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翌朝の食堂は、何とも言えない、奇妙な空気に包まれていた。
理由は明白。
昨夜の、厨房での一件である。
私は、昨夜の「アップルパイの乱」と、思いがけず見つけた「甘党仲間」の存在に、上機嫌だった。
(早くも、次の新作スイーツについて相談したいくらいだわ)
そんな浮かれた気分で席に着いた私とは対照的に。
「……」
私の正面に座るアレス辺境伯は、昨夜の小麦粉まみれのエプロン姿が、まるで幻だったかのように。
再び、完璧な『北の氷の王』の仮面を被り直し、仏頂面で黒パンをかじっていた。
(あら)
私がニコリと笑いかけても、彼は、私と絶対に視線を合わせようとしない。
その耳が、心なしか赤いような気がするのは、きっと暖炉のせいではないだろう。
(……ふふ。照れていらっしゃるのかしら)
王都の貴族たちの、回りくどい駆け引きに比べれば、なんと分かりやすく、可愛らしい反応だろうか。
私は、この無骨な(形だけの)夫を、少し微笑ましく思った。
(まあ、昨夜のことは、二人だけの秘密にしておいて差し上げましょう)
私が、温かいミルクポタージュにスプーンを入れようとした、まさにその時。
その重苦しい(と、アレス様だけが思っている)朝食の均衡を破ったのは、フランツの慌ただしい足音だった。
「失礼いたします! 辺境伯様、カーリヤ様!」
フランツが、息を切らして食堂に飛び込んできた。
その手には、封蝋(ふうろう)がされた一通の手紙が握られている。
「王都より、ベルシュタイン公爵家からの急使でございます!」
「まあ、お父様から?」
食堂に、ピリリとした緊張が走る。
アレス様の、私を避けていた視線が、初めてまっすぐに私を捉えた。
王都からの、それも公爵家からの手紙。
昨日の今日で、良い報せ(しらせ)であるはずがない。
アレス様は、フランツから手紙を受け取ると、中身を検(あらた)めることもなく、無言で私に差し出した。
私は、それを受け取り、丁寧に封を切る。
(王妃教育で培った、完璧なペーパーナイフ捌きだわ)
手紙は、予想通り、父からのものだった。
最初は、私の体調を気遣う内容、北の寒さはどうか、無作法な辺境伯に無体を強いられていないか、といった、父親らしい心配事が綴(つづ)られていた。
(……相変わらず、心配性ですこと)
私は苦笑しながら読み進める。
そして、手紙は、本題に入った。
『――さて、本題だが。カーリヤ、王都の様子が少々、妙だ』
(妙?)
『お前が発(た)ってからというもの、レオニード殿下が、近頃しきりに君の不在を嘆いているそうだ』
「……」
私の手が、ピタリと止まった。
『後任の教育係が言うには、マリア男爵令嬢は、王妃教育どころか、公務の補佐も、まったく、ままならないらしくてな。宮廷は、些細(ささい)なミスで混乱が続いているようだ』
(……でしょうね。あの方、手作りクッキーを差し入れることしか考えていなかったもの)
『殿下は、今更ながら、お前がどれほど完璧に王太子の補佐役を務めていたか、その有能さに気づいたようなのだ』
手紙には、さらにこう続いている。
『万が一、殿下が「カーリヤを取り戻す」などと復縁を口走り、お前を王都へ連れ戻そうとするやもしれぬ。そうなれば、ベルシュタイン家と王家の対立は免れん。アレス辺境伯とも協力し、くれぐれも警戒するように』
「……」
私は、その手紙を読み終えると、パタン、と静かに折り畳んだ。
(……だから、何だというのかしら)
レオニード殿下が後悔?
マリア様が役立たず?
宮廷が混乱?
(そんなこと、わたくしの知ったことではございませんわ)
私の思考は、すでに王都のくだらないゴシップから、昨日、市場で見つけた素晴らしいジャガイモたちへと移っていた。
あの丸々と太った、美味しそうなジャガイモ。
あれは、絶対にポタージュにすべきだ。いや、バターでこんがり焼くのも捨てがたい。
「……」
視線を感じて顔を上げると、アレス様が、私をじっと見つめていた。
その鋭い目は、私がどのような反応を示すか、値踏みしているようだった。
私が、王太子からの(間接的な)ラブコールに、泣いて喜ぶとでも?
