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第2章
沙織の告白
しおりを挟むもちろん、沙織とこれっきり会えないわけではない。
辞表を出しているとは言え、僕は三日間の有給を取っているにすぎないし、まだ離婚だって成立しているわけでもないのだ。
明日にはまた札幌に戻らなければいけない。
後釜にと考えていた金谷があんなでは、佐野さんに申し訳なくて紹介などできない。
しばらくは、辞められないかもしれない。
札幌へ帰ったところで、僕には寝泊まりする場所さえない。
それに、七海のことはどうすればいいのだろう……
せっかく函館にまで連れてきたのだから、夜景くらいは見せてやらなければいけないだろう。
ロープウェイで山頂まで登り、夜景がよく見えるレストランに入った。
沙織とでさえ、まだ見に来ていなかった函館の夜景……
世界三大夜景のひとつでもある、超有名スポット。
市街地のきらめく明かりとともに、両側に見える海。
ここの海は右が津軽海峡、左が函館湾だ。
海沿いの道路による光の縁取りが、光の街と闇の海をメリハリのあるものにしている。
これだけ狭い市街地の両側に海があるのは、たぶんここだけだろう。
「わーっ、めっちゃきれい!!」
七海は初めて来たと言う。
物珍しそうに店内を見まわす七海を見て、この娘とこんなところにいる今の状況が信じられない。
「修学旅行とかで来たことはなかったの?」
「……学校にはあんまり行ってなかったから」
暗い過去を思い出したかのように、七海は哀しげに目を伏せた。
「好きなもの食べていいよ。何にする?」
励ますように七海にメニューを広げてみせた。
遠慮などしない七海は、コース料理が食べてみたいと言う。
食べ物なんかで散財したくなかったけど、わざわざ函館まで連れて来たのは僕だ。
そんな負い目もあり、七海がここへ来て良かったと思ってもらいたかった。
「嬉し~~ 七海、こういうの一度でいいから食べてみたかったんだ」
七海はナイフとフォークをにぎって、まるで小学生のようにはしゃいでいる。
大したことのない七千円のコース料理だけれど、運ばれて来た前菜に七海は顔をほころばせた。
「金谷にも連れて行ってって頼んでみたらいいじゃないか」
「翔ちゃん、こういうところは疲れるから嫌だって……でもね、今の彼女とはホテルのレストランに行ってるみたいなの。人から聞いた話なんだけどね」
猫背の姿勢でスープをすすりながら、七海は虚ろな目でつぶやいた。
「七海、もっと自分を磨けよ。君は今よりずっとステキな女性になれるよ。安売りなんかしちゃダメだ。君はきれいで優しくて、本当に素晴らしい娘なんだから」
なんとなくキザなセリフに思えて、気恥ずかしい気分になる。
「ちょ、ちょっと、そんなことマジで言わないでよぉ~ 照れるじゃん。口説いたって、慎ちゃんはなんにもしないくせに~ 」
口に食べ物が入ったまま、七海はアハハと笑った。
気取ったところのない、そんなあけっぴろげな七海も好きだけれど。
翌日昼食を済ませて、七海と帰り支度をしていたら、
「あら、七海ちゃんも帰っちゃうの?」
母が当然と言えば当然の反応を示した。
七海はストーカー被害から守るために、この家に連れてきたと言ったのだから……
「うちは遠慮しなくていいのよ。たった三日で戻るなんて危険じゃない。もう少し函館にいたほうがいいわよ」
諭すように母は七海を見つめた。
「あ、で、でも……」
七海は困ったように首をかしげる。
金谷に会いたくてたまらないんだ、七海は。
なんと言っても、まだ、二十歳なんだから。
恋する気持ちを止められない年齢だろう。
「じゃあ、もう少しここに居させてもらおうかな」
意外なことを言う七海に驚く。
「マジで、、こんなところにいてヒマじゃないのか? スナックの仕事はどうするんだい?」
