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19.夜更けのお茶の時間
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玄関ホールにそっと灯された明かりの下、私は深く息を吸い込んだ。
夜気がわずかに入り込む扉の前で、自然と姿勢を正す。
「おかえりなさいませ、レオナール様」
扉が閉じられる音とともに、外気の冷たさがふっと途切れた。
少し肩が落ちているのは、やはり私のために休んでいた時の仕事のせいかしら。
それでも彼は、私の姿を見つけた瞬間、ほっと力を抜いたように穏やかな微笑みを浮かべた。疲れよりも、嬉しさが滲んだ表情だ。
「ただいま、アイラ。待っていてくれて嬉しいよ」
「ええ、妻になりましたし」
そう返すと、彼の表情が一瞬で柔らかくなり、嬉しそうな気配がはっきりと伝わってきた。
妻という言葉を噛みしめるように、ほんのわずかに頷いている。
「ああ、書類の提出をしたよ。実はね、そのことで仕事中、王太子殿下やセルジュが次々きて質問攻めにされて、こんなに遅くなってしまった。はは。食事は、適当に済ませてきたよ」
笑ってはいるけれど、無理をしているのが分かる。
それでも、私を心配させないようにしているのだろう。
仕事中に押しかけて質問攻めだなんて、祝福ではなく詮索ではなくて? 自分たちの仕事はどうしたのかしら。
会ったこともない人たちの印象が、私の中で静かに下がっていく。
「君の記憶が戻らないまま、結婚したからだろうね。でも、君の望みだって言ったら納得してくれたよ」
そう言いながら、ちらりと私の反応をうかがう視線。私が傷ついていないか確かめるようだ。
なんて失礼な話。
レオナール様が、記憶のない私をだまして結婚したかのように思っているのかしら。
怒りが静かに渦を巻く。
「それは、お疲れ様でした。もしよければ、お茶をご一緒にいかがです?」
「ああ、喜んで」
そう答えたレオナール様は、私に一度だけ視線を向けてから、自室へと向かった。
しばらくして執事とともに戻ってくる足音は、どこか軽い。
サロンには二人分のティーセットが整えられ、暖炉の火がぱちりと優しい音を立てている。
香り高い茶が注がれると、静かな夜の空気にふわりと広がった。
「今日、家庭教師のロバート・デイヴィス先生にご挨拶いたしましたわ」
「そうか。親子二代で世話になっている話も聞いたかな?」
「ええ、先生のとてもいい影響を感じました」
「ああ、いい先生なんだ」
そう言った彼の声は、少しだけ低くなる。
「遠い親戚にあたるんだけど、両親が亡くなった時も、手続きやら他の親戚の対応やらもして、私を守ってくれてね。爵位を失わず、今いられるのも先生のおかげなんだ」
暖炉の色が彼の表情を柔らかく照らし、その奥にある感謝と信頼が、言葉以上にはっきりと伝わってくる。
「ララとのことは、反対されたでしょう」
「え? ど、どうだったかな?」
一瞬の間。視線が泳ぎ、カップを持つ指先がわずかに止まる。
……わかりやすい動揺。
先生、やはりレオナール様は、感情が顔に出てしまう方のようです。心配ですわね、本当に。
「実は、ロバート先生は、私が好んで何度も読んでいた論文を書いた方で、しかも、今度、本を持ってきてくれるとおっしゃってくれて。それで、わからないことをお聞きする約束をしたのですが、構わなかったでしょうか」
少しだけ様子をうかがいながら尋ねると、彼は即座に頷いた。
「もちろんだよ」
迷いのない答えだった。
「先生は薬草学が専門だけど、君も興味があったなんて、すごい偶然だね。でも意外だな。“ララ”は、勉強が嫌いだったのに」
何気ない一言。
けれど、胸の奥で、何かがかちりと音を立てた。
「……私は、勉強が好きなのです。覚えておいてください」
自分でも驚くほど、言葉に力が宿る。
「っ!」
彼ははっきりと息を詰まらせた。
「すまない。覚えた。絶対忘れない。申し訳ない」
ほとんど反射のような謝罪。言い訳もせず、ただ私の言葉をそのまま受け止めた。
彼の記憶にある“私”は、やはりまともに勉強していなかったのね。
もったいない。
あの最高機関の学院で学ぶ機会があったのに、一体、何に熱中していたのかしら。
――ああ、そうだった。恋愛だったわ。
沈黙が落ちたサロンには、湯気の立つ茶の香りと、暖炉の柔らかな火音だけが満ちていた。
私がしばし言葉を失っていたせいだろうか。
向かいに座るレオナール様が、私の表情を気にするように視線を向け、慎重な声で切り出す。
「アイラ? 実はね、先生の影響で、私も薬草学に興味があってね。もちろん、学院でも履修していたんだ」
恐る恐るといった調子。
怒っていると思われたのかしら。怒ってはいないのに。
けれど、その不安げな声音がどこか可笑しい。私の機嫌ひとつで、こんなにも様子が変わるなんて。
「だからね。あっちの邸に薬草学の書物がたくさんあるんだ。学院で使っていた本もだけど、趣味で集めたものまで。よかったら、読むかい?」
なっ! たくさん?
