悪役令嬢、婚約破棄“後”どうして私が辺境伯様のお飾り妻に!?

夏乃みのり

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その夜、私は自室のベッドの上で、悶々(もんもん)としていた。

(……眠れない)

理由は、分かっている。
今日の市場での興奮が、まだ冷めやらないのだ。

(あのモリノカサ……絶対にバター焼きが正解だわ)
(いや、待って。あの黒いソーセージ。あれを茹でて、付け合わせにしたら……)
(ああ、市場の隅で売っていた、蜂蜜(はちみつ)漬けの木の実のタルト……買っておけばよかった……)

ぐうぅぅぅぅ。

静かな夜の城に、私の腹の虫が、あまりにも情けない声で鳴り響いた。

(……ダメだわ。お腹が空きすぎて、余計に眠れない)

晩餐(ばんさん)は、もちろん山盛りのお代わりまでして平らげた。
だが、あの市場の活気を思い出してしまったら、私の胃袋は「まだ足りない」と抗議を始めたのだ。

(……仕方ないわね)

私は、音を立てないようにベッドから抜け出した。
ドレスロープを羽織り、そっと自室の扉を開ける。

目指すは、厨房(ちゅうぼう)。
昨日の今日で、さすがに料理長を起こすのは忍びない。
だが、パンの一切れや、残ったチーズくらいはあるはずだ。

(『お飾り妻』は自由な身分。夜食も、もちろん自由のはず)

私は、王妃教育で培った「音を立てずに歩く技術」(主に退屈な講義をこっそり抜け出すために磨かれた)を駆使し、暗い廊下を猫のように進んだ。

やがて、厨房のエリアにたどり着く。
すると。

(……あら?)

真っ暗だと思っていた厨房の扉の隙間から、ぼんやりと明かりが漏れていた。
そして、何やら、甘く香ばしい匂いが漂ってくる。

(こんな夜更けに、誰かしら?)
(私以外の、食いしん坊な幽霊?)

私は、好奇心に抗えず、重い扉の隙間から、そっと中を覗き込んだ。

「……!」

私は、目を疑った。
厨房の、一番奥。
巨大な調理台の前に、見慣れた、いや、見慣れすぎた巨大な背中があった。

(アレス……様!?)

北の氷の王。
私の、形だけの夫。
アレス・フォン・グリューンヴァルト辺境伯、その人であった。

彼は、分厚い軍服ではなく、簡素なシャツ姿だ。
そして、あろうことか。
彼の、あの屈強な、熊でも絞め殺せそうな体躯(たいく)に。

(……エプロン?)

可愛らしい(かどうかは、その無骨さ故によく分からないが)麻布のエプロンを、窮屈(きゅうくつ)そうに身に着けていた。

(な、な、な、何をしているの!?)

私は、息を殺して観察を続ける。
アレス辺境伯は、何やら真剣な表情で、巨大なボウルと格闘していた。
その顔には、なぜか、白い粉(こ)が、あちこちに付着している。

「……くそっ」

アレス辺境伯の、低い、忌々(いまいま)しげな声が漏れた。

「なぜだ……。レシピ通りのはずだ……」

彼が格闘しているのは、パン生地か、あるいはパイ生地のようだった。
しかし、その動きは、戦場での剣捌(けんさば)きとは程遠く、ひどくぎこちない。
生地を叩きつける力が強すぎるのか、調理台がゴトゴトと揺れている。

(……訓練? ……いや、まさか)

そして、私は見てしまった。
彼の傍(かたわ)らには、山のように盛られた、真っ赤なリンゴの山。
そして、オーブンの中では、何か別のものが、すでに甘い香りを放って焼き上がろうとしていた。

(……間違いないわ)

この人、こんな夜中に、一人で、こっそりと。

(お菓子、作ってる!!!)

衝撃の事実に、私がクラクラしていると。

「……っ、誰だ!」

アレス辺境伯が、こちらの気配に気づいた。
その動きは、さすが軍人。
振り向きざま、彼は、手に持っていた武器(・・)を私に向けた。

(武器=小麦粉まみれの、麺棒(めんぼう))

「……」

「……」

時が、止まった。
麺棒を構えた、エプロン姿(顔に小麦粉付き)の強面の辺境伯。
夜食を漁(あさ)りに来た、腹ペコの『お飾り妻』。

アレス辺境伯の顔が、みるみるうちに凍りついていく。
いや、違う。

(……赤くなってる?)

