忌花

こ★め

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一章 淡紫の泡沫

閑談

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 かの島は観光地だ。極北の地にありながらも自然に恵まれ、都会暮らしに飽いた人間が、息抜きに訪れる。そんな島の観光を終え、帰途に就く観光客らに混ざり、島から船に乗って幾日過ぎただろうか。振り返っても島影一つ見つけられなくなった頃、目の前に見た事もない断崖が現れた。まさに、海に聳える壁。その中心辺りに、糸を通したような隙間がある。どうやら、そこへと向かっているようだ。
 けれど、乗る船は小さくない。荒れる事も多いという海を渡りきるだけの大きさはあるのだ。小舟では、早晩海の藻屑決定だ。昔、貴族が呑気なゴンドラを浮かべて舟遊びをしようとしたらしいが、巨大なクラーケンに沈められ、家督は傍系が継ぐことになったという、笑うに笑えない逸話も存在している。
 滓のように燻る不安を感じながらも、周囲を見れば華やかな笑顔ばかり。目立つ紅い髪をフードの中に不安と一緒に押し込めた。
「アレッシオ」
 行き会った家族の末の息子だという、小さな少年が駆けてくる。可愛らしいこの少年は、いつも転がるように抱きついてくる。だが、見知ったその愛らしい顔に僅かな違和感と既視感を覚え、腰の剣に手を掛けた。這い上がる蛇に体を締め付けられているような不安感。
「………おまえ…城にいたヤツだな?」
 そのアレッシオの問いに、心底楽しそうに禍々しく笑う顔は、可愛らしい子供のままだった。瞳の奥に、不穏な彩が揺れている。
「良い勘だ」
「その子に何をした?」
「案ずるな。私が直接ここに来たのでは目立つのでな。少しばかり体を借りているだけだ。この子供に興味はない」
 不安しか存在しないが、今ここで騒ぎを起こすつもりはない。何より、下手に逆鱗に触れれば、子供の命など露と消えるだろう事など、火を見るより明らかだ。
 息を吐いて思考を切り替える。この男には確認したい事が幾つもあるのだから。
「どう呼べば?」
「好きに呼ぶが良い。にしろ、名乗るつもりはない」
「俺の名はどうやって知った?その子の記憶でも読んだか?」
「造作もない事だ」
セルペンテへび
 突然話題を変えられ、子供の目が細められる。楽しげに歪む唇を見遣り、これが本質だと確信した。予想通りならば、この男はとんでもない怪物だ。
「好きに呼べと言っただろ。これからは、お前をそう呼ぶ」
「そうか」
 考えが全く読めない。本質を半ば当てられていると言うのに、その存在に些かの陰りもない。真名が存在しない音である以上、聞くことも口にする事も不可能。けれども、それに近いもので縛する事は不可能ではないはずだ。

