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8.女神の光、祖父の手
しおりを挟む古城の奥
ほとんどの使用人が足を踏み入れることを許されない、その静寂の一角に、ひとつの部屋がある。
ーー光冠の間ーー
女神アウレリア様を祀るためだけに造られた、清らかな聖域。
扉に指先が触れた瞬間、内側から重たくも澄んだ空気が流れ出した。
一歩、また一歩と進むたび、外の喧騒が遠のいていく。
この部屋そのものが、世界から切り離され、別の時を刻んでいるようだった。
壁は純白の大理石で造られ、天井は高く、金線で描かれた精緻な紋様が広がっている。
その中央を貫く天窓からは、陽光が射し込み、天上から降る祝福の光のように、祭壇を柔らかく包みこんでいた。
祭壇には、女神アウレリア様の像が静かに佇む。
女神は穏やかに片手を差し伸べ、その眼差しには永遠の慈愛が宿っていた。
私は膝をつき、掌を胸に添える。
「女神アウレリア様。いよいよ始まります。もし私が、間違った選択をしたときは、どうか即座に罰をお与えください。私怨ではなく、正しさの中でこの手を汚せるように」
声は自然と、静まり返った空間に吸い込まれていった。
ひと筋の光が頬をかすめ、揺らめいた。
そのとき――
「ここにいたか」
背後から低い声が響く。振り返ると、そこに祖父の姿があった。
「お祖父様」
皺の刻まれた顔に積み重ねた年月の重みが見える。
それでも、瞳の奥には今もなお強い光が宿っていた。祖父はゆっくりと女神像へと歩み寄り、私の隣で膝を折る。
長い祈りのあと、ふっと息をつき、私に視線を向けた。
「少し前まで、小さかったというのに……」
「ふふ、嫌ですわ。もう十九歳になりました」
「そうだな……はは」
その笑いは、どこか遠い日々を懐かしむようだった。
光冠の間の澄んだ空気が、ふたりをそっと包み込む。
*****
幼い頃の記憶は、ひどく鮮明で、それでいて霞がかっている。
あの日、父と母を乗せた馬車は、王都からの帰りに突然の事故で木々の間へと転がり込んだという。
帰ってきた父母は、布にくるまれていた。
「まだ幼いのだから見せるな」
と誰かが言った。それでも私は皆を押しのけ、駆け寄った。
『目を開けて。私を抱きしめて!』
『私を置いて逝かないで、生き返ってよ……!』
小さな手で、冷たくなった体を何度も揺さぶった。声が枯れるまで泣き叫び、喉が裂けるほどに願った。
しばらく黙って見ていたお祖父様が、そっと私を抱き上げた。
その腕のぬくもりは、凍てつく世界の中で温かかった。その瞬間、私は意識を失った。
次の鮮明な記憶の中で、私の手は祖父の手に包まれていた。
冷えた土の匂い、湿った草の感触。
石碑の前には春先の花がそっと置かれ、風が髪をすくっていく。何も言えず、ただお祖父様の手をぎゅっと握り返した。
「お祖父様。私、女神の使徒ではなかったのですか? 願えば叶う力ではなかったのですか? どうして……?」
問いは震え、涙が再び頬を伝った。
お祖父様は静かに私の頭を撫で、首を振る。その声には、責めるでも慰めるでもない、静かな諭しがあった。
「幼いと思って、きちんと教えなかったこの私が悪い。力を万能だと誤解してはならぬ」
「でも……欲しいものを口にすれば手に入ったわ。やりたいことも、食べたいものも、全部言うだけで叶いました」
“奇跡”を思い出すたび、胸が締めつけられた。
「それは、ルシアーナ。お前が女神の使徒だからではない。お前が公爵令嬢だからだ。周囲が、家臣が、お前の望みを叶えるために動いただけのことだ」
お祖父様の言葉は、私のうぬぼれをやわらかく剥ぎ取るようだった。それでも私は、食い下がらずに問いかけた。
「じゃあ……もうお父様とお母様に会えないのですか?」
お祖父様は静かに息を吸い、吐いた。
その目は遠く、時の彼方を見ているようだった。
「人の寿命は、生まれたときにすでに定められている。それこそ、神が決めることだ。人が人の命を弄ぶなど、あってはならぬことだよ。お前の力は――女神の意思の代弁であって、己のわがままを満たすための道具ではない。女神の意図を察し、正しきことのために使われるべきものだ。己の目で見極め、熟慮し、言葉を紡げ。すべては女神のために。そして延いては、この国のためにだ」
「……難しすぎます。分かりません」
涙がぽたりと落ちた。
土に染みこむ雫が、私の無力さを告げるようだった。
お祖父様はそっと私を抱き上げた。
広い胸に顔を埋めると、かすかに震える肩の感触が伝わる。
あれほど強く見えたお祖父様も、痛みを抱えているのだと、幼い私はそのとき初めて知った。
「そうだな……難しい話をしてしまったな。お前が大人になるまで、何度でも話をしよう。繰り返し、何度でもな」
私は返事をしなかった。
ただ祖父の胸に顔を押しつけ、涙をこらえた。
鼓動が、ひどく優しく響いていた。
*****
「お祖父様、ありがとうございます」
「ん? 何がだ?」
「ふふ、すべてです」
「はは。そうか」
笑みは、あの頃と同じだった。
けれどその奥には、私に向けられた確かな誇りが感じられた。
「お祖父様。久しぶりに、手でもつなぎまませんか?」
「いや、嬉しいが……レディにそれは失礼だろう。よかったら、エスコートをさせてくれ」
「ええ、喜んで」
私が差し出した手に、お祖父様の大きな掌が重なる。
その手は、かつて幼い私を抱きしめたときよりも、ほんの少し小さく感じられた。
光冠の間の扉が開く。光があふれ、ふたりの影を長く伸ばした。
それは、新たな道の幕開けを告げるかのようだった。
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