七海はススキノのスナックで、週に三回アルバイトをしていると言っていた。
「バイトは辞めるからいい……」
力なくうつむく七海。
「早く金谷に会いたいんじゃなかったのか?」
" 翔ちゃん今頃なにしてるかな? “
七海はそう呟きながら、昨日までずっとスマホを見つめてはため息をつき、金谷からの連絡を待っていた。
「会いたいよ、翔ちゃんにメチャメチャ会いたいよ。でも、会っちゃいけないってことはわかってるの。札幌に帰っちゃったら、七海は絶対に会ってしまうから」
「七海……」
「この家にいて、みんなに優しくされて、なんとなくわかったような気がするんだ。もっと自分を大切にしないといけないってことが。せっかく慎ちゃんが立ち直れそうなチャンスをくれたから、、多分、そんなひとは七海の前に二度と現れてくれないような気がするんだ。だから……」
「そ、そうか、良かったよ。無責任にこんなところまで連れてきて後悔してたんだ。何もしてやれないのに偉そうなことばかり言って、本当にごめん」
「なんで謝るの? 慎ちゃんは七海のことを本気で心配してくれたのに。そんなひと今まで一人もいなかったから、七海すごく嬉しかったんだ」
厳しい環境で育ってきた娘だということは、今までの経緯で大体わかる。だけど、心配してくれるひとが一人もいなかったなんて……
世の中には、そんな孤独に耐えている人が沢山いるのかもしれない。
「七海、今までよく頑張って生きてきたな。本当におまえを尊敬するよ。これからは絶対にいいこと沢山あるから。七海さえその気になれば、きっと……」
僕は感動してしまって、思わず涙ぐんでいた。
「うわーっ、慎ちゃん、もしかして泣いてる ⁉︎ マジで? うははっ、やばーっ、七海まで泣きたくなっちゃうじゃん」
七海は本当にもらい泣きしそうになって、目に涙をためた。
「七海、この家を出たくなったらいつでも連絡して。迎えに来るよ。立ち直るのは簡単じゃないけど諦めるなよ。七海はまだ二十歳なんだからな」
「うん、そうしてみる。しばらくこの家に居させてもらってバイトしながら勉強もしてみる。七海、なにか資格を取りたいんだ」
破天荒には見えていても頼れる身内のない七海は、精神的には僕以上に自立していると思う。
「わかった。出来る限り協力するよ、七海がちゃんと自立できるまで。仕事を辞めた僕がいうのもなんだけど……」
「あ、でも慎ちゃん、ここの整骨院を継ぐんでしょ? 七海がここに住んでたら、奥さんとまたケンカになっちゃわない?」
「沙織は多分、函館には来ないと思う。もし来たとしても、僕たちは同居しないから七海は気にしなくていいよ」
「わかった。……奥さんにあんなこと言っちゃってごめんね」
「いいよ、誤解はいつか解けるだろう」
そう言って、七海の頭にポンと手をおいた。
……本当にそんな日が来るだろうか。
母と七海に見送られて僕はまた札幌へ向かった。
沙織は僕と会ってくれるだろうか。
ネットカフェには足が向かず、破れかぶれの気持ちで自宅マンションの駐車場に車を停めた。
沙織の勤務は一昨日が夜勤で昨日が夜勤明けだから、今日は休みだったかもしれない。
玄関のブザーを押した方がいいのかどうか一瞬迷ったが、どこまでもバカな事をしている気がして自分で鍵をまわした。
リビングのドアをそっと開け、オドオドと顔を出す。
「あ、あの、ただいま」
リビングに沙織はいなくて、部屋はシーンと静まりかえっていた。
なんだ……
じゃあ、今日は日勤だったのか。
買い物にでも行っているのかも知れない。
ほっとした気分でソファにドサリと腰を下ろした。
リビングの掛時計を見ると、夕方の五時半だった。
料理は得意とは言えないけれど、こんな日こそ、なにか作って待っていれば、沙織の機嫌も少しは直りそうな気がした。
冷蔵庫を開けてみる。
解凍をすれば肉も魚もあるし、野菜室も充実していた。
