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第1章
シングルマザーの哀しみ
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「……じゃあ、わたし疲れたからもう寝るわ」
意気消沈して、和室の引き戸を開けた。
「えーっ、もう? 早すぎでしょ、まだ九時よ」
子供のころから、叱られることに慣れている遥香は、父の叱責など気にも留めずに言った。
パジャマに着替えて歯をみがき、リビングへ戻ると、遥香が数学の参考書をめくっていた。
「遥香、どうしたの? なんの勉強?」
面白くない顔をして、遥香は参考書をパタリと閉じた。
「私ね、今年いっぱいで銀行を辞めることにしたの」
「えーっ、どうしたの? もしかして赤ちゃん?」
美冬に従姉妹ができたら、とっても嬉しいけれど。
「違うわよ。私もね、看護師になろうかと思ってるんだ」
「はぁ? 遥香が看護師! 向いてないでしょう、一体どうしたっていうのよ? あんなに喜んでたじゃないの、銀行に入れて」
元々まだ眠くもなかったけれど、すっかり目が冴えてしまった。
「時代はもうAIなのよ。間違いなくいずれはリストラの対象よ。子供ができる前に看護師の資格を取っておいたほうがいいと思って」
「マジで? 看護師なんて絶対にやだって言ってたじゃない」
「人の考えは変わるのよ。よく考えたら看護師のほうがいいわ。看護学校の試験まで2ヶ月しかないの、間に合うかな?」
遥香はそう言うと、また参考書をひらいて見つめた。
勉強はよく出来る遥香だから、あと2ヶ月しかなくても、看護専門学校なら入れると思うけれど。
遥香がナースねえ……。
どうもしっくりこないけど。
「健人さんはなんて?」
「君が自分で決めたことなら、反対したところで仕方がないだろって。どうせ自分がしたいようにするんだからですって」
ーー確かに。
健人さんは遥香の気性をよく理解している。
健人さんは今夜、飲み会で遅くなるそうだけれど、9時半も過ぎて遥香は自宅マンションへと帰って行った。
和室で寝ている美冬のとなりに布団を敷き、横になった。
明日は十時から、実家から地下鉄一本で行ける総合病院の面接がある。
問題は託児所だ。それとなく覗いて見ておこう。美冬のことが一番大事だから。
「託児所でいいお友達ができるといいね」
すやすやと規則正しい寝息をたてている美冬に話しかける。
今夜はぬぐっても、ぬぐっても、涙があふれて止まらなかった。
ごめんね、美冬、今日だけは泣かせて。
ママ、ずっと泣かないで我慢してたの。
ずっと自分の気持ちを誤魔化して、
美冬さえいてくれたら、それで十分幸せだからって言い聞かせて。
だけどいつのまにか、こんなに修二さんを頼っていたんだ。
優しいパパがいる、あたたかい家庭を夢みて。
美冬にもそんな環境を与えてあげたくて。
加奈も遼介も遥香も、みんな良きパートナーに恵まれている。
羨んでいる自分がみじめで仕方がなかった。
今でもこんなに修二さんが好きだから、尚のこと裏切りが許せなかった。
この悲しみから一日も早く立ちなおって抜け出さなきゃ。
「美冬、明日からママもう泣かないよ。二人っきりでも毎日笑って暮らそうね」
ティシューをとって涙をふき、思いっきり鼻をかんだ。
翌朝、両親が出勤したあと、後片づけすませ、お掃除していたら二階からドカドカと音をたてて駿太が階段を降りてきた。
「よう、美冬、オッハーー!」
と言って、NHKの子ども番組を見ていた美冬の頭をなでた。
「なにが “ オッハーー ” よ。来年の四月からは社会人なんでしょう。タメ口とか、おかしな言葉づかいは、いい加減に直しておかないと苦労するわよ」
「いちいち言うことがババァだな。そんなこと言ってる自分こそ、後輩からうんざりされてるってことに気づいてないだろ?」
