六華 snow crystal 4

なごみ

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沙織の誕生日

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*遼介*


北海道の遅い桜も葉桜となり、有紀と別れてすでに半年になろうとしていた。


結婚前は一人暮らしだったから、離婚したからといって、戸惑うほど生活が乱れることはない。


だけど、この寂しさにはいつまでも慣れることができなかった。


有紀……。


どうしているのだろう。


発寒の病院を先月辞めたということは、風の便りで耳に入ったけれど、その後どこの病院へ移ったかまでは分からなかった。


よりを戻してくれなくてもいい、ただ時々話し相手になってくれないかなと思った。


何度かLINEを送ってみたりもしたけれど、返信はなかった。


会えばあったでまた未練が出て、立ち直れなくなるものだろうか。


有紀もそれを恐れているのか、すでに完全に立ち直ってなんの未練もないのかも知れない。


女は強いなとつくづく思う。







栄養士が三月に退職して、四月から新しい栄養士に変わった。


病院食はかなりの改善がみられ、職員の日替わり定食も美味しくなった。


ボリュームがある割に、栄養バランスがよく考えられたヘルシーメニュー。


なので最近はいつも食堂で食べるようにしている。一人暮らしの食生活はどうしても野菜不足になってしまうから。


まともな昼食を食べるようになったせいか、最近は体調も良くなったような気がする。


食堂は混んでいたけれど、日替わりランチを受けとって見わたすと、窓際のテーブルに一人でポツンと沙織が座っていた。


「よっ、定食うまいか?」


スマホを見ながら食べていた沙織に声をかけた。


「わっ、びっくりさせないでよ。どうしたの?  今日は相棒は一緒じゃないの?」


沙織は不機嫌に顔をあげた。


「今日の日替わり魚だから。橋本は魚、苦手だろ」


向かい側の椅子をひいて腰を下ろす。


「いつまでもお子ちゃまなのね。美味しいのに」


そう言って沙織は鮭フライを口にいれた。


「相変わらず一匹オオカミなんだな。寂しくないのか、ひとりで食べて」


「ずいぶん傷つくことをはっきり言うわね。なによ、私が寂しそうに見えたから、同情して来てくれたってわけ?」


「そうじゃないよ。 最近、レントゲン室にもあまり顔を見せないだろ。橋本が寂しがってたぞ」


「……なぜ行かなくなったか知ってるくせに」


沙織が憎々しげに俺を睨んだ。



少し言葉につまり、気づかないふりをして、しじみの味噌汁を飲む。


「松田さんとはどうなったのよ?  彼女、離婚してくれそう?」


ストレートな沙織の質問に驚き、味噌汁を吹き出しそうになる。


「こんな場所で変なこと言うな。人に聞かれたらどうするんだよ」


隣のテーブルに聞こえないように、小声でたしなめた。


「そうね、人に聞かれちゃまずいことしてるものね」


「まずいことなんてしてないよ。失礼なこと言うな。変な噂を流したら許さないからな」


「変なうわさって?  松田さんとこの子供が佐野さんにそっくりとか?」


ヒソヒソと嫌味ったらしく言って笑った。


「…………。お、おまえ、誰にも言ってないだろうな?」


「言ってないわよ、冗談だってば。そんなに怖い顔しないでよ」


さすがに言いすぎたと思ったのか、少しひるんだように首をすくめた。


「空気読まなすぎなんだよ!」


やっぱり、こいつと同じテーブルになど着くのではなかったと後悔しながら御飯をかき込んだ。







「ねぇ、今日って、なにか用事ある?  帰り一緒にご飯食べない?」



沙織は機嫌でも取るかのように、上目遣いに微笑んだ。