それとも、今更だと怒り出すとでも?
「……何と?」
アレス様が、短く尋ねた。
「別に。大したことではございませんわ」
私は、立ち上がった。
アレス様の肩が、ビクリと跳ねる。
(私が何か、昨夜のパイについて暴露でもすると警戒したのだろう)
「それより、アレス様!」
「……な、なんだ」
「わたくし、昨日市場で見つけたジャガイモで、新しいスープを試作しようと思うのです!」
「…………は?」
アレス様が、完全に、狐につままれたような顔をしている。
「ジャガイモ……だと?」
「はい! この城のポタージュも美味しいですが、もっとこう、濃厚で、バターと生クリームをたっぷり使った……」
「待て」
アレス様が、私の美食談義を、低い声で遮った。
「手紙は。……王太子の件は、どうした」
「ああ、王太子様ですか?」
私は、まるで道端の石ころについて聞かれたかのように、あっさりと答えた。
「今更ですわ」
私は、父からの大切な(しかし、内容はどうでもいい)手紙を、テーブルの隅に、ヒラリと置いた。
「わたくし、あの方にも、王都の堅苦しい生活にも、もはや何の未練もございません」
私は、アレス様に向かって、ニッコリと笑ってみせた。
「それよりも! こちらのジャガイモの方が、よほど重要案件ですわ!」
「……」
アレス様は、完全に言葉を失っていた。
「わたくし、厨房へ行ってまいります! フランツ! 料理長を呼んでくださいまし! ジャガイモのポタージュです! 飲むというより『食べる』くらいの、濃厚なやつを、今すぐ!」
私は、目を輝かせ、意気揚々と食堂を飛び出していった。
一人、食堂に残されたアレス様は、ただ呆然(ぼうぜん)と。
テーブルの隅に置かれた「王太子(元)婚約者からの手紙」と、私の消えていった扉を、交互に見つめていた。
そして、ぽつりと、誰にともなく呟いた。
「……ジャガイモ、以下か。王太子は」
彼の、私(悪役令嬢)に対する「計算高い悪女」という評価が、ほんの少しだけ、「ただの食いしん坊(?)」へと、上方修正された瞬間だった。
理由は明白。
昨夜の、厨房での一件である。
私は、昨夜の「アップルパイの乱」と、思いがけず見つけた「甘党仲間」の存在に、上機嫌だった。
(早くも、次の新作スイーツについて相談したいくらいだわ)
そんな浮かれた気分で席に着いた私とは対照的に。
「……」
私の正面に座るアレス辺境伯は、昨夜の小麦粉まみれのエプロン姿が、まるで幻だったかのように。
再び、完璧な『北の氷の王』の仮面を被り直し、仏頂面で黒パンをかじっていた。
(あら)
私がニコリと笑いかけても、彼は、私と絶対に視線を合わせようとしない。
その耳が、心なしか赤いような気がするのは、きっと暖炉のせいではないだろう。
(……ふふ。照れていらっしゃるのかしら)
王都の貴族たちの、回りくどい駆け引きに比べれば、なんと分かりやすく、可愛らしい反応だろうか。
私は、この無骨な(形だけの)夫を、少し微笑ましく思った。
(まあ、昨夜のことは、二人だけの秘密にしておいて差し上げましょう)
私が、温かいミルクポタージュにスプーンを入れようとした、まさにその時。
その重苦しい(と、アレス様だけが思っている)朝食の均衡を破ったのは、フランツの慌ただしい足音だった。
「失礼いたします! 辺境伯様、カーリヤ様!」
フランツが、息を切らして食堂に飛び込んできた。
その手には、封蝋(ふうろう)がされた一通の手紙が握られている。
「王都より、ベルシュタイン公爵家からの急使でございます!」
「まあ、お父様から?」
食堂に、ピリリとした緊張が走る。
アレス様の、私を避けていた視線が、初めてまっすぐに私を捉えた。
王都からの、それも公爵家からの手紙。
昨日の今日で、良い報せ(しらせ)であるはずがない。
アレス様は、フランツから手紙を受け取ると、中身を検(あらた)めることもなく、無言で私に差し出した。
私は、それを受け取り、丁寧に封を切る。
(王妃教育で培った、完璧なペーパーナイフ捌きだわ)
手紙は、予想通り、父からのものだった。
最初は、私の体調を気遣う内容、北の寒さはどうか、無作法な辺境伯に無体を強いられていないか、といった、父親らしい心配事が綴(つづ)られていた。
(……相変わらず、心配性ですこと)
私は苦笑しながら読み進める。
そして、手紙は、本題に入った。
『――さて、本題だが。カーリヤ、王都の様子が少々、妙だ』
(妙?)