駿太の指摘に思い当たる節がないでもなく、思わず言葉につまる。
「朝ごはん食べるの? 遅いからもう片付けちゃったわよ」
「いいよ、自分で適当にやるから。親父と違って手のかからない男だからな」
駿太は自分で褒めて、冷蔵庫を開けた。
「冷蔵庫なにもないじゃないか。また遥香がおかずを持っていったんだろ」
駿太はため息をつくと、電気ポットに水を注ぎ、棚からカップ麺を取り出してフタを開けた。
「やめなさいよ、朝からカップ麺は。昨日のケーキがあまってるわよ」
「朝からケーキなんて食えねぇよ」
まぁ、たしかに……。
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。
「わぁ、もうこんな時間。美冬~ おでかけだよ、コート着るよ」
慌てて、フローリングワイパーを片づけ、洗面所で髪をとかした。
面接だから簡単なメイクくらいはしたいけど。
沖縄で紫外線を浴びすぎたのか、最近シミが目につくようになった。
あーあ、私も随分おばさんになったのね。鏡をみながらため息をつく。
バタバタと美冬の持ち物を準備しているうちに時間もなくなり、メイクどころではなくなった。
美冬に帽子を被せて、手袋をはめた。
「じゃあ、行ってきまーす!」
カップ麺をすすっていた駿太が、
「今日は雪降るって言ってたぞ。風邪引くなよ、美冬。じゃあな!」
と、手を振った。
どんよりとした薄曇りの空は今にも雪が舞ってきそうだった。
雪の積もっていない歩道も少し凍りついているようでテカっていた。
真っ赤なコートを着て歩けるようになった美冬はニコニコと楽しそう。
「美冬、すべるから気をつけてね」
よちよち歩きの美冬との通勤は、時間がかかりそうで心配になる。
やっぱり車が必要ね。
歩きだした私たちの横に車が停車した。
一瞬、修二さんが来てくれたのかと思ったら女性だった。
助手席のウィンドーを開けて、運転席からこちらをのぞき込んだ女性が声をかけた。
「こんにちは!」
えっ!?
「ち、知佳さん!!」
意気消沈して、和室の引き戸を開けた。
「えーっ、もう? 早すぎでしょ、まだ九時よ」
子供のころから、叱られることに慣れている遥香は、父の叱責など気にも留めずに言った。
パジャマに着替えて歯をみがき、リビングへ戻ると、遥香が数学の参考書をめくっていた。
「遥香、どうしたの? なんの勉強?」
面白くない顔をして、遥香は参考書をパタリと閉じた。
「私ね、今年いっぱいで銀行を辞めることにしたの」
「えーっ、どうしたの? もしかして赤ちゃん?」
美冬に従姉妹ができたら、とっても嬉しいけれど。
「違うわよ。私もね、看護師になろうかと思ってるんだ」
「はぁ? 遥香が看護師! 向いてないでしょう、一体どうしたっていうのよ? あんなに喜んでたじゃないの、銀行に入れて」
元々まだ眠くもなかったけれど、すっかり目が冴えてしまった。
「時代はもうAIなのよ。間違いなくいずれはリストラの対象よ。子供ができる前に看護師の資格を取っておいたほうがいいと思って」
「マジで? 看護師なんて絶対にやだって言ってたじゃない」
「人の考えは変わるのよ。よく考えたら看護師のほうがいいわ。看護学校の試験まで2ヶ月しかないの、間に合うかな?」
遥香はそう言うと、また参考書をひらいて見つめた。
勉強はよく出来る遥香だから、あと2ヶ月しかなくても、看護専門学校なら入れると思うけれど。
遥香がナースねえ……。
どうもしっくりこないけど。
「健人さんはなんて?」
「君が自分で決めたことなら、反対したところで仕方がないだろって。どうせ自分がしたいようにするんだからですって」
ーー確かに。
健人さんは遥香の気性をよく理解している。
健人さんは今夜、飲み会で遅くなるそうだけれど、9時半も過ぎて遥香は自宅マンションへと帰って行った。
和室で寝ている美冬のとなりに布団を敷き、横になった。
