六華 snow crystal 7

なごみ

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戻れない道

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*美穂*


“ いい相手を見つけてよかったな。じゃあな、幸せになれ ”


そんな哀しいセリフを残して、先生は去っていった。


追いかけていきたい衝動を必死で抑えた。


胸をえぐられるような痛み。


あまりに突然だった先生のプロポーズ。


そんな風に想ってくれていたなんて、夢にも思わなかった。


「………美穂さん、、大丈夫?  追いかけなくていい?」


去っていった潤一さんの後ろ姿を、ボロボロに泣きながら見ていたわたしに、聡太くんが力なく呟いた。


「………大丈夫、大丈夫だけど、、」


聡太くんには申し訳ないけれど、この哀しみを誤魔化すことはあまりに難しすぎた。


エントランスへ入っていった潤一さんの、ボヤけた後ろ姿が遠ざかっていく。


聡太くんの隣に立っていた茉理さんが、思い立ったように走り出した。


先生を追いかけて行った茉理さんをみて、なんとなく踏ん切りがついたような気がした。



未練がないと言ったら嘘になる。


多分、今の気持ちを天秤にかけたら、潤一さんを愛しているのだと思う。


だけど、決して同情で聡太くんを選んだわけじゃない。


わたしには分かっていた。


潤一さんは、わたしじゃなくてもいい人なのだということを。


と言うよりも、わたしじゃないほうがいいのだ。


あのプロポーズには、捨てることができなくなったわたしに対する同情の気持ちがあったはずだ。


それは紛れもない事実だ。


すべてを受け入れ、愛してくれる聡太くんとは違う。


それでも、そんな言葉が潤一さんから出るなんて思いもよらなくて、抱きしめられたあの胸にいつまでも留まっていたくて。


今はこんな切ない哀しみをくれた潤一さんに、心からのありがとうを伝えたい。



「ごめんね。聡太くん。今日だけ、、今日だけ泣いていてもいい? 」


あふれる涙を手でぬぐっていたら、聡太くんがハンカチを貸してくれた。


「いいよ、気がすむまで泣いたらいい。もし彼のところへ戻りたいなら、僕に遠慮しないで」


沈んだ聡太くんの声に、まるで敗者のような哀しみが感じられた。


わたしの未練たらしい態度で、随分と傷ついているのだろうな。


「美穂、戻らないよ。ずっと、、ずっと聡太くんのそばにいていい?」


「美穂さん、本当に後悔しない?」


悲しげな顔をした聡太くんが、うなだれているわたしをのぞき込んだ。


「うん………」


肩を抱かれ、停めてある車に二人で戻った。



動き出した車の車窓から見える風景を目に焼き付ける。


もう戻ることのないこの道。


二度と引き返せないこの道に別れを告げた。



さようなら、初めて愛した人。



こんなわたしを好きになってくれて、本当にありがとう。







アパートに着き、用意していた夕ご飯の準備をする。すぐに食べられるように、今日はキーマカレーとサラダを作っておいた。


「僕、自分でやるからいいよ。美穂さんは休んでいて」


カレーの鍋をかき混ぜていたわたしに、聡太くんが言った。


「なにかしていた方が気がまぎれるから」


流石にカレーを食べる気分ではないので、聡太くんの分だけを盛りつけた。


「あ、じゃあ、いただきます」


「一緒に食べられなくてごめんね」


わたしはソファ兼マットレスの上に、体育座りをしてうつむいていた。


「そんなこといいよ。……美穂さん、戻って来てくれて、ありがとう」


どんよりと重い空気の中、聡太くんがしんみりと呟いた。


「………だから言ったでしょう。美穂は必ず戻るって」


結局、臆病なわたしは安心安全を選んだのだ。


恋心なんて、いつまでも続くものじゃないもの。


だけど、頭では理解できても心と身体は今も潤一さんを求めていた。


でも、後悔はしない。


聡太くんとこれから、手に入れられなかった平和な家庭を作る。



「僕、美穂さんが帰ってこない気がして。なんだかあの彼氏、巨人みたいに見えてさ。自分がどうしようもなくちっぽけに思えて。一目みて、完全に負けたと思ったよ」


寂しげに目を伏せ、憂いを感じる聡太くんの言葉に胸が痛んだ。


