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長かった王都での滞在も、ようやく終わりを告げようとしていた。
アシュトンの傷はすっかり癒え、私たちは、全ての面倒ごとをこの場所に置いて、愛すべき北の領地へと帰る準備を進めていた。
「このティーカップは持っていきましょう。あら、このレシピ本も。王都の図書館で見つけた珍しいものですのよ」
私は、鼻歌交じりで、荷造りをしていた。
心は、すでに、北の領地での甘くて穏やかな新生活へと飛んでいる。
アシュトンとの、新しい毎日。そして、彼が作ってくれるという約束の超特大フルーツパフェ。
考えるだけで顔がにやけてしまう。
そんな私の幸せな気分を害する、最後の「面倒ごと」が訪れたのは出発を明日に控えたある晴れた日の午後だった。
「――王太子殿下が、リーリア様へのご面会を、強く求めておられます」
執事のセバスからそう告げられた時、私は思わず顔をしかめてしまった。
(今更、何の御用ですの……?)
正直、会いたくはなかった。
しかし、相手は次期国王。クライネルト公爵家の娘として無下にお断りするわけにもいかない。
応接室で待っていたジークフリード殿下は、以前の傲慢な王太子の面影はなく、ひどく憔悴し、そして、どこか吹っ切れたような、不思議な表情をしていた。
私とアシュトンの婚約は、すでに彼の耳にも入っているのだろう。
「……忙しいところを、すまない」
彼の声には、かつてのような張りはなく、静かで落ち着いていた。
私は、無言で彼を見つめ返す。
何を言われるのか、と少しだけ身構えた。
すると、彼は椅子から立ち上がると、私の目の前で深く深くその頭を下げたのだ。
「リーリア嬢。……いや、リーリア」
「……」
「今まで、本当にすまなかった」
絞り出すような、彼の声。
「私は、君という人間の本当の価値を何一つ理解していなかった。君の聡明さをその優しさを、国を想うその心を、自分の嫉妬と愚かさで踏みにじった。……本当に申し訳ないと思っている」
彼は、婚約破棄のこと、エミリア様を選んだことその全てが自分の未熟さゆえの過ちであったと率直に認めた。
その姿に驚きはしたが、私の心は不思議なほど凪いでいた。
彼に対する、怒りも恨みも憎しみも、もはやひとかけらも残ってはいなかったのだ。
「君を失って初めて、私は自分がどれほど大きなものを手放してしまったのかを思い知った。……だが、もう遅い。君の隣には君を命懸けで守ってくれる素晴らしい騎士がいる」
彼は、顔を上げた。
その目には後悔の色が浮かんでいたが、それはもう私の知る自己中心的な男のものではなかった。
「どうか、幸せになってくれ。バレタイン卿と共に」
それは、彼の心からの謝罪と祝福の言葉だったのだろう。
私は、彼のその言葉を静かに、ただ静かに聞いていた。
そして。
私は、こてん、と、可愛らしく首を傾げてみせた。
そして、悪意などひとかけらもなく、心からの純粋な疑問として彼にこう尋ねたのだ。
「……申し訳ありません、殿下」
「……」
「わたくし、王宮におりました頃の記憶が、どうにも曖憂でして。毎日、ひたすらに続く公務と、あまり美味しくないお茶をいただいていたことくらいしか、思い出せませんの」
私はにっこりと、完璧な淑女の笑みを浮かべる。
「それで、ええと……。大変失礼とは存じますが」
「どちら様で、いらっしゃいましたかしら?」
その瞬間、ジークフリード殿下の顔から全ての表情が抜け落ちた。
それは、どんな罵詈雑言よりも、どんな平手打ちよりも、彼の心を深くそして静かに打ち砕いたに違いない。
計算された意地悪ではない。
本心からの「無関心」。
彼という存在が、もはや私の人生において思い出す価値もないほど取るに足らないものになっているという残酷な事実。
彼は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていたが、やがて、ふっと、自嘲するように、その唇に笑みを浮かべた。
「……そうか。……そう、だな。君はもうずっと先に進んでいるのだな」
彼の呟きは、ひどく、か細かった。
「……それで、いい。それが、いい」
彼はそれだけを言うと、一度私に深く頭を下げ、そして、静かに応接室を去っていった。
その背中は、王太子としてではなく、ただの傷ついた一人の男のものに見えた。
これで、本当に全てが終わったのだ。
「リーリア様、大丈夫でしたか?」
殿下が去った後、心配そうにアシュトンが部屋に入ってきた。
「ええ、全く問題ありませんわ。なんだか、昔の知り合いのような方が、昔の話をしにいらっしゃっただけですもの」
私は、けろりとした顔で答えた。
「それより、アシュトン。荷造りは済みましたの? 早くしないと、北の領地に帰る馬車に乗り遅れてしまいますわよ」
私の頭の中は、もう未来のことでいっぱいだった。
愛する人と、愛する領地で過ごす甘くて平和な新しい毎日。
「さあ、帰りましょう。私たちの、本当の家に」
私は、アシュトンの手を取った。
彼は、力強くその手を握り返してくれる。
もう、振り返ることはない。
私たちの物語は、ここからまた新しく始まるのだから。
アシュトンの傷はすっかり癒え、私たちは、全ての面倒ごとをこの場所に置いて、愛すべき北の領地へと帰る準備を進めていた。
「このティーカップは持っていきましょう。あら、このレシピ本も。王都の図書館で見つけた珍しいものですのよ」
私は、鼻歌交じりで、荷造りをしていた。
心は、すでに、北の領地での甘くて穏やかな新生活へと飛んでいる。
アシュトンとの、新しい毎日。そして、彼が作ってくれるという約束の超特大フルーツパフェ。
考えるだけで顔がにやけてしまう。
そんな私の幸せな気分を害する、最後の「面倒ごと」が訪れたのは出発を明日に控えたある晴れた日の午後だった。
「――王太子殿下が、リーリア様へのご面会を、強く求めておられます」
執事のセバスからそう告げられた時、私は思わず顔をしかめてしまった。
(今更、何の御用ですの……?)