『お前が発(た)ってからというもの、レオニード殿下が、近頃しきりに君の不在を嘆いているそうだ』
「……」
私の手が、ピタリと止まった。
『後任の教育係が言うには、マリア男爵令嬢は、王妃教育どころか、公務の補佐も、まったく、ままならないらしくてな。宮廷は、些細(ささい)なミスで混乱が続いているようだ』
(……でしょうね。あの方、手作りクッキーを差し入れることしか考えていなかったもの)
『殿下は、今更ながら、お前がどれほど完璧に王太子の補佐役を務めていたか、その有能さに気づいたようなのだ』
手紙には、さらにこう続いている。
『万が一、殿下が「カーリヤを取り戻す」などと復縁を口走り、お前を王都へ連れ戻そうとするやもしれぬ。そうなれば、ベルシュタイン家と王家の対立は免れん。アレス辺境伯とも協力し、くれぐれも警戒するように』
「……」
私は、その手紙を読み終えると、パタン、と静かに折り畳んだ。
(……だから、何だというのかしら)
レオニード殿下が後悔?
マリア様が役立たず?
宮廷が混乱?
(そんなこと、わたくしの知ったことではございませんわ)
私の思考は、すでに王都のくだらないゴシップから、昨日、市場で見つけた素晴らしいジャガイモたちへと移っていた。
あの丸々と太った、美味しそうなジャガイモ。
あれは、絶対にポタージュにすべきだ。いや、バターでこんがり焼くのも捨てがたい。
「……」
視線を感じて顔を上げると、アレス様が、私をじっと見つめていた。
その鋭い目は、私がどのような反応を示すか、値踏みしているようだった。
私が、王太子からの(間接的な)ラブコールに、泣いて喜ぶとでも?
それとも、今更だと怒り出すとでも?
「……何と?」
アレス様が、短く尋ねた。
「別に。大したことではございませんわ」
私は、立ち上がった。
アレス様の肩が、ビクリと跳ねる。
(私が何か、昨夜のパイについて暴露でもすると警戒したのだろう)
「それより、アレス様!」
「……な、なんだ」
「わたくし、昨日市場で見つけたジャガイモで、新しいスープを試作しようと思うのです!」
「…………は?」
アレス様が、完全に、狐につままれたような顔をしている。
「ジャガイモ……だと?」
「はい! この城のポタージュも美味しいですが、もっとこう、濃厚で、バターと生クリームをたっぷり使った……」
「待て」
アレス様が、私の美食談義を、低い声で遮った。
「手紙は。……王太子の件は、どうした」
「ああ、王太子様ですか?」
私は、まるで道端の石ころについて聞かれたかのように、あっさりと答えた。
「今更ですわ」
私は、父からの大切な(しかし、内容はどうでもいい)手紙を、テーブルの隅に、ヒラリと置いた。
「わたくし、あの方にも、王都の堅苦しい生活にも、もはや何の未練もございません」
私は、アレス様に向かって、ニッコリと笑ってみせた。
「それよりも! こちらのジャガイモの方が、よほど重要案件ですわ!」
「……」
アレス様は、完全に言葉を失っていた。
「わたくし、厨房へ行ってまいります! フランツ! 料理長を呼んでくださいまし! ジャガイモのポタージュです! 飲むというより『食べる』くらいの、濃厚なやつを、今すぐ!」
私は、目を輝かせ、意気揚々と食堂を飛び出していった。
一人、食堂に残されたアレス様は、ただ呆然(ぼうぜん)と。
テーブルの隅に置かれた「王太子(元)婚約者からの手紙」と、私の消えていった扉を、交互に見つめていた。
そして、ぽつりと、誰にともなく呟いた。
「……ジャガイモ、以下か。王太子は」
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