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楽歩

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35.祈りの階段 sideアンヌ

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 sideアンヌ


 あの日の記憶を辿る。



「普段と何も変わらない日だった。でも、駆け寄ってくる足音がして。顔を上げた瞬間『見つけた!』って、叫ばれたの」


 その声も、光のようだった。

 閉ざされた暗闇に差し込む、まぶしすぎる光。


「手を取られたの。手が、驚くほど温かくって。私の痛みをそのまま受け取るみたいに包み込んだわ。ルシアーナ様は、傷跡を見て辛そうに顔を歪めながらも、離さずに、強く握ってくれたのよ」

 今でも鮮明な忘れたくない思い出。


「気づいたときにはもう、馬車の中で、次に目を開けたら、公爵家の天井だったの」

「結局、あなたは“選ばれた”ってことね」


 サラ様は、ため息交じりに笑った。その瞳は、薄暗く、届かぬ場所を見つめているようだった。


「ルシアーナ様はね、女神の使徒が二人いると知ってから、何度も何度も言葉を紡いで、私を探してくださったの」

「言葉を……?」


 私は小さく頷く。


「ルシアーナ様の力は万能じゃないの。どんな言葉にでも、奇跡は応えてくれるわけではない。すべては、女神のお心の添って。だから……祈りひとつにも、選ばれた言葉がいるの」


 サラ様の唇の端に浮かんだのは、皮肉とも、哀れみともつかぬ微笑。


「――女神も、案外意地悪ね。あなたがそんな目に遭ったのも、“試練”ってやつかしら」


 その声音に、かすかな棘が混じっていた。けれど私にはわかる。彼女の瞳の奥で揺れるのは、憐れみでも嘲りでもない。


「女神よ、もうひとりの子を、あなたの光を分け与えられし子を、この手に導き給え。どうか、その子が寂しさと辛さの闇に沈まぬように」


 私はルシアーナ様から聞いたその祈りを思い出しながら、静かに続けた。


「そう唱えたとき、ルシアーナ様の頭に浮かんだのは、孤児院の私だったんですって。それと同時に寂しくて、苦しくて、それでも声を上げられない私がいると、気づいて、いてもたってもいられなかった、そう言っていたわ」

「そう……」


 サラ様のまつげが、ひときわ長く影を落とす。


「それからは、紋章が手にあったことから、手を使うあらゆることを試したの。刺繍も、料理も、剣も。そして、ようやく、魔方陣にたどり着いた」

「何、自慢? そんなにもできるのよって?」


 彼女の軽い調子に、私は少し笑って答える。


「大変だったのよ。何も持たない私が、何かを身につけることは。だからわかるの。あなたの努力がどれほどのものだったか」


 サラ様が息を呑むのがわかった。


「たった一年で、読み書きを覚えて。マナーまで身につけたでしょう?」

「……付け焼き刃よ」

「いいえ、違うわ。付け焼き刃じゃない。あなたのすごさを、私はちゃんと知っているの。エリー」



 その名を呼んだ瞬間、サラ様の肩が小さく震えた。



「……エリー? はは、知っていたのね、私の名前」


 サラ様と目が合う。


「そりゃそうよね。偽物だって知っていたんだから、調べるわよね。もっと早くばらしてくれれば、無駄な努力なんてしなくて済んだのに」

「努力をしているあなたは、楽しそうに見えたわ」


 私がそう言うと、サラ様は何も言わなくなった。ただ、まつげの影が長く落ちて、唇がかすかに震えていた。


「私はね、ルシアーナ様に出会わなければ、自分がどうなっていたかなんて、想像もできないの。ただ一つ確かなのは、この紋章を、きっと恨み続けていたということ」

「それで、恩を感じて、侍女?」


 サラ様の声は低く、どこか切なかった。


「もったいない話ね」

「ルシアーナ様が女神を愛しているから、私も女神に祈り、愛すの。ルシアーナ様が力を正しく使おうとするから、私もそうありたいの。あの方のそばにいることが、私の幸せなの」



 サラ様はゆっくりと首を横に振った。



「全く……理解できない」

「いいえ、理解できるはず」


 私はまっすぐに彼女を見つめた。


「ベスお姉ちゃんが生きていたら、あなたは、今も幸せだったでしょう?」


 一瞬、サラ様の目が見開かれる。

 その奥に、懐かしさと痛みが同時に揺らめいた。



「……それも、知っているのね」

「紋章が本物か偽物か。それだけの違いで、私たちの今居る場所は逆だったかもしれないわ」



 長い沈黙が落ちた。



「はぁ、私もここで終わりね。ねえ、アンヌ、お願いがあるの」



 サラ様はゆっくりと息を吸い込み、そのすべてを吐き出すように言った。


「私は、嘘なんて可愛い言葉では足りないほどの偽りを重ねてきたの。だから、きっと処刑されるわ」

 サラ様の顔には、諦めの色が浮かぶ。



「セレスタリアの街のはずれに、丘があるの。一本だけ木が立っていて。そこに、ベスお姉ちゃんが眠っている。もし、できるなら、私をそこに埋めて。身体が駄目なら、せめて、髪の毛だけでも」

 
 蝋燭の炎がわずかに揺れ、鉄格子の影が壁に伸びる。サラ様は静かにまぶたを閉じた。



「……約束するわ」


 そう告げる自分の声が、驚くほど小さく震えていた。


「ありがとう」


 鉄格子の向こうで、サラ様の涙がひと粒、静かにこぼれ落ちた。

 もう、何も言葉は交わされなかった。沈黙だけが二人の間を満たし、時間がゆっくりと流れていく。

 私は背を向け、階段の方へ歩き出した。こつ、こつ、と石の床に足音が響く。その音が響くたび、胸が痛んだ。

 階段の手前で立ち止まり、そっと目を閉じる。


 ――女神よ。どうか、サラ様に安らぎを。


 祈りを胸に、私は再び歩き出した。地上の光が少しずつ近づいてきた。

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