正直、会いたくはなかった。
しかし、相手は次期国王。クライネルト公爵家の娘として無下にお断りするわけにもいかない。
応接室で待っていたジークフリード殿下は、以前の傲慢な王太子の面影はなく、ひどく憔悴し、そして、どこか吹っ切れたような、不思議な表情をしていた。
私とアシュトンの婚約は、すでに彼の耳にも入っているのだろう。
「……忙しいところを、すまない」
彼の声には、かつてのような張りはなく、静かで落ち着いていた。
私は、無言で彼を見つめ返す。
何を言われるのか、と少しだけ身構えた。
すると、彼は椅子から立ち上がると、私の目の前で深く深くその頭を下げたのだ。
「リーリア嬢。……いや、リーリア」
「……」
「今まで、本当にすまなかった」
絞り出すような、彼の声。
「私は、君という人間の本当の価値を何一つ理解していなかった。君の聡明さをその優しさを、国を想うその心を、自分の嫉妬と愚かさで踏みにじった。……本当に申し訳ないと思っている」
彼は、婚約破棄のこと、エミリア様を選んだことその全てが自分の未熟さゆえの過ちであったと率直に認めた。
その姿に驚きはしたが、私の心は不思議なほど凪いでいた。
彼に対する、怒りも恨みも憎しみも、もはやひとかけらも残ってはいなかったのだ。
「君を失って初めて、私は自分がどれほど大きなものを手放してしまったのかを思い知った。……だが、もう遅い。君の隣には君を命懸けで守ってくれる素晴らしい騎士がいる」
彼は、顔を上げた。
その目には後悔の色が浮かんでいたが、それはもう私の知る自己中心的な男のものではなかった。
「どうか、幸せになってくれ。バレタイン卿と共に」
それは、彼の心からの謝罪と祝福の言葉だったのだろう。
私は、彼のその言葉を静かに、ただ静かに聞いていた。
そして。
私は、こてん、と、可愛らしく首を傾げてみせた。
そして、悪意などひとかけらもなく、心からの純粋な疑問として彼にこう尋ねたのだ。
「……申し訳ありません、殿下」
「……」
「わたくし、王宮におりました頃の記憶が、どうにも曖憂でして。毎日、ひたすらに続く公務と、あまり美味しくないお茶をいただいていたことくらいしか、思い出せませんの」
私はにっこりと、完璧な淑女の笑みを浮かべる。
「それで、ええと……。大変失礼とは存じますが」
「どちら様で、いらっしゃいましたかしら?」
その瞬間、ジークフリード殿下の顔から全ての表情が抜け落ちた。
それは、どんな罵詈雑言よりも、どんな平手打ちよりも、彼の心を深くそして静かに打ち砕いたに違いない。
計算された意地悪ではない。
本心からの「無関心」。
彼という存在が、もはや私の人生において思い出す価値もないほど取るに足らないものになっているという残酷な事実。
彼は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていたが、やがて、ふっと、自嘲するように、その唇に笑みを浮かべた。
「……そうか。……そう、だな。君はもうずっと先に進んでいるのだな」
彼の呟きは、ひどく、か細かった。
「……それで、いい。それが、いい」
彼はそれだけを言うと、一度私に深く頭を下げ、そして、静かに応接室を去っていった。
その背中は、王太子としてではなく、ただの傷ついた一人の男のものに見えた。
これで、本当に全てが終わったのだ。
「リーリア様、大丈夫でしたか?」
殿下が去った後、心配そうにアシュトンが部屋に入ってきた。
「ええ、全く問題ありませんわ。なんだか、昔の知り合いのような方が、昔の話をしにいらっしゃっただけですもの」
私は、けろりとした顔で答えた。
「それより、アシュトン。荷造りは済みましたの? 早くしないと、北の領地に帰る馬車に乗り遅れてしまいますわよ」
私の頭の中は、もう未来のことでいっぱいだった。
愛する人と、愛する領地で過ごす甘くて平和な新しい毎日。
「さあ、帰りましょう。私たちの、本当の家に」
私は、アシュトンの手を取った。
彼は、力強くその手を握り返してくれる。
もう、振り返ることはない。
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