「よろしいのですか!?」
思わず身を乗り出すと、彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに、ほっとしたように微笑んだ。
「ああ、引っ越した際には、私の書斎は好きに使ってくれて構わないよ」
好きに使っていい。
その言葉が胸に落ちた瞬間、嬉しさがあふれ出す。
きっと顔に出てしまったのだろう。
レオナール様は、ようやく完全に安心したように、柔らかな表情になる。私が喜んでいることが、嬉しいといった様子だ。
「レオナール様は、学院で他に履修していた科目はなんですか?」
湯気越しに見える彼が、どこか誇らしげに答える。
「いくつかあるけど、専攻は、歴史かな?」
「まあ! 私、歴史にも興味がございます。他国の歴史も。つかぬことをお聞きしますが……」
「はは、本かい?」
問いの先を察して、楽しそうに笑う。
「実は、読書が私の趣味でね。他国の歴史の本も、それにまつわる物語の本もたくさんある。書斎も、他家よりは広いと思うよ」
“自慢”というより、“一緒に楽しめることが嬉しい”という声だった。
本の話になると、声が自然と弾むのは、たぶん私も同じ。
私も一日中、読書できますもの。
……あの日記は、一日中読みたいものではありませんけれど。
「レオナール様、私、早急に引っ越しますわ」
半ば本気でそう言うと、彼は声を立てて笑った。
「はは、そうだね。そうしようか」
早く切り上げる予定だった遅い時間のお茶会は、いつの間にか書物の話へ、学問へ、国の歴史や他国の情勢へと広がっていく。
小さなサロンは、まるで学院の一室のような空気に変わっていた。
気がつけば夜更け。
暖炉の火は落ち着いた橙色に沈み、窓の外には深い夜の静けさが満ちている。
財務官という職についているのも伊達ではないわ。
王都や地方事情、国の経済にも、見識が広くて深い。
ロバート先生が、レオナール様の“学びたい心”を支えてくださったおかげでもあるのだろう。感謝だわ。
そして、学ぶ努力を続けてきたレオナール様。胸の内に、ふと尊敬が芽生える。
夜が、穏やかに更けていく。
彼と過ごす、この静かな時間ごと、大切に包み込まれているように感じながら。
夜気がわずかに入り込む扉の前で、自然と姿勢を正す。
「おかえりなさいませ、レオナール様」
扉が閉じられる音とともに、外気の冷たさがふっと途切れた。
少し肩が落ちているのは、やはり私のために休んでいた時の仕事のせいかしら。
それでも彼は、私の姿を見つけた瞬間、ほっと力を抜いたように穏やかな微笑みを浮かべた。疲れよりも、嬉しさが滲んだ表情だ。
「ただいま、アイラ。待っていてくれて嬉しいよ」
「ええ、妻になりましたし」
そう返すと、彼の表情が一瞬で柔らかくなり、嬉しそうな気配がはっきりと伝わってきた。
妻という言葉を噛みしめるように、ほんのわずかに頷いている。
「ああ、書類の提出をしたよ。実はね、そのことで仕事中、王太子殿下やセルジュが次々きて質問攻めにされて、こんなに遅くなってしまった。はは。食事は、適当に済ませてきたよ」
笑ってはいるけれど、無理をしているのが分かる。
それでも、私を心配させないようにしているのだろう。
仕事中に押しかけて質問攻めだなんて、祝福ではなく詮索ではなくて? 自分たちの仕事はどうしたのかしら。
会ったこともない人たちの印象が、私の中で静かに下がっていく。
「君の記憶が戻らないまま、結婚したからだろうね。でも、君の望みだって言ったら納得してくれたよ」
そう言いながら、ちらりと私の反応をうかがう視線。私が傷ついていないか確かめるようだ。
なんて失礼な話。
レオナール様が、記憶のない私をだまして結婚したかのように思っているのかしら。
怒りが静かに渦を巻く。
「それは、お疲れ様でした。もしよければ、お茶をご一緒にいかがです?」
「ああ、喜んで」
そう答えたレオナール様は、私に一度だけ視線を向けてから、自室へと向かった。
しばらくして執事とともに戻ってくる足音は、どこか軽い。
サロンには二人分のティーセットが整えられ、暖炉の火がぱちりと優しい音を立てている。
香り高い茶が注がれると、静かな夜の空気にふわりと広がった。
「今日、家庭教師のロバート・デイヴィス先生にご挨拶いたしましたわ」
「そうか。親子二代で世話になっている話も聞いたかな?」
「ええ、先生のとてもいい影響を感じました」
「ああ、いい先生なんだ」
そう言った彼の声は、少しだけ低くなる。
「遠い親戚にあたるんだけど、両親が亡くなった時も、手続きやら他の親戚の対応やらもして、私を守ってくれてね。爵位を失わず、今いられるのも先生のおかげなんだ」