その厳(いか)つい顔が、耳まで真っ赤に染まっている。
彼は、雷に打たれたように固まったまま、必死で何かを隠そうとしている。
(おそらく、調理台の上のリンゴと、レシピ本を)

「……あ、あの。こんばんは、辺境伯様」

私が、かろうじて声を絞り出す。

「……っ」

アレス辺境伯は、カクカクと、まるで錆(さ)びたブリキの人形のように動くと、麺棒(武器)をゆっくりと下ろした。

「……公爵令嬢」

その声は、いつもの地を這うような低音ではなく、ひどく裏返っていた。

「な、なぜ、ここに……!」

「あ、あの……わたくし、少々、小腹が空きまして」

「こ、小腹……」

「辺境伯様こそ、そのようなお姿で……何を?」

私が、あえて核心(エプロンと小麦粉)に触れると、アレス辺境伯の肩が、ビクンッ! と大きく跳ねた。

「こ、これは……!」

彼は、必死で言い訳を探しているようだった。

「……訓練だ」

「訓練、ですの?」

「ああ。……小麦粉をこねることで、握力を鍛える、特殊な訓練だ」

(……無理がありすぎますわ!)

私は、噴き出しそうになるのを、必死でこらえた。
王妃教育で培った「ポーカーフェイス」が、今、人生で最も役に立っている。

「まあ、左様でしたか。それは、大変ですわね」

私が、しれっと返すと、アレス辺境伯は「そうだ」と、さらに苦しい言い訳を重ねようとした。

その時。
チーン! と、オーブンから、軽やかな音が響いた。

「!」

アレス辺境伯の顔が、今度こそ絶望に染まった。
オーブンからは、先ほどまでの比ではない、甘く、焦げた砂糖とバターの、暴力的なまでに良い匂いが溢れ出してきた。

(……もう、隠しきれませんわね)

私は、アレス辺境伯の横をすり抜け、オーブンの前に立った。

「……開けても?」

「……っ、好きにしろ」

アレス辺境伯は、観念したように、顔をそむけた。

私が、分厚い布巾(ふきん)を使って扉を開けると。
そこには、黄金色に輝く、見事なアップルパイが鎮座していた。
(端の方が、少し焦げているのも、またご愛嬌(あいきょう)だ)

「……まあ」

私は、思わず、うっとりとため息を漏らした。
見た目は少し不格好だが、リンゴがたっぷりと詰まっていて、生地はサクサクに焼き上がっている。

「……素晴らしい、出来栄えですわ」

私が振り返ると、アレス辺境伯は、顔を真っ赤にしたまま、そっぽを向いていた。
その姿は、「北の氷の王」などではなく、ただの、隠し事が見つかった少年のようだ。

「……笑いたければ、笑え」

アレス辺境伯が、吐き捨てるように言った。

「こんなものが、俺の……唯一の趣味だ」

「笑う?」

私は、きょとんとした。

「なぜ、わたくしが笑うのですか?」

「……は?」

「アレス様!」

私が、初めて彼の名前を呼ぶと、アレス辺境伯の肩が、再びビクリと震えた。

「わたくし、感激しておりますの!」

「……はあ!?」

私は、彼の大きな両手を、自分の両手でむんずと掴んだ。
(手が、小麦粉だらけになった)

「あなた様も! 甘いものが! お好きでしたのね!?」

私の、心の底からの歓喜の叫び。
アレス辺境伯は、目を白黒させている。

「い、いや……その、甘いというか……」

「わかりますわ! 王都のお菓子なんて、見た目ばかりでちっとも甘くない! もっとこう、ガツンと! 脳天を殴られるような甘さが必要なのです!」

「そ、そうだ! 奴らの作るものは、砂糖が足りん!」

(乗ってきたわ!)

私たちは、互いの手を掴んだ(小麦粉まみれの)まま、夜中の厨房で、王都のパティシエに対する積年の不満をぶちまけあった。

「あの『羽のように軽い』とかいうメレンゲ! 食べた気がしませんわ!」

「ああ! あと、あの無駄に酸っぱいだけのベリーソース!」

「分かります! もっと煮詰めて! ジャムのように甘くするべきですわ!」

ひとしきり盛り上がった後、私たちは、ハッと我に返った。

「……あ」

「……」

アレス辺境伯は、慌てて私の手を振り払うと、ゴホン、と咳払いをした。

「……食うか」

彼が、ぶっきらぼうに、焼き立てのパイを指さした。

「! よろしいのですか!?」

「ああ。……どうせ、一人では食いきれん」

こうして、北の辺境の城、その夜中の厨房で。
強面の辺境伯と、『お飾り妻』の、秘密の(そして、非常に高カロリーな)お茶会が、始まった。

「美味しい!」

熱々のパイを頬張りながら、私は至福の声を上げた。
少し焦げた生地の香ばしさと、トロトロに煮詰まったリンゴの、強烈な甘さ。

「……そうか」

アレス辺境伯も、ぶっきらぼうにパイを口に運ぶ。
その口元が、ほんの少しだけ、緩んでいることに。

私は、気づかないフリをしてあげた。
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