「……負けてなかったよ、聡太くん。待っててくれて、ありがとう」


聡太くんがいてくれて本当に良かった。


そうでなかったら、潤一さんに一生無理をさせていたはず。



「あの茉理って子がさ、美穂さんは絶対に戻らないって言い張るものだから」


「茉理さんが? 」


茉理さんがなぜ聡太くんの隣にいたのか、不思議に思っていたけれど。


「玄関のドアを叩いていたら彼女が来て、そんなことしていたら管理人に通報されるって……」


「茉理さん、帰ったのかと思ってたわ」


茉理さんはわたしと違って人見知りなんてしないから。いつも堂々として自信たっぷりで、わたしとは正反対の愛されキャラだ。



「あの子も彼の愛人なのかい?  随分サバサバした子だね。まだ十七歳って言ってたけど本当なの?」


「十七歳なのは本当よ。彼は愛人ではないって言ってたけど………未成年に手なんか出すわけないって。バレたら逮捕されるんだからって」


「ふーん、どこであんな高校生と知り合ったのかな?」


聡太くんは不思議そうな顔をしながら、サラダのプチトマトをつまんだ。


「茉理さんは彼が診ていた患者さんよ。複雑な事情があって、わたしたち三人で同居することになったの。わたし彼女といると、ひどくコンプレックスを刺激されて、、とても耐えられなかった」


高校生相手にビグビグするな!と、潤一さんに叱られたりもしたけれど。


「あの子ちょっと変わってるけど美人だし、魅力的だとは思う。だけど、美穂さんには美穂さんの良いところがたくさんあるだろう。だからあの彼氏だって美穂さんを離さなかったじゃないか」


「……彼はわたしに同情してただけよ。不幸な境遇を知ってたから。見捨てることができなかったんだわ」


潤一さんは自分勝手で言葉はキツイけど、優しいところもあるひとだから。



「まぁ、いいや。美穂さんがこうして戻って来てくれたんだから。それが本当に嬉しいよ」


サラダも食べ終えた聡太くんが、慈しむような眼差しを向けてくれた。


ひどく哀しいお別れをしてきたけれど、彼の優しい言葉と笑顔に癒される。


この人を選んで本当によかったと思う。


「聡太くんはもの好きね。これからステキな出会いがたくさん待ってるのに。美穂なんかで妥協して、きっと後悔するよ」


鼻をグズグズさせながら、わたしはいつもの自己否定に陥る。


「美穂さん! ダメだよ。もっと自分を褒めてって、いつも言ってるでしょう。美穂さんは二人の男を戦わせたくらい魅力的な人なんだよ」


かなりムッとして、聡太くんは力説する。


「……あ、、ありがとう。聡太くん」


「僕が好きな人を貶《けな》すことは許さないからね」


厳しい口調でそう言いながら、食べ終えた食器をキッチンへ下げた。




どんなに深く心理学を学んでも、わたしの性格は変わらないような気がした。


確かにポジティブな性格の方が人生は楽しいのかもしれない。だけど、なれない者になろうともがき苦しむこと自体が不幸だ。


ネガティブなありのままの自分を受け入れる。慣れ親しんだ考え方のほうが、なんとなくしっくりと落ち着く。


聡太くんだって、明るい茉理さんじゃなく、ネガティブなわたしがいいのでしょう?


少しづつ、自然な形で前向きになれたらいいと思う。これでもわたしは聡太くんに出会って、随分明るくなれたような気がする。


ありのままのわたしを認めてくれる聡太くんが、自信と勇気を与えてくれるから。今日はアルバイトを休ませてしまって、スケジュールも狂ってしまっただろうな。


食器を洗い終えた聡太くんは、浴室に向かい、お風呂のお湯を出していた。


「美穂さん、お風呂に入って。今日は早く休んだほうがいいよ」


「あ、、ありがとう。じゃあ、先にお風呂入らせてもらうね」


至れり尽くせりの彼。


未だに慣れなくて、居心地の悪さを感じながら、着替えの下着とパジャマを持って浴室へ向かった。



先にシャンプーをして、湯船に浸かっていると、やはり思い出すのは潤一さんのこと。去年の秋から半年以上も付き合っていたのだ。悲しくないわけないじゃない。いくら聡太くんが居てくれても。



湯船にポタリと涙が落ちた。


今日は気がすむまで泣けばいい。以前のように全てを失ったわけじゃない。



聡太くんとの明るい未来が待っているから。








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