明日は十時から、実家から地下鉄一本で行ける総合病院の面接がある。
問題は託児所だ。それとなく覗いて見ておこう。美冬のことが一番大事だから。
「託児所でいいお友達ができるといいね」
すやすやと規則正しい寝息をたてている美冬に話しかける。
今夜はぬぐっても、ぬぐっても、涙があふれて止まらなかった。
ごめんね、美冬、今日だけは泣かせて。
ママ、ずっと泣かないで我慢してたの。
ずっと自分の気持ちを誤魔化して、
美冬さえいてくれたら、それで十分幸せだからって言い聞かせて。
だけどいつのまにか、こんなに修二さんを頼っていたんだ。
優しいパパがいる、あたたかい家庭を夢みて。
美冬にもそんな環境を与えてあげたくて。
加奈も遼介も遥香も、みんな良きパートナーに恵まれている。
羨んでいる自分がみじめで仕方がなかった。
今でもこんなに修二さんが好きだから、尚のこと裏切りが許せなかった。
この悲しみから一日も早く立ちなおって抜け出さなきゃ。
「美冬、明日からママもう泣かないよ。二人っきりでも毎日笑って暮らそうね」
ティシューをとって涙をふき、思いっきり鼻をかんだ。
翌朝、両親が出勤したあと、後片づけすませ、お掃除していたら二階からドカドカと音をたてて駿太が階段を降りてきた。
「よう、美冬、オッハーー!」
と言って、NHKの子ども番組を見ていた美冬の頭をなでた。
「なにが “ オッハーー ” よ。来年の四月からは社会人なんでしょう。タメ口とか、おかしな言葉づかいは、いい加減に直しておかないと苦労するわよ」
「いちいち言うことがババァだな。そんなこと言ってる自分こそ、後輩からうんざりされてるってことに気づいてないだろ?」
駿太の指摘に思い当たる節がないでもなく、思わず言葉につまる。
「朝ごはん食べるの? 遅いからもう片付けちゃったわよ」
「いいよ、自分で適当にやるから。親父と違って手のかからない男だからな」
駿太は自分で褒めて、冷蔵庫を開けた。
「冷蔵庫なにもないじゃないか。また遥香がおかずを持っていったんだろ」
駿太はため息をつくと、電気ポットに水を注ぎ、棚からカップ麺を取り出してフタを開けた。
「やめなさいよ、朝からカップ麺は。昨日のケーキがあまってるわよ」
「朝からケーキなんて食えねぇよ」
まぁ、たしかに……。
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。
「わぁ、もうこんな時間。美冬~ おでかけだよ、コート着るよ」
慌てて、フローリングワイパーを片づけ、洗面所で髪をとかした。
面接だから簡単なメイクくらいはしたいけど。
沖縄で紫外線を浴びすぎたのか、最近シミが目につくようになった。
あーあ、私も随分おばさんになったのね。鏡をみながらため息をつく。
バタバタと美冬の持ち物を準備しているうちに時間もなくなり、メイクどころではなくなった。
美冬に帽子を被せて、手袋をはめた。
「じゃあ、行ってきまーす!」
カップ麺をすすっていた駿太が、
「今日は雪降るって言ってたぞ。風邪引くなよ、美冬。じゃあな!」
と、手を振った。
どんよりとした薄曇りの空は今にも雪が舞ってきそうだった。
雪の積もっていない歩道も少し凍りついているようでテカっていた。
真っ赤なコートを着て歩けるようになった美冬はニコニコと楽しそう。
「美冬、すべるから気をつけてね」
よちよち歩きの美冬との通勤は、時間がかかりそうで心配になる。
やっぱり車が必要ね。
歩きだした私たちの横に車が停車した。
一瞬、修二さんが来てくれたのかと思ったら女性だった。
助手席のウィンドーを開けて、運転席からこちらをのぞき込んだ女性が声をかけた。
「こんにちは!」
えっ!?
「ち、知佳さん!!」
応援ありがとうございます!
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