だけど、僕の作れるメニューって……
干し魚なら味付けも何もいらないと思い、冷凍されたシシャモのパックを取り出した。
焼けばいいだけだし、焦げないように注意するだけだから簡単だろう。
ガスのグリルは使ったことがなかったので、オーブントースターのほうが手っ取り早いと思い、網にシシャモを並べた。
何分焼くのかわからないので、まず五分だけタイマーをまわした。
なんだ、料理なんて案外簡単なものだ。
タイマーが鳴り、トースターを開けてみると、凍ったままのシシャモはまだ焼けていなかった。
さらに五分加熱するも、少しも焼けておらず、また五分追加して焼く。
解凍してから焼くべきだったと後悔してもすでに遅く、何度か繰り返し焼いているうちに、部屋中に魚の焦げ臭い匂いが充満した。
どうも今ひとつの焼け具合だけれど、こんなものかと思い、一匹つまんで食べてみると生焼けで、中がグジュグジュしていた。
これを一体どうしたものか……
皿に盛りつけたシシャモを見つめ、考え込んでいたら、玄関の鍵のまわる音がした。
あ、やばい、沙織が帰ってきた!!
シシャモを盛り付けた皿を持って右往左往していたら、リビングのドアが開いた。
「わっ、な、なによ、この匂い!!」
沙織は入ってくるなり、吐き気をもよおしたのか、口元をおさえた。
「あ、ご、ごめん、魚を焼いてたんだけど、ちょっと失敗して、、」
「ゴホッ、ゴホ、なに、この煙、換気扇をまわさなかったの?」
沙織は煙を払いのけるように、大きく手をバタつかせた。
「オーブントースターで焼いたんだ。でも、失敗しちゃって」
「何ですって?」
目を丸くして驚いた沙織はキッチンへ行き、オーブントースターの蓋を開けた。
「どうして、こんな真似をしたのよっ! これはパンを焼くためのものでしょう。魚の匂いでパンが焼けなくなったじゃないの!!」
これは評判のオーブントースターで、短時間でパンが、こんがりしっとり焼ける高価なものだった。
「ごめん、知らなかったものだから。それとこのシシャモなま焼けなんだけど、どうしたらいいかな?」
「知らないわよっ、一人で食べなさいよ! 大体どうして帰ってきたの? ヤンキー娘にも飽きられてしまったってわけ?」
間抜け面して、いつまでもなま焼けのシシャモを持っているのも情けなく、とりあえずキッチンへ置いた。
「沙織、信じてもらえないかもしれないけど、あの子とはそんな関係じゃないんだ。本当だよ。だけど、僕たち結局もう無理だろう? 僕は病院を辞めるつもりだし、沙織は函館には来てくれないだろう?」
「そうね、散財ばかりする浮気な夫なんかいないほうがマシよ」
取り乱すこともなく、落ち着いて話す沙織にひどくショックを受ける。
離婚を切り出したのは、僕のほうからだというのに……
「う、うん、わかった。本当に僕が悪かったよ。沙織の好きなようにしていいから」
離婚したくないと、わざわざ函館まで来てくれたのではなかったのか。
この間は目にいっぱい涙をためて、僕を見つめてくれたというのに。
今日の沙織はなぜだかとても冷静だった。
もう、すっかり僕に冷めてしまったんだな。
「でも、ひとつだけお願いがあるの」
沙織は少し恥ずかしげにうつむいて言った。
「えっ?」
「さっきね、病院へ行ってきたんだけど、……妊娠していたの。今一ヶ月よ。私、この子を産むわ。だから、養育費をお願いします」
誇らしげに沙織はにっこり笑って、まっすぐに僕を見つめた。
「な、なんだって? に、妊娠!!」
***
☆読者の皆様☆
長いシリーズを読んで下さり、ありがとうございます。
突然ですが、「雪華 snow crystal 6」に移ります。
今後ともよろしくお願いいたします。
なごみ
応援ありがとうございます!
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