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7 金色のプリズム
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朝からの曇天に念のために持ってきた傘が役に立った。喫茶アンダンテ。先輩との待ち合わせに指定されたのはここのようだ。どうやら最近のお気に入りのお店らしい。そういえば三年前までは毎日ここら辺まで通勤してたけど、この店は知らなかった。気づかないものは見えないのだろう。
傘をパンパンと開閉し水滴をふるい落とし、ネームバンドで留める。店の傘立てにはすでに二本の傘が入っていた。空いている場所に傘を差し込み、店のドアを押し開ける。
お店のマスターに待ち合わせであることを告げると、
「木下さんとのお待ち合わせですね。どうぞこちらへ亅
と奥のカウンター席へ通された。と、その時。ボックス席から、
「あれ?兄ちゃん!どうしたの?亅
「おう。慶次郎こそ。びっくりしたなぁ。」
「じゃあ。外の傘は慶次郎のだったのかぁ。」
「及川ちゃん。俺のことわかる?亅
と、慶次郎の向かいに座っていた男性が声をかけてきた。ん?この頭は見覚えがあるぞ。
「あっ!じょうたろうだね!いや、もう承太郎くんの方がいいよね。夏目承太郎くんだよね?」
「正~解~。久しぶり。及川ちゃん。」
「承太郎くん。元気にしてた?」
「まぁ。ぼちぼちだね。今日この後東京に行こうと思って。またがんばってみようって。」
「うん。うん。そうだね。承太郎くんなら大丈夫。」
「またまた。相変わらず無責任だなぁ。及川ちゃんは~。まぁ。でも及川ちゃんにもらった言葉で俺またやってみるよ。」
ん?なんかあげたっけか?返す言葉を探していると、
「まぁ。いいよ。それより、及川ちゃん学校の先生やめちゃったんだって?なんでよ?」
と、話題が切り替わった。
「あぁ。それはね、‥」
慶次郎が奥に詰めてスペースをあけてくれたのでボックス席に座らせてもらい、続けた。この話は自分から進んですることは一度もなかった。でも、今日は不思議と聞いてもらいたかった。あの日もこんなしとしとした雨が降っていたからかもしれないし、承太郎くんを担任してた頃の自分を思い出したからかもしれない。
「当時の僕は陸上部の顧問をしてて、まぁ陸上種目なんて分からない、素人だから、顧問と言っても名前だけだけどね。」
承太郎くんは笑いながら、
「俺らの時はギターとベースの違いもわからないのに軽音部の顧問だったしね。」
と相槌を打ってくれた。
「一ノ瀬志乃さんっていう長距離走の選手がいたんだけど。真面目で一生懸命に練習に取り組む選手で。練習しすぎてたんだよね。高校最後の大会に向けて、エースの子に喰らい付いて練習していて。雨で転倒して故障しちゃったんだよね。それが大会の直前だったんだ。」
「でもそれは兄ちゃんの所為じゃないじゃん。」
慶次郎は珈琲を飲みながら、口を尖らせて言った。
「一ノ瀬さんも一ノ瀬さんの保護者の方も他の先生もそのようにおっしゃってくれたけど。僕はそんな風に思えなくて。あの日練習を中止してれば、練習のしすぎに注意を促していれば、ってね。エースの子も一緒に練習してたからその子も気にしておちこんでしまってね。」
「何もできない、できなかった自分が教壇にたっていいのか。悩んで教職を辞したんだよ。まぁ。今も大学の先輩に声をかけてもらって、似たような仕事をしているんだけどね。」
「先生。」
承太郎くんは改まって僕の目をまっすぐ見て言った。
「大丈夫だよ。その子たちも。先生も。きっと大丈夫だよ。」
「うん。ありがとう。」
教え子の気持ちが嬉しかった。教え子の真っ直ぐな言葉が心のしこりを砕き溶かしていく。胸と目頭があたたかくなる。
