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一方その頃、王宮では、新しい婚約者の誕生に祝福ムードが…漂っているはずだった。
しかし、現実はエドワード王子とリリアナが思い描いていた甘い物語とは、少しばかり様相が異なっていた。
「リリアナ様! またですの!? この程度の外交儀礼の順番を、何度教えればお覚えになるのですか!」
王宮の一室に、妃教育の担当であるハリッジ女伯爵の厳しい声が響き渡る。
目の前では、未来の王太子妃であるリリアナが、美しい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして俯いていた。
「ひっ…うぅ…だ、だって、こんなにたくさん覚えることがあるなんて、聞いておりませんもの…」
「聞いていない、では済みません! サーシャ様は、これの三倍の課題を半分の時間で完璧に覚えていらっしゃいましたわよ!」
悪気なく口にされた比較の言葉が、リリアナの心をさらに深く抉る。
またサーシャ。いつもサーシャ。
いなくなったはずの悪役令嬢の影が、亡霊のようにリリアナに付きまとっていた。
「わたくしは、サーシャ様ではございませんわ!」
「ええ、ええ、重々承知しておりますとも」
女伯爵は、大きなため息をついて首を振った。
その日の妃教育が終わると、リリアナはいつものようにエドワードの執務室に泣きながら駆け込んだ。
「エドワード様ぁ…! ひどいですわ、ハリッジ伯爵夫人が、わたくしをいじめるのですぅ…!」
「やあ、リリアナ。また大変だったようだね」
エドワードは、執務の手を止めてリリアナを優しく抱きしめる。
しかし、その表情には隠しきれない疲れが滲んでいた。
「毎日毎日、歴史だの、作法だの、外国語だの…もう嫌ですわ! わたくし、もっとキラキラした、美しいドレスを着て夜会で踊るような、そんな生活を夢見ていたのに…!」
「まあまあ、それも未来の王妃としての大切な務めだからね。頑張らないと」
口では優しく慰めながらも、エドワードの脳裏には、別の光景がちらついていた。
(サーシャなら、こんな泣き言は一度も言わなかったな…)
どんなに難しい課題を与えられても、彼女はいつも涼しい顔で、完璧にこなしていた。
むしろ「妃教育など、領地経営学に比べれば子供の遊びですわ」と、退屈そうにすらしていたほどだ。
あの頃は、その態度が傲慢だと思っていたが、今思えば、それは彼女の圧倒的な能力の高さ故だったのかもしれない。
エドワードの悩みは、それだけではなかった。
サーシャを、そして彼女の後ろ盾であるシュヴァルツ公爵家を失った影響は、エドワードの想像を遥かに超えて、国政の様々な面に現れ始めていた。
「殿下、失礼いたします」
「なんだ、財務大臣か」
「はっ。例の、西方地区の治水工事の件ですが…やはり、予算の目処が立ちませぬ。例年、シュヴァルツ公爵家からいただいていた多額の寄付が、今年は完全に見込めなくなりまして…」
「なんだと!? 公爵に掛け合ってみたのか?」
「それが…『今は娘の新しい事業への投資で手一杯でしてな』と、にべもなく…」
「くっ…!」
別の貴族が、さらに悪い報告を持ってくる。
「殿下、隣国との交易協定ですが、交渉が難航しております。これまで交渉の窓口を担っていたシュヴァルツ家の商会が、一方的に手を引いてしまいまして…後任の者が、全く相手にされておりません」
今まで、いかにシュヴァルツ公爵家の財力と、国内外に張り巡らされた情報網、そして強力なコネクションに頼り切っていたか。
エドワードは、失って初めてその大きさと重要性を痛感していた。
書類の山は、日を追うごとに高くなっていく。
何から手をつければいいのか、判断がつかない。
(サーシャがいれば…)
そう思ってしまい、エドワードはぶんぶんと頭を振った。
彼女なら、この山のような書類も瞬く間に整理し、「優先順位はこうですわ。問題点はここ。解決策は三つ考えられます」と、的確な助言をくれただろう。
自分は、愛のない政略結婚を終わらせ、真実の愛を選んだはずだ。
後悔など、あるはずがない。
ないはず、なのに。
その夜、疲れ果てて私室に戻ったエドワードを待っていたのは、新しい豪奢なドレスを身にまとったリリアナだった。
「エドワード様! ご覧になって、このドレス! 素敵でしょう? 来週の夜会で着たいのですけれど…」
