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楽歩

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1.婚約解消のその先に

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「ルシアーナ様、お時間でございます」


 落ち着いた声とともに、侍女アンヌが傍らに寄る。

 白い手袋をはめた手で、そっとベールを口元へとかけた。吐息すら隠してしまう薄絹のベールは、私にとって必要な仮面。



「ええ、わかったわ。行きましょう」



 ゆっくりと立ち上がり、開かれた扉の向こうへと歩み出る。



「サラ様が現れてから、もう一年になりますね」



 背後から、アンヌが小さく呟いた。私は微笑みを浮かべる。



「そうね。思えば、あっという間だったわ」



 一年前――。


 神の使徒が現れると伝承に語られる泉のほとりで、黒髪の娘が倒れているのが見つかった。
 その娘は、伝承にある“女神の使徒”と同じ容貌を持ち、さらに名までもが同じ「サラ」だった。

 瞬く間に“奇跡の再来”として国中に広まり、彼女は人々の熱狂の中に祭り上げられていった。


「王太子殿下も、最初は保護責任者としてそばにいるだけと仰っていたのに……ふふ、気づけば詩人のように彼女を称えていたわね。どこにいても視線はサラ様を追い、彼女の何気ない一言に、子供のように喜んで」


 みるみる恋に落ちていくその様子は、滑稽で、どこか痛々しかった。


「それはそうと、アンヌ。頼んでおいた準備は完璧かしら?」

「もちろんです。抜かりありません」


 私は満足げに頷き、指定された部屋へと向かう。

 そこには、国王陛下をはじめ、宰相や重臣たちが待ち構えているはずだ。呼び出しの理由など、とうに察している。

 扉の前に立っていたのは、私の婚約者である王太子セドリック様と女神の使徒サラ様。

 セドリック様は私を見るなり、露骨に眉をひそめた。



「遅いではないか、ルシアーナ」

「遅い? 私は時間どおりに参りましたわ」

「減らず口を……これは陛下からの呼び出しなのだぞ」


 すかさずサラ様が、嬉々として口を挟む。


「そうです。こういう場では、もっと時間前に到着するのが当然ですよ」


 セドリック様は大きくうなずき、彼女の言葉に勇気づけられた幼子のように、得意げに胸を張った。

 ……そうね。けれど、同じ空気を吸う時間など、一秒でも短くしたいの。

 そんな思いを、曖昧な微笑みに込めて返す。

 やがて侍従が一歩進み出て、深く頭を垂れ、扉の内に声をかけた。



「陛下、皆様お揃いでございます。入室、よろしいでしょうか」

「……ああ、入れ」


 低く響く声。重厚な扉がゆっくりと開かれる。国王陛下、宰相、重臣たちがずらりと居並び、冷たい視線が一斉にこちらへ注がれた。室内の空気が、ひと息で張り詰める。


「そこへ座れ」


 促されるまま腰を下ろすと、その場の空気だけで、すでに結論が下されていることが分かった。


「今しがた、皆の承認を得て、これからのことが決まったところだ。では、王命を伝える」


 国王陛下の声が、広間に静かに響く。


「王太子セドリックとルシアーナ・アイゼンベルクの婚約は、本日をもって解消とする。そして、王太子の新たな婚約者を──女神の使徒サラ・ビスマルクとする」



 その瞬間、空気が一変した。



「陛下のご決断、まことに英断にございます!」

 重臣たちは口々に称え、手を打ち、満面の笑みを浮かべる者さえいた。



「父上! 本当にありがとうございます!!」

 セドリック様が椅子から弾かれたように立ち上がり、歓喜に声を震わせる。サラ様と視線を絡ませるその姿は、まるで世界が二人だけのものになったかのようだった。



 ――ふふ、祭り上げられる偶像と、それに酔う王太子。



「ルシアーナ、君と王太子との婚約は、私の亡き父と君の祖父──大公との取り決めによって決まったものだ。だが女神の使徒が現れた。そうであれば、次期王妃はサラ、そうなるのが妥当だとは思わぬか? 大公に出した使いからの返答は、『すべてはルシアーナの意思に任せる』とのことだった。理解してくれるな?」



 亡き前国王と祖父は兄弟。

 祖父は国の端に広大な領地を治め、公爵として厳格に生きた人だった。

 父と母を事故で失った私を、彼は厳しく、そして深く愛情をもって育ててくれた。

 ええ、お祖父様ならきっと『ルシアーナの意思に任せる』と仰るでしょう。王宮へ旅立つ朝にも、「自分の目で確かめ、判断せよ」と告げられたのだから。




 返事をしない私へ、冷たい視線が突き刺さる。



「承知いたしました。婚約解消でよろしいのですね」



 申し訳なさそうな陛下の口元が、わずかに歪んだ。──だが、その奥に潜む愉悦の色を、私は見逃さない。




「ああ……だが、一つ、困ったことがあってな」

「なんでしょう?」

「ルシアーナはすでに王太子妃教育を終え、さらに王妃教育まで受けてしまっている」



 王妃教育は、まだ時期尚早だと止めたのに。それを強いておきながら、今さら困ったとは、よく言えたものだわ。




「解消なさるということは、側妃に迎えるつもりもない──ということですよね?」


 穏やかに言ったつもりだった。だが、広間の空気がわずかに震える。



「側妃など! 女神の使徒であるサラを侮辱するつもりか!」

 セドリック様の怒声が響き、サラ様は紅潮した顔で私を睨みつけた。



「そんなこと、絶対に認められませんわ! 妃がたくさんいるなんて信じられません!」



 ──ただの確認に、ずいぶんな反応ね。私だって、嫌よ。



「王妃教育には、国の内部機密が含まれている。君がそれを知ったまま他家に嫁ぐことは……困難だ」

「それでは、どうしろと?」



 陛下の声はあくまで柔らかく、けれど、その瞳だけが冷えていた。



「ルシアーナは……女神アウレリア様を祀る神殿にて、王家の監視のもと、一生を女神に仕えて過ごすことになる」



 ――ああ、そういうこと。

 すべて整っているのね。サラ様を王妃に据え、私は静かに封じる。

 セドリック様とサラ様は、互いに視線を絡ませ、小さく笑った。



「わかりました。では、一つずつ確認いたしましょう」


 私の声に、室内のざわめきがぴたりと止まる。




「まず、婚約解消。こちらは承知いたしました。書類があれば、署名いたします」

「ああ、用意してある。これへ」



 差し出された紙を取り、静かにサインする。ペンの先が走るたび、胸の奥で何かが剥がれ落ちていくのを感じた。

 書き終えた瞬間、セドリック様がそのペンを奪うように掴み、乱暴に自らの名を記す。




「次に、アウレリア様を祀る神殿で一生を過ごす、との件ですが」



 ゆっくりと顔を上げる。





「もちろん、それは承知いたしかねます。私は、我が領地アイゼンベルクへ戻ります」



 広間に、息を呑む音がいくつも重なった。誰もが言葉を失い、ただ私を見つめている。



 神殿に閉じ込められて一生を過ごす?


 そんな理不尽、従う理由など、どこにもないでしょう。


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