気づくと先輩が来ていた。慶次郎と承太郎くんに断ってから、カウンターの方へ移動した。
「すいません。いつからいましたか?」
「キョウイチがあの子たちと話してた時から。いいよ。こっちもマスターと話してたから。」
「感じいいだろ?この店。この前はここでさおりの写真の鑑賞会をしたんだよ。」
さおりさん。結婚式で一度お目にかかっただけだけど笑顔が素敵な方だった。
「あっ。そうだ。今日来てもらったのはこれを見てもらいたかったからなんだ。」
先輩から示されたのは塾の講師陣がコーチングやメンターの講習を受け受験指導に生かすという企画書だった。
一度、教職から離れた自分は果たして、教育界に戻ってくる資格があったのだろうか。思い悩む日が続いている。僕には誰かを導き支える資質があるのだろうか。今もわからない。でも・・。
「先輩。これやりましょう。僕たちは生徒に何がしてあげられるのでしょう。わからないけど、できることはやりたいです。それでは今日は個人指導が四時からなので、そろそろ教室に戻ります。」
「そうだな。ありがとう。君の意見を聞いておきたかった。俺はもう少しここで珈琲を飲んでいくよ。」
店を出るといつの間に雨は止んでいた。四本になった傘立てから自分の傘を抜き取り、段差を一歩降りると、左手から来る男女のランナーが見えた。道を開けると、女性から急に声をかけられた。
「あれ?先生?及川ちゃん?ねぇ及川ちゃんでしょ?亅
びっくりした。久しく呼ばれていない及川ちゃんという呼び名なのに今日に限って二回目。目と口が開いてしまった。
「私。覚えてます?香奈です。西宮香奈。陸上部の。亅
もちろん覚えている。今は弾むような呼吸と上気した頬であるが、あの時小雨の中で彼女の怯えるように祈る手と悲しく震える小さな肩は、今でもはっきり目に焼きついている。と同時に自分の無力さまで思い出す。
「及川ちゃん。私やっぱり走るの好きだから。だから志乃の分まで走るよ。」
「うん。そうだね。・・・。」
あとは言葉にならなかった。
「じぁ。話せてよかったよ。じゃあね。及川ちゃん。亅
そういうと西宮さんは一つにまとめた髪を左右に揺らしながら走って行った。隣で静かに聞いていたのは確か五十嵐奏多くんだったかな?頭を下げて彼女を追いかけて行った。
彼女は走り出したんだな。よかった。ありがとう。
雨が空気を洗い流し、涼やかな青が空を制覇する。一本の飛行機雲が青を縦断し、やがてうすく青に溶けていく。軒先に滴る雨水は太陽のプリズムとなり、金色がきらめく。いや、太陽の光が雨水にあたり金色に見えたのか?うん。どちらでもよい。金色の未来で輝く方に一歩ずつ一歩ずつ進めば。
傘をパンパンと開閉し水滴をふるい落とし、ネームバンドで留める。店の傘立てにはすでに二本の傘が入っていた。空いている場所に傘を差し込み、店のドアを押し開ける。
お店のマスターに待ち合わせであることを告げると、
「木下さんとのお待ち合わせですね。どうぞこちらへ亅
と奥のカウンター席へ通された。と、その時。ボックス席から、
「あれ?兄ちゃん!どうしたの?亅
「おう。慶次郎こそ。びっくりしたなぁ。」
「じゃあ。外の傘は慶次郎のだったのかぁ。」
「及川ちゃん。俺のことわかる?亅
と、慶次郎の向かいに座っていた男性が声をかけてきた。ん?この頭は見覚えがあるぞ。
「あっ!じょうたろうだね!いや、もう承太郎くんの方がいいよね。夏目承太郎くんだよね?」
「正~解~。久しぶり。及川ちゃん。」
「承太郎くん。元気にしてた?」
「まぁ。ぼちぼちだね。今日この後東京に行こうと思って。またがんばってみようって。」
「うん。うん。そうだね。承太郎くんなら大丈夫。」
「またまた。相変わらず無責任だなぁ。及川ちゃんは~。まぁ。でも及川ちゃんにもらった言葉で俺またやってみるよ。」
ん?なんかあげたっけか?返す言葉を探していると、