「だから橋本を誘えばいいだろ。あんないい奴いないだろ。どこが気に入らないって言うんだよ」


「橋本くんがいい人なのはわかるわよ。だけど誠実でいい人だとか、親切で優しいとか、佐野さんはそんなことで人を好きになってるの? 」


「…………まぁ、それだけじゃないけどな」


確かに沙織の言うとおりかも知れない。俺が彩矢ちゃんに惹かれるのはなぜかな。


いつも弱々しく悲しげに俺を見つめる彩矢ちゃん……。


そんな危なげな脆さと儚さにいつも翻弄されて。


泣いている彩矢ちゃんを見ていると、どうしようもなく切なくて、苦しくて、、


それは長所と言うよりはむしろ、短所と言うべきものだろう。


明るく頼りになる有紀とは全く違うけれど。


楽しかった有紀との生活は、何ものにも変えがたいほどの幸福を与えてくれた。


有紀とはまったく違うタイプなのに。


彩矢ちゃん……いつも手に届きそうで届かなかった。


狂おしいほど残酷なまでに、俺の心を鷲づかみしたまま奈落の底へ突き落とす。


ーー俺にはわかってた。


彩矢ちゃんの心はずっと松田先生にあるということを。


離婚なんてするはずがない。そんなこと、わかりきっていたはずじゃないか。








「ねぇ、今日はわたしの誕生日なのよ。なにか奢ってよ。秘密守るからさ」


定食を食べ終えた沙織がそう言いながら、紙ナプキンで口を拭いた。


「フン、なにが誕生日だよ。適当なこと言うな」


「じゃあ、本当だったら奢ってくれる?」


自信ありげに言う沙織に少し戸惑う。


「……いいよ、本当に誕生日なら奢ってやるよ」


「やったー! 」


沙織はニコニコ笑って、スマホケースの間から運転免許証を取り出した。


生年月日が本当に今日の日付だったので驚いた。


橋本には悪いけれど、誕生日くらいお祝いしてあげてもいいように思った。


それにそんなに俺のことを思ってくれるなら、付き合ってもいいのかも。


いつもひとりぼっちの沙織だって可哀想な女なんだ。



彩矢ちゃんより、ずっと……。









そんなふうに思って、今夜どこで誕生日のお祝いをしてあげるべきかを悩んだ。


有紀と一度行ったことのある円山のレストランがいいかもと思い、早速予約をした。


それなのに……。


仕事を終えて職員通用口を出ると、自販機の前に彩矢ちゃんが立っていた。


俺のことを待っていたようで、切羽詰まったような目をして相談事があると言う。


よりによって、なんで今日なのか……。


沙織との約束をドタキャンしたい気持ちにかられたけれど、誕生日のお祝いを先延ばしするというのは、あまりに酷な気がした。


後ろ髪を引かれるような気持ちで彩矢ちゃんに謝り、沙織に強引にひっぱっていかれた。








ここのレストランは、道産食材を生かした野趣あふれるフレンチが人気だ。有名店でありながら良心的な料金設定も嬉しい。


店内は以前と変わらず、落ち着いたムード。 二十あるテーブルの半数くらいがうまっていた。


「ねぇ、ここって、松田さんとも来たことあるでしょ?」


沙織が店内を見回しながら、悪戯っぽい目で俺を見つめた。


「ないよ、、」


来たのは有紀とだ、ということまでは言わないでおいた。


「うふふっ、こんなお誕生日になるなんて思わなかったな。今日の午前中はわたし嫌なことばっかりだったのよ。なんて最低な誕生日なんだろって思ってたの」


午前中の出来事を思い出したのか、憤慨して言った。


「なにかトラブルでもあったのか?  また誰かと揉めたのか?」


「ミスをしたのはわたしじゃないのよ。なのに注意の仕方が悪いって言われたの。いつだって悪者はわたしってことになっちゃうんだわ。多勢に無勢じゃどうしたって勝てっこないでしょ。みんなでわたしをこの病院から追い出そうとしているの」


