六華 snow crystal 5

なごみ

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第1章

夏帆の願い

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**修二**


いつの間にか7月も過ぎ、今日はめずらしく30℃を超える真夏日となった。


「コホ、コホッ」


夏帆は以前から時々咳き込むことがあったけれど、最近それは顕著になった。


余命の短さからいって、肺にも転移しているのだろう。


「大丈夫?  クーラーがキツイんじゃないのかい?  少し温度をあげようか?」


「ううん、平気よ。暑いよりは寒いほうがいいの。汗をかきたくないから」


微笑んだ夏帆の笑顔に、かなりの疲労感がにじんで見えた。


夏帆はなかなか弱音など吐かないけれど、近頃は食欲もなく、ずいぶん痩せてしまった。


絵を描く気力も低下している。


覚悟はしていたものの、日に日に弱っていく夏帆を見るのは辛かった。


こんな時こそ、僕が支えてあげるべきなのに。



「ゴホ、ゴホ、、ゴホッ、ゴホッ!!」


絵を描いていた夏帆が、身体を折り曲げて咳き込みはじめた。


「大丈夫? 少し休んだほうがいいよ」


「ええ、ごめんなさい」


支えてつかんだ夏帆の腕の細さに悲しみが込みあげる。


「マンゴーのスムージーを作ってみたんだけど飲まないかい?」


「そうね、、飲んでみようかしら……」


夏帆に食欲のないことはわかっていた。


僕が用意したスムージーは、200mlほどのものだったけれど、夏帆は別のコップへも分けて、僕にも飲むように差しむけた。


「美味しそう。一緒に飲みましょう」


残すのは申し訳ないからなのだろう。僕のカップには3分の2以上の量が入っていた。


「甘くて美味しい…」


微笑んで飲む夏帆の演技は悪くなかったが、無理をして飲んでいるのはあきらかだった。


その演技は以前の僕が母にしていたのと同じだったから。






「夏帆、無理しないで」


スムージーのカップを夏帆の手から取り上げた。


「美味しかったのは本当よ、ありがとう」


バレた嘘を取り繕うかのように夏帆は僕を気遣った。


「僕にはもっと甘えてくれないかな。辛いときは泣いたっていいし、八つ当たりをしたって構わないよ」


「一緒にいてくれるだけで、どんなに支えになってるか知れないわ」


そう言って夏帆は僕の胸にもたれかかった。


「君は精神的に大人だから、八つ当たりなんかしてもスッキリしないのかもしれないな」


痩せ細った夏帆の体をそっと抱きしめた。



「じゃあ、……我儘を言ってもいい?」


思いつめたように夏帆は僕を見つめた。


「なんだい?  僕にできることならなんでも言って」


「……結婚してください」


言ったあと、怯えたように目を伏せて夏帆は下を向いた。


「………そ、それは、、」


余命3カ月と言われている夏帆との結婚は、正直考えてなかった。


「ごめんなさい。冗談よ。なんだか疲れちゃって……。少し休むわね。今日はもう帰ってくださっていいわ。いつもありがとう」


狼狽えたようにうなだれて寝室へ向かった夏帆を呼び止めようとしたけれど、なんと言っていいのか分からず、立ちつくす。


即答できるような話ではない。



いくら夏帆を喜ばせてあげたいとしても……。






結婚……。


余命がたとえ3カ月でも、女性は結婚に憧れを持つものだろうか。


確かに今ならまだウエディングドレスを着られるだろうし、内輪だけなら披露宴だって出来なくもない。


だけど結婚は当人だけの問題ではない。


夏帆が亡くなった後、あの家はどうなるのか?


