるいは「気のせい」で済ませるレベルだ。

しかし、指摘されて初めて気づくほどの微細な違和感。

それが、この料理の「完璧」を阻害していた。

ガシャン。

グランシェフはフォークを取り落とし、その場に膝をついた。

「……負けた」

「あら、勝負していたつもり?」

「完敗だ……。俺は、教科書通りのレシピに固執して、目の前の食材と環境を見ていなかった……。料理人として、恥ずべきことだ」

彼は地面に拳を叩きつけた。

その背中には、悲壮感が漂っている。

サンドイッチは少し意地悪だったかな、と思いながらも、残りのオムレツを平らげた。

「まあ、九十八点でも王宮のシェフよりは上よ。自信を持ちなさい。それに、不味くはないわ。私の基準が天井知らずなだけで」

「いや、ダメだ」

グランシェフが顔を上げた。

その瞳は、先ほどまでの絶望から一転、怪しい光を放っていた。

ギラギラとした、飢えた獣のような目だ。

「サンドイッチ。君はすごい」

「え?」

「俺の料理の、俺ですら気づかない欠陥を見抜いた。つまり、君は俺の料理を『完成』させられる唯一の存在だ」

グランシェフはじりじりとサンドイッチに詰め寄った。

「俺を罵ってくれ」

「はい?」

「もっとダメ出しをしてくれ! 俺の料理をこき下ろしてくれ! 君に否定されるたびに、俺の料理は研ぎ澄まされていくのを感じるんだ!」

「……貴方、ちょっと気持ち悪いわよ?」

サンドイッチは若干引き気味に言った。

どうやらこの男、職人気質を通り越して、少しマゾヒスティックな領域に足を踏み入れているらしい。

「次の昼食はどうする? 君は何が食べたい? 何でも言ってくれ。君が『百点』と言うまで、俺は何十回でも作り直す!」

「あー、うん。その情熱は買うわ。とりあえずお昼は……そうね、次の街に着いてからにしましょう」

サンドイッチは地図を広げた。

グランシェフの重い愛(料理への)を適当にかわし、話題を変える。

「この街道を行けば、夕方には『宿場町ポトフ』に到着するはずよ」

「ポトフ? 美味そうな名前だな」

「ええ。ガイドブックによると『旅人の疲れを癒やす、伝統の煮込み料理が名物』らしいわ。期待できそうね」

「ふん、伝統料理か。俺のスープより美味いかな?」

グランシェフは対抗心を燃やしている。

「食べ比べてみれば分かるわ。さあ、出発よセバスチャン!」

「かしこまりました」

御者台でやり取りを聞いていたセバスチャン(執事)は、肩をすくめながら馬に鞭を入れた。

(やれやれ、お嬢様の舌に耐えられる料理人が見つかって何よりですが……なんだか変な方向性の男ですな)

馬車は再び走り出した。

車内では、グランシェフがブツブツと独り言を呟いている。

「湿度……気圧……体温……よし、次は食べる直前にサンドイッチの脈拍を測ってから塩を振ろう」

「それは拒否するわ」

サンドイッチは即答した。

こうして、主従関係(女王様と下僕)が完全に成立した二人は、最初の街へと向かう。

だが、彼らはまだ知らない。

その「宿場町ポトフ」が、とんでもない「メシマズ」タウンであることを。

そして、そこにサンドイッチの過去(トラウマ)に関わる人物の影が忍び寄っていることを……。
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