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楽歩

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20.眠りに誘われる夜

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 ノックの音がして、扉がわずかに揺れた。続いて、エミリアとマルセルが息を弾ませながら部屋へ入ってくる。

 ふたりの表情は緊張に強ばり、ただ事ではない、そう告げていた。

 その気配が室内に流れ込んだ瞬間、空気が張り詰める。




「判明しました。その腕輪は、隷属の腕輪です」


 エミリアの言葉は、刃物のように鋭く耳へ刺さった。

 隷属?

 その言葉が落ちた途端、腕にはめたばかりの金属が、生き物のように肌へ食い込むような感覚さえする。

 急に、腕輪が何か別のものに変貌したように感じられ、反射的に腕を押さえた。


「王太子の話では、腕輪を付けた直後に目が合った者の命に従う、とのことです。意識や考える力までを奪うものではないようですが……意志の弱い者ほど、強く影響を受けるようです」

 あのとき――必死に、私の目を覗き込もうとしていた理由が、ようやく分かった。

 背筋にぞわりと鳥肌が立つ。


「つまり、腕輪をはめ、意のままにしようとしたということですね」

 マルセルの低い声が静けさを震わせる。

 唇がかすかに強張り、言葉が喉の奥で固まった。


「おそらく、事前に掴んでいた情報通り……王太子は、ルシアーナ様を妃にすることをまだ諦めていなかったのかと」

 気持ち悪いわ。

 怒りとも嫌悪ともつかない感情が、一瞬で胸の底から噴き上がる。吐き捨てたいほどの嫌悪が、鋭く脈打った。





「国の代表同士の会談での所業。断じて見逃せません。抗議の準備をいたします。王太子単独の行動とは思えません。早速、調べに入ります」

 マルセルは険しい表情のまま深く頭を下げ、足音荒く部屋を出ていった。その背に、重い怒りと責務が滲んでいる。

 エミリアは一度深呼吸し、落ち着いた声に戻して続ける。


「解除については、私の方で調べます。心当たりのある魔方陣もいくつかありますので。ただ……精神に関与しているとなると、慎重に進めねばなりませんね。では、失礼いたします」


 扉が静かに閉まり、部屋にひっそりとした空気が戻る。残されたのは、私とユリウス、そしてアンヌの三人だけ。

 静まり返った空間で、ふと口から言葉がこぼれた。



「隷属、ということは、ふふ。今は、ユリウスが私の主ってことね」

 軽く笑ってみせると、ユリウスは眉をひそめ、すぐに真面目そのものの声で返してきた。



「だめですよ」

 その早すぎる反応に、思わず口元が緩んでしまう。



「ねえ、ユリウス。少し命令をしてみてくれない? どのくらい効果があるのか、知っておきたいの」

「だめです、と言いましたよね。精神に関与するのですよ」

「大丈夫よ。私、意志は強い方だもの。それに、何かあってもアンヌがいるし。こんな機会、もうないでしょう? 今後の参考に、ね?」


 アンヌが横で小さく肩をすくめる。止めても無駄と言いたげな表情で。

 ユリウスは観念したように、静かに息を吐いた。



「……特に命じたいことなど、ありませんよ」

「まじめね」

 くすりと笑いながら手で促す。



「なんでもいいのよ、ほら早く」

「仕方ありませんね。それでは、ルシアーナ様。私の横に座って……私が“いい”と言うまで私の目を見てください」


 その瞬間だった。

 身体がふわりと浮いたように軽くなり、考えるよりも先に自然とユリウスの隣へと移動していた。視線が、吸い寄せられるように彼の瞳へ向かう。

 綺麗な目ね。

 静かな湖底のように深く澄み、揺れる光を閉じ込めている。見つめているだけで心が落ち着く不思議な色だ。



「もう、いいですよ、ルシアーナ様。……どうでしたか?」

「そうね。特に嫌な命令ではなかったからかしら? 無理に逆らおうという気は起きなかったわ」

 腕を組み、考えるように首を傾げる。唇がかすかに動いた。



「次は、もっと私が嫌がりそうなものにしてみて」

 ユリウスは困ったように眉尻を下げる。その真面目な表情が妙に可笑しくて、笑みがこぼれた。



「ユリウス様、それでしたら――」

 待ちかねていたようにアンヌが口を挟む。



「ルシアーナ様に、今日は早く寝るよう命令してください。今日もこの後お仕事をなさるつもりなんです。何度言っても聞いてくれなくて、このままじゃ倒れます」

「アンヌったら。駄目よ、今日の仕事は今日のうちに片づけなきゃ」

「ああ、なるほど。またですね?」

 ユリウスがふっと懐かしげな笑みを漏らす。柔らかな光が瞳の奥で揺れた。



「ルシアーナ様、昔も同じようなことを言って、倒れたことがありましたよね」

 覚えているのね。忘れてくれていいのに。

 

「仕事は私が明日手伝います。今日は今すぐ部屋に戻り、準備を終えたら、まっすぐベッドに行って、朝までぐっすり寝てください」

 その言葉が落ちたとたん、身体が扉の方へ向かって動き出した。意志が糸で引かれているような、不思議な感覚。

 さっきまで「仕事を終わらせなきゃ」と考えていたのに、今は「寝なきゃ」に上書きされている自分がいる。

 アンヌが扉を開けると、背中へユリウスの柔らかな声が届く。



「ルシアーナ様、今日は素敵な夢を見てくださいね」

 その声は温かい風のようで、胸に柔らかく沁みた。


 廊下に出ると、月灯りが長い影を伸ばした。石畳に響く足音が静かな夜気に溶けていく。



「アンヌ、覚えてらっしゃい」

「ふふ、そんなことおっしゃるなら、明日ユリウス様に、私のことを許すよう命じてもらいますね」

 アンヌはくすくす笑いながら肩を揺らす。その軽さが、夜の静寂を少しだけやわらげた。

 歩きながらふと思いがよぎる。


 ――隷属の腕輪と、私の“言葉の力”の違いって、何なのだろう?

 考えるほどに、その線は曖昧になる。




 部屋へ戻り、眠る支度を整える。ベッドに横になった瞬間、糸が切れたように意識がふっと沈んでいった。


 ――ルシアーナ様、今日は素敵な夢を見てくださいね――



 その囁きだけが、優しく残響する。

 先ほどまでの恐ろしさは、どこかへ消えていた。



「私だけだと、なんだか悪いわね」

 小さく呟き、まぶたを閉じる。


『女神を愛する者たちに、今日は素敵な夢が訪れる』

 ふっと微笑み、胸いっぱいの安堵とともに、静かな眠りへ落ちていった。



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