──常ならば。

 つまりこれは、存在に歴然たる差があると言う事の現れだ。並の者では髪の毛一筋さえも傷つけられないと言う証。
「勝ち目はないか」
 事実確認はできた。であれば、この気紛れな蛇が臍を曲げないうちに、情報を貰う事にする。勝てない相手に剣を向ける愚行に興味はない。勇者などになる気は微塵もありはしない。この世は英雄譚で出来てはいないのだ。そんな夢など、紙の上の戯言だ。
「諦めが早いな」
 黒い男―セルペンテがせせら笑う。だが、安い挑発に乗るほどアレッシオとて愚かではない。
「大衆小説じゃあるまいし、清く正しく生きて美しく死ぬ趣味はねぇよ」
 吐き捨てた。正直なところ、死ぬのはゴメンだからだ。
「なぁ。城の連中、どうなったんだよ?謁見の間の奥、おかしかったぞ?」
 死ぬのはゴメンだが、疑問を捨て置くのも座りが悪い。その気があるなら答えるだろうと、至極気楽にアレッシオが訊ねた。セルペンテ曰く、「中に入らなかったのは賢明」である。答えるつもりがあったのは重畳だと言えよう。
「入れば食われていただろう。よかったな」
 何に、とは言わなかったが、どうせ碌でも無い内容だからとそれ以上の詮索はやめた。カリカリと聞こえたから、何かが何かを何かしていたに決まっている。ひしひしと感じる嫌な予感から急激に知りたくなくなった。確実に知らぬが花だ。
「序に教えてやろう。謁見の間の連中は、私が直接手を下した。だが、他の連中はちょっとした魔法薬で送ってやった」
 アレッシオは知らないが、セルペンテが持っていた林檎の理由はここにある。王達は謁見の間で悪巧みをしていたが、大広間は舞踏会だったのだ。厨房に赴き、魔法薬の小瓶をすべての料理の上で逆さにしていた。致死量を遥かに超えている。蛇足だが、この魔法薬は無味無臭。味覚や嗅覚で疑われる事無く、目障りだった上流貴族を一層した。多少生き残っているだろうが、贔屓目に見ても烏合の衆。それ以前に、まだ社交界デビューをしていない少年少女ばかり。何かを成すには経験も知識も足りないだろう。学ぶに必要な書物は全て焼き払い、財は土塊に変えた。再び財を成し、成り上がるにはそれなりの努力や研鑽が不可欠だ。絶海の孤島にある国故の不便さも遺憾なく発揮されることだろう。
「一滴で臓腑が焼け爛れるのが売りの魔法薬で」
「あー…。もういい…」
 セルペンテの楽し気な話は、件の魔法薬に匹敵する劇薬だ。もう半刻もすれば昼餉の時間だというのに、臓腑を焼くような魔法薬の話は食欲を減退させると言うもの。況して、食べ物に混入したと堂々とのたまっているのだ。食べ物が怖くなってしまうではないか。そもそも、そんなものが易々と大量手に入るのが空恐ろしい。冗談でも言ってくれるな。
「さて…そろそろ飽きた。私は帰る」
「は!?」
「ああ、一つ教えておいてやろう。お前の髪は隠せ。これから入る港町は花が売買される玄関口だ。お前に自覚はないようだが、お前にはが流れているぞ。」
「は!?」
 寝耳に水だ。実家でもそんな話はきいた事がない。花といえば淡い色彩ばかりで、派手な色合いの存在など聞いた事がない。
「そう言えば、城で原色がどうのって」
「原色の花と淡色の花は違う。原色の意味を正確に記憶している者は、あの島には居なかった。その上、原色など生まれた事がないともなれば、知りようもあるまい」
 にやり、と笑って訥々とつとつと続ける。知らない話ではあるからこそ、嘘とも言い切れない。だが、頭がついて行かないので、話は右から左に滑ってしまう。
 セルペンテが突然ポン、と小瓶を相手に投げた。小瓶を慌てて受け止めた所で、嫌な汗が大量に噴き出す。小瓶と言えば『小瓶』だ。
「なななななここここここれ」
「髪を染める染料だ」
 ニヤリと笑われ、揶揄われたのだと憤慨するも、相手が相手と自分を慰める事にする。あの知りたくもなかった小瓶の詳細はこの為だけにあったのだろう。
「対価は」
 タダより高いものはない。おまけに相手がセルペンテでは、どんな要求があるのか予想ができないから怖い。
「何れ支払って貰う事になる」
 何の色も写さぬ目で、海に──正しくはあの島だろうか──に視線を向けている。この危険な男が、一体なんの目的で動いているのかはわからない。この先、あの島がどうなるのかも。残っているのは寒村の民と富裕層の子供ばかりで、中枢は完膚なきまでに叩き潰された。そこまでした理由は一体どこにあるのだろうか。
「さて。私は戻る」
 言うが早いか、小さな体が地面に崩れ落ちて行く。慌てて体を支えるが、穏やかな寝息を立てているだけで、これといって怪我も見当たらない。気まぐれに現れた蛇は、やはり気まぐれに去るものらしい。父親だった男に手を下した報告がしたかったのか、魔法薬の自慢をしたかったのか、染料を渡したかったのか…全くの謎だった。もう少し確認したい事があったのだが。───例えばあの白い花。

 あの男の真意がわかったのは、群青の海を越えて小さな港町の門を潜ってからだった。騒然とした空気に染まり、姦しい囀りが否応なしにその理由を押し付けてくる。
 町の豪商が死んだらしい。首を斬られ、真っ赤な血の海の中で。そして、一緒にいた筈の花が消えた。砂に似た微粒子が僅かに付着した衣服を残して…。その犯人として挙げられているのは、真っ白な少女だった。
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