くるりと回って見せるリリアナの無邪気な笑顔が、今はひどくエドワードの神経を逆撫でした。
「ああ、綺麗だね。だがリリアナ、今は国の財政も厳しい状況なんだ。宝飾品やドレスの購入は、少し自重してくれないか」
その言葉に、リリアナの笑顔が凍りつく。
「まあ、ひどい! わたくしが、未来の王妃としてみすぼらしい格好をしろと仰るのですか!?」
「そういうわけではないが…!」
「ああ、分かりましたわ! これも全部、サーシャさんのせいですのね!」
リリアナは、ヒステリックに叫んだ。
「きっと、あの方がシュヴァルツ公爵をそそのかして、王家への援助を止めさせているのですわ! わたくしたちを困らせて、笑いものにするために!」
根拠のない、完全な責任転嫁。
その言葉が、エドワードの中に溜まっていた苛立ちのダムを、ついに決壊させた。
「いい加減にしろッ!」
エドワードの怒声が、部屋に響き渡る。
リリアナは、びくりと肩を震わせ、怯えたように彼を見つめた。
「君は、何か気に入らないことがあると、泣くか、誰かのせいにするか、それしかできないのか!」
「そ…そんな…エドワード様…」
「サーシャ、サーシャと…! 君がその口で彼女を断罪したのだろう! ならば、彼女以上の妃になってみせると、なぜ努力ができないんだ!」
言ってしまってから、エドワードははっとした。
また、無意識にサーシャと比べてしまった。
リリアナの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「ひどい…! エドワード様の嘘つき! わたくしを愛しているというのは、真実の愛だというのは、全部、全部嘘だったのね!」
「ああ、もう、うるさい! 少し頭を冷やしてくれ!」
エドワードは頭をかきむしり、リリアナに背を向けた。
後ろからは、リリアナの甲高い泣き声が聞こえてくる。
幸せな日々が始まるはずだった。
悪役令嬢を追放し、可憐なヒロインと結ばれる。
物語のような、輝かしい未来が待っていると信じていた。
しかし、現実はどうだ。
サーシャという歯車を一つ外しただけで、自分たちの世界は、こんなにも簡単
に軋み、狂い始めていた。
エドワードとリリアナは、この時ようやく、自分たちの犯した「誤算」の大きさに、気づき始めていたのだった。
しかし、現実はエドワード王子とリリアナが思い描いていた甘い物語とは、少しばかり様相が異なっていた。
「リリアナ様! またですの!? この程度の外交儀礼の順番を、何度教えればお覚えになるのですか!」
王宮の一室に、妃教育の担当であるハリッジ女伯爵の厳しい声が響き渡る。
目の前では、未来の王太子妃であるリリアナが、美しい顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして俯いていた。
「ひっ…うぅ…だ、だって、こんなにたくさん覚えることがあるなんて、聞いておりませんもの…」
「聞いていない、では済みません! サーシャ様は、これの三倍の課題を半分の時間で完璧に覚えていらっしゃいましたわよ!」
悪気なく口にされた比較の言葉が、リリアナの心をさらに深く抉る。
またサーシャ。いつもサーシャ。
いなくなったはずの悪役令嬢の影が、亡霊のようにリリアナに付きまとっていた。
「わたくしは、サーシャ様ではございませんわ!」
「ええ、ええ、重々承知しておりますとも」
女伯爵は、大きなため息をついて首を振った。
その日の妃教育が終わると、リリアナはいつものようにエドワードの執務室に泣きながら駆け込んだ。
「エドワード様ぁ…! ひどいですわ、ハリッジ伯爵夫人が、わたくしをいじめるのですぅ…!」
「やあ、リリアナ。また大変だったようだね」
エドワードは、執務の手を止めてリリアナを優しく抱きしめる。
しかし、その表情には隠しきれない疲れが滲んでいた。
「毎日毎日、歴史だの、作法だの、外国語だの…もう嫌ですわ! わたくし、もっとキラキラした、美しいドレスを着て夜会で踊るような、そんな生活を夢見ていたのに…!」
「まあまあ、それも未来の王妃としての大切な務めだからね。頑張らないと」
口では優しく慰めながらも、エドワードの脳裏には、別の光景がちらついていた。
(サーシャなら、こんな泣き言は一度も言わなかったな…)
どんなに難しい課題を与えられても、彼女はいつも涼しい顔で、完璧にこなしていた。
むしろ「妃教育など、領地経営学に比べれば子供の遊びですわ」と、退屈そうにすらしていたほどだ。