たった一人の身内である祖父は認知症で施設に入居していると言っていた。


付き合いがないとしても他にも親戚縁者はいるだろう。


正直、そんなことを考えると煩わしい気持ちがぬぐえない。


夏帆の望みならなんだって叶えてあげたい、そう思っていたけれど。


家に帰る足取りも重く、ルパンと公園のあたりを通り過ぎたところ、


「あら、修二さん、今帰り?」


向こうから走ってきたのは、夏帆の友人の佐々木知佳さんだった。






夕暮れ時で日は沈みかけていた。


ライトイエローのノースリープに、グレーのショートパンツ姿の知佳さんは、上気した頰にうっすらと汗を浮かべていた。


「こんな暑い日もトレーニングかい? 頑張るね」


「だって、締まりのない身体じゃ説得力がないもの」


知佳さんは5歳の子がいる主婦だけれど、円山にあるスタジオで、週に2回ヨガのインストラクターをしている。


夏帆の家にもよく来ているので、もう顔なじみにはなっていた。


「今日は帰りが早いのね。夏帆の具合はどう? 」


「う、うん、今日は疲れたから、もう休むって。咳き込むことが多くてね、、」


病状については僕よりも知佳さんのほうが詳しい。


女同士のほうが話しやすいということもあるのだろう。






夏帆はまだ僕に遠慮をしているのか、信用していないのか、あまり病状については話したがらない。


まだ僕のことは信じられなくて、離れていくことを恐れているのかも知れない。


「帰りに寄ってみるわ。いつもありがとうございます。修二さんが訪問してくれるようになって、ずいぶん良くなったように思ってたけど、やっぱり咳はひどくなってるのね」


「僕は病状についてはよく知らないんだ。聞くのも悪い気がしてね。でも、肺にも転移しているんだろう?  他の部位にも転移しているのかな?」


「骨にもって言ってたわ。でもまだ痛みはないんですって……」


知佳さんの顔からは、すっかり快活さがなくなって、重苦しい空気がよどんだ。


「彼女はひどくなったらどうするつもりでいるんだい? ホスピスにでも行くつもりなのかい?」


「夏帆は家で死にたいって言ってたわ。でも、結局はホスピスに行くしかないって」


「そうか、、色々ありがとう」


「ええ、じゃあ、また」


彼女はやっと少しほほえむと、軽く手を振って走っていった。






夏帆が望むなら結婚してもいいのかも知れない。


あと、何ヶ月生きられるのかわからないんだ。


亡くなったあとの煩わしさなど、夏帆の苦しみにくらべたら、どれほどのこともないだろう。


あの家で夏帆を看取ってやろう。


僕がこうして生き返ることが出来たのも、夏帆のお陰でもあるのだから。


あと1ヶ月もしないうちに夏帆は寝たきりになってしまうかも知れない。


そうなる前に、できる限りのことをしてあげよう。






翌日の朝、役所へ婚姻届の用紙を取りに行った。


悩んだり、躊躇している暇はない。


保証人は知佳さんに頼んだらいいと思う。


母に言おうかどうかは少し迷った。


諸手を挙げて喜べるような結婚でないことは確かだけれど、事情を話せば納得はしてくれるはずだ。


だけど、言わずに済ませられるものならそうしたいと思った。


僕はもう散々なくらい母を苦しめてきたから、これ以上は母の悩みごとを増やしたくなかった。


それなりの収入と貯金はある。


家を出て、一人暮らしを始めたいと母には説明しようと思う。


やっと自立してくれたかと、たぶん喜んでくれるだろう。






午後、ルパンを連れて中山家を訪れる。


夏帆はやはりキャンバスに向かって絵を描いていた。それは僕の肖像画のように見えた。


「誰を描いてるんだい?」


「あら、今いらしたの?  気づかなくてごめんなさい」


「それって、もしかして僕? 」


「そうよ、まだ一枚も描いてないんですもの。モデルになってくれないから、想像で描いてるのよ。似てなくても怒らないでね」


夏帆は少し拗ねたように微笑んだ。


「自画像を描いたらいいじゃないか。僕はそっちが欲しいな」


「嘘ばっかり。飾ってくださらないでしょう、どうせ」


口を尖らせて言う夏帆がいじらしく見えて、思わず抱きしめた。


「そうだな。飾る必要はないかも知れないな。いつでも実物の君がみれるから」


「じゃあ、やっぱり描いておこうかな。実物より美人に。ふふふっ」


夏帆はいつでも実物の君がみれると言った、僕の言葉の意味がわかっていない。


「今日は調子が良さそうで嬉しいな。食事はちゃんと摂れたのかい?」


「ええ、早めに休んだから少し元気になったわ。あ、あの、昨日のこと怒ってない?  バカなこと言ってごめんなさい」


夏帆は急にうなだれて下を向いた。


恥じ入ってうつむいている夏帆の手をとって言った。


「夏帆、……結婚しよう」


「えっ、」


夏帆が聞き間違えたかのように顔をあげ、僕を見つめた。



「なんて、、い、いまなんて言ったの?」



「あ、ごめん。プロポーズのときは指輪がいるんだったね。慌てていて忘れてしまったな。ごめん」


呆然とした様子で夏帆は僕を見つめている。


「あ、、あの、修二さん、昨日言ったことは気にしないで。本当にごめんなさい。体調が悪くなると気持ちが弱くなってしまって……」


まだ信じられないといった半信半疑の面持ちで夏帆は言った。


「夏帆、これからはもっと頼って欲しいんだ。遠慮なんかしないで僕を信じてくれないか?」


「修二さん、本当に、……本当にいいの?」


涙ぐんでいる夏帆を抱きしめた。


「幸せになろう、夏帆。僕は朝も昼も夜もずっと君のそばにいるから」


夏帆の目から次々と涙が流れては落ちた。


声も立てずに静かに泣いている夏帆が、たまらなく愛おしかった。







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