暖炉の色が彼の表情を柔らかく照らし、その奥にある感謝と信頼が、言葉以上にはっきりと伝わってくる。
「ララとのことは、反対されたでしょう」
「え? ど、どうだったかな?」
一瞬の間。視線が泳ぎ、カップを持つ指先がわずかに止まる。
……わかりやすい動揺。
先生、やはりレオナール様は、感情が顔に出てしまう方のようです。心配ですわね、本当に。
「実は、ロバート先生は、私が好んで何度も読んでいた論文を書いた方で、しかも、今度、本を持ってきてくれるとおっしゃってくれて。それで、わからないことをお聞きする約束をしたのですが、構わなかったでしょうか」
少しだけ様子をうかがいながら尋ねると、彼は即座に頷いた。
「もちろんだよ」
迷いのない答えだった。
「先生は薬草学が専門だけど、君も興味があったなんて、すごい偶然だね。でも意外だな。“ララ”は、勉強が嫌いだったのに」
何気ない一言。
けれど、胸の奥で、何かがかちりと音を立てた。
「……私は、勉強が好きなのです。覚えておいてください」
自分でも驚くほど、言葉に力が宿る。
「っ!」
彼ははっきりと息を詰まらせた。
「すまない。覚えた。絶対忘れない。申し訳ない」
ほとんど反射のような謝罪。言い訳もせず、ただ私の言葉をそのまま受け止めた。
彼の記憶にある“私”は、やはりまともに勉強していなかったのね。
もったいない。
あの最高機関の学院で学ぶ機会があったのに、一体、何に熱中していたのかしら。
――ああ、そうだった。恋愛だったわ。
沈黙が落ちたサロンには、湯気の立つ茶の香りと、暖炉の柔らかな火音だけが満ちていた。
私がしばし言葉を失っていたせいだろうか。
向かいに座るレオナール様が、私の表情を気にするように視線を向け、慎重な声で切り出す。
「アイラ? 実はね、先生の影響で、私も薬草学に興味があってね。もちろん、学院でも履修していたんだ」
恐る恐るといった調子。
怒っていると思われたのかしら。怒ってはいないのに。
けれど、その不安げな声音がどこか可笑しい。私の機嫌ひとつで、こんなにも様子が変わるなんて。
「だからね。あっちの邸に薬草学の書物がたくさんあるんだ。学院で使っていた本もだけど、趣味で集めたものまで。よかったら、読むかい?」
なっ! たくさん?
「よろしいのですか!?」
思わず身を乗り出すと、彼は少し驚いたように目を瞬かせ、それからすぐに、ほっとしたように微笑んだ。
「ああ、引っ越した際には、私の書斎は好きに使ってくれて構わないよ」
好きに使っていい。
その言葉が胸に落ちた瞬間、嬉しさがあふれ出す。
きっと顔に出てしまったのだろう。
レオナール様は、ようやく完全に安心したように、柔らかな表情になる。私が喜んでいることが、嬉しいといった様子だ。
「レオナール様は、学院で他に履修していた科目はなんですか?」
湯気越しに見える彼が、どこか誇らしげに答える。
「いくつかあるけど、専攻は、歴史かな?」
「まあ! 私、歴史にも興味がございます。他国の歴史も。つかぬことをお聞きしますが……」
「はは、本かい?」
問いの先を察して、楽しそうに笑う。
「実は、読書が私の趣味でね。他国の歴史の本も、それにまつわる物語の本もたくさんある。書斎も、他家よりは広いと思うよ」
“自慢”というより、“一緒に楽しめることが嬉しい”という声だった。
本の話になると、声が自然と弾むのは、たぶん私も同じ。
私も一日中、読書できますもの。
……あの日記は、一日中読みたいものではありませんけれど。
「レオナール様、私、早急に引っ越しますわ」
半ば本気でそう言うと、彼は声を立てて笑った。
「はは、そうだね。そうしようか」
早く切り上げる予定だった遅い時間のお茶会は、いつの間にか書物の話へ、学問へ、国の歴史や他国の情勢へと広がっていく。
小さなサロンは、まるで学院の一室のような空気に変わっていた。
気がつけば夜更け。
暖炉の火は落ち着いた橙色に沈み、窓の外には深い夜の静けさが満ちている。
財務官という職についているのも伊達ではないわ。
王都や地方事情、国の経済にも、見識が広くて深い。
ロバート先生が、レオナール様の“学びたい心”を支えてくださったおかげでもあるのだろう。感謝だわ。
そして、学ぶ努力を続けてきたレオナール様。胸の内に、ふと尊敬が芽生える。
夜が、穏やかに更けていく。
彼と過ごす、この静かな時間ごと、大切に包み込まれているように感じながら。
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