暗い目をして沙織はつぶやく。



その場にいなくても、なんとなくどんな状況に追い込まれたのかは想像がついた。言わないでいいことまでズケズケという沙織には敵が多いのだろう。


仕方がないとは思うけれど、そんな性格を治すことが出来ずに孤立してしまう沙織には、同情を禁じ得なかった。


「嫌なことは忘れろよ。簡単じゃないけど、そうするしかないだろ」


「忘れたってまたすぐにそんな目に遭うんだわ。でも、いいわ、いいこともあったから。いつまでも嫌なこと思い出してたら損するもの」


沙織は自分にそう言い聞かせて、気を取り直したようだった。


三ツ星レストランと聞けば、かなり構えてしまいがちだけれど、ここはそんな堅苦しい雰囲気はない。


お客もけっこうワイワイ話しながら食事をしている人が多く、給仕も気さくな感じだ。静か過ぎると緊張するのでこういう雰囲気はいいと思う。


札幌中心部から少し離れた、自然あふれた落ち着けるレストラン。


前菜の温野菜は、20種類以上の華やかな彩りを色々なペーストでいただく。


ゴボウのスープは大地の恵みを感じさせる、独特の香りとコクが楽しめた。


殻付きウニの塩水のジュレは、ウニそのものよりウニらしい濃厚な甘みを感じる。


帆立のフリットや、十勝牛のステーキ。デザートはクレームダンジュのハスカップソースがけなど、どれも抜群に美味しいかった。


だけど彩矢ちゃんの相談というのがなんだったのかが気にかかって、沙織とのおしゃべりはうわの空だった。







デザートを食べ終える頃、トラブルは発生した。


さっきから隣のテーブルの男がチラチラと沙織を見る視線が気にはなっていた。


性格はともあれ、沙織は美人だからな。


沙織自身もそのことに気づいていたようで、目が合うたびに遠慮なく小首をかしげ、可愛らしく笑みを返した。


面白くないのは向かい側に座っている連れの女性だろう。


悪いのはどちらかといえば、無遠慮にチラチラと見ていた男性のような気もするが、連れの女性はそうは思えなかったらしい。


いきなり席を立って歩いてくると、持っていたコップの水を沙織の顔へぶちまけた。


「キャァーー!」


まわりのテーブルの客から一斉に注目を浴びる。


「なにすんのよ、このブスッ!」


沙織は膝においていた布ナプキンで顔を拭いて立ち上がると、その女の胸ぐらをつかんだ。


「あんたが悪いんじゃないのっ、人の彼氏に色目なんか使って、どういうつもりよっ!」


その女も沙織の髪をつかんで負けずに言った。


和やかだったレストランの空気が一変して、給仕たちが飛んで来た。


「バカッ!  沙織、やめろっ」


席を立ち、沙織を羽交い締めした。


「先に色目を使って来たのはあんたの彼の方じゃない。人を妬んで変な言いがかりをつけないでもらいたいわねっ!」


沙織の捨てゼリフに女は顔を歪めると、シクシクと泣き出した。


連れの男が気まずそうに女性の肩を抱いて、レストランを出ていった。


ハァーっと、ため息が漏れる。


「すみません、、」


駆けつけた給仕と食事中の客に頭を下げ、席に着いた。


「まったく、頭に来ちゃうわね、せっかくの誕生日だっていうのに、どいつもこいつも」


沙織は自分にはまったく非はないと思っているらしかった。


確かに沙織だけが悪いわけではないけれど。


普通の一般的な良識がある女性なら、問題なく回避できることだろう。


なぜ相手の女性の立場に考えが及ばないのか。


今後も沙織を待ち受けるトラブルや困難を想像すると、なんともいえない気分になった。









沙織をマンションへ送り届けて、すぐに彩矢ちゃんにお詫びのLINEを送った。


だけど時すでに遅しで、” 問題は解決しました 。いつもありがとう ” との、そっけない返事。


問題ってなんだよ?  解決したって、なにが?


アパートへ帰ってからも気になって、ベッドへ入ってからも悶々として寝つくことができなかった。


沙織に腕なんか組まれて誤解でもされたのか。あまりのタイミングの悪さにため息がもれた。




彩矢ちゃん、俺どうすればいい?


まだ、待っていてもいいの?


待っていたら、迷惑なんだろう?


一体どうして欲しいんだよ……。



これからもまた、未練たらしく待ち続けなければいけないのかと思い、気持ちがふさいだ。
































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