あの頃は、その態度が傲慢だと思っていたが、今思えば、それは彼女の圧倒的な能力の高さ故だったのかもしれない。
エドワードの悩みは、それだけではなかった。
サーシャを、そして彼女の後ろ盾であるシュヴァルツ公爵家を失った影響は、エドワードの想像を遥かに超えて、国政の様々な面に現れ始めていた。
「殿下、失礼いたします」
「なんだ、財務大臣か」
「はっ。例の、西方地区の治水工事の件ですが…やはり、予算の目処が立ちませぬ。例年、シュヴァルツ公爵家からいただいていた多額の寄付が、今年は完全に見込めなくなりまして…」
「なんだと!? 公爵に掛け合ってみたのか?」
「それが…『今は娘の新しい事業への投資で手一杯でしてな』と、にべもなく…」
「くっ…!」
別の貴族が、さらに悪い報告を持ってくる。
「殿下、隣国との交易協定ですが、交渉が難航しております。これまで交渉の窓口を担っていたシュヴァルツ家の商会が、一方的に手を引いてしまいまして…後任の者が、全く相手にされておりません」
今まで、いかにシュヴァルツ公爵家の財力と、国内外に張り巡らされた情報網、そして強力なコネクションに頼り切っていたか。
エドワードは、失って初めてその大きさと重要性を痛感していた。
書類の山は、日を追うごとに高くなっていく。
何から手をつければいいのか、判断がつかない。
(サーシャがいれば…)
そう思ってしまい、エドワードはぶんぶんと頭を振った。
彼女なら、この山のような書類も瞬く間に整理し、「優先順位はこうですわ。問題点はここ。解決策は三つ考えられます」と、的確な助言をくれただろう。
自分は、愛のない政略結婚を終わらせ、真実の愛を選んだはずだ。
後悔など、あるはずがない。
ないはず、なのに。
その夜、疲れ果てて私室に戻ったエドワードを待っていたのは、新しい豪奢なドレスを身にまとったリリアナだった。
「エドワード様! ご覧になって、このドレス! 素敵でしょう? 来週の夜会で着たいのですけれど…」
くるりと回って見せるリリアナの無邪気な笑顔が、今はひどくエドワードの神経を逆撫でした。
「ああ、綺麗だね。だがリリアナ、今は国の財政も厳しい状況なんだ。宝飾品やドレスの購入は、少し自重してくれないか」
その言葉に、リリアナの笑顔が凍りつく。
「まあ、ひどい! わたくしが、未来の王妃としてみすぼらしい格好をしろと仰るのですか!?」
「そういうわけではないが…!」
「ああ、分かりましたわ! これも全部、サーシャさんのせいですのね!」
リリアナは、ヒステリックに叫んだ。
「きっと、あの方がシュヴァルツ公爵をそそのかして、王家への援助を止めさせているのですわ! わたくしたちを困らせて、笑いものにするために!」
根拠のない、完全な責任転嫁。
その言葉が、エドワードの中に溜まっていた苛立ちのダムを、ついに決壊させた。
「いい加減にしろッ!」
エドワードの怒声が、部屋に響き渡る。
リリアナは、びくりと肩を震わせ、怯えたように彼を見つめた。
「君は、何か気に入らないことがあると、泣くか、誰かのせいにするか、それしかできないのか!」
「そ…そんな…エドワード様…」
「サーシャ、サーシャと…! 君がその口で彼女を断罪したのだろう! ならば、彼女以上の妃になってみせると、なぜ努力ができないんだ!」
言ってしまってから、エドワードははっとした。
また、無意識にサーシャと比べてしまった。
リリアナの瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「ひどい…! エドワード様の嘘つき! わたくしを愛しているというのは、真実の愛だというのは、全部、全部嘘だったのね!」
「ああ、もう、うるさい! 少し頭を冷やしてくれ!」
エドワードは頭をかきむしり、リリアナに背を向けた。
後ろからは、リリアナの甲高い泣き声が聞こえてくる。
幸せな日々が始まるはずだった。
悪役令嬢を追放し、可憐なヒロインと結ばれる。
物語のような、輝かしい未来が待っていると信じていた。
しかし、現実はどうだ。
サーシャという歯車を一つ外しただけで、自分たちの世界は、こんなにも簡単
に軋み、狂い始めていた。
エドワードとリリアナは、この時ようやく、自分たちの犯した「誤算」の大きさに、気づき始めていたのだった。
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