「まぁ。いいよ。それより、及川ちゃん学校の先生やめちゃったんだって?なんでよ?」
と、話題が切り替わった。
「あぁ。それはね、‥」
慶次郎が奥に詰めてスペースをあけてくれたのでボックス席に座らせてもらい、続けた。この話は自分から進んですることは一度もなかった。でも、今日は不思議と聞いてもらいたかった。あの日もこんなしとしとした雨が降っていたからかもしれないし、承太郎くんを担任してた頃の自分を思い出したからかもしれない。
「当時の僕は陸上部の顧問をしてて、まぁ陸上種目なんて分からない、素人だから、顧問と言っても名前だけだけどね。」
承太郎くんは笑いながら、
「俺らの時はギターとベースの違いもわからないのに軽音部の顧問だったしね。」
と相槌を打ってくれた。
「一ノ瀬志乃さんっていう長距離走の選手がいたんだけど。真面目で一生懸命に練習に取り組む選手で。練習しすぎてたんだよね。高校最後の大会に向けて、エースの子に喰らい付いて練習していて。雨で転倒して故障しちゃったんだよね。それが大会の直前だったんだ。」
「でもそれは兄ちゃんの所為じゃないじゃん。」
慶次郎は珈琲を飲みながら、口を尖らせて言った。
「一ノ瀬さんも一ノ瀬さんの保護者の方も他の先生もそのようにおっしゃってくれたけど。僕はそんな風に思えなくて。あの日練習を中止してれば、練習のしすぎに注意を促していれば、ってね。エースの子も一緒に練習してたからその子も気にしておちこんでしまってね。」
「何もできない、できなかった自分が教壇にたっていいのか。悩んで教職を辞したんだよ。まぁ。今も大学の先輩に声をかけてもらって、似たような仕事をしているんだけどね。」
「先生。」
承太郎くんは改まって僕の目をまっすぐ見て言った。
「大丈夫だよ。その子たちも。先生も。きっと大丈夫だよ。」
「うん。ありがとう。」
教え子の気持ちが嬉しかった。教え子の真っ直ぐな言葉が心のしこりを砕き溶かしていく。胸と目頭があたたかくなる。
気づくと先輩が来ていた。慶次郎と承太郎くんに断ってから、カウンターの方へ移動した。
「すいません。いつからいましたか?」
「キョウイチがあの子たちと話してた時から。いいよ。こっちもマスターと話してたから。」
「感じいいだろ?この店。この前はここでさおりの写真の鑑賞会をしたんだよ。」
さおりさん。結婚式で一度お目にかかっただけだけど笑顔が素敵な方だった。
「あっ。そうだ。今日来てもらったのはこれを見てもらいたかったからなんだ。」
先輩から示されたのは塾の講師陣がコーチングやメンターの講習を受け受験指導に生かすという企画書だった。
一度、教職から離れた自分は果たして、教育界に戻ってくる資格があったのだろうか。思い悩む日が続いている。僕には誰かを導き支える資質があるのだろうか。今もわからない。でも・・。
「先輩。これやりましょう。僕たちは生徒に何がしてあげられるのでしょう。わからないけど、できることはやりたいです。それでは今日は個人指導が四時からなので、そろそろ教室に戻ります。」
「そうだな。ありがとう。君の意見を聞いておきたかった。俺はもう少しここで珈琲を飲んでいくよ。」
店を出るといつの間に雨は止んでいた。四本になった傘立てから自分の傘を抜き取り、段差を一歩降りると、左手から来る男女のランナーが見えた。道を開けると、女性から急に声をかけられた。
「あれ?先生?及川ちゃん?ねぇ及川ちゃんでしょ?亅
びっくりした。久しく呼ばれていない及川ちゃんという呼び名なのに今日に限って二回目。目と口が開いてしまった。
「私。覚えてます?香奈です。西宮香奈。陸上部の。亅
もちろん覚えている。今は弾むような呼吸と上気した頬であるが、あの時小雨の中で彼女の怯えるように祈る手と悲しく震える小さな肩は、今でもはっきり目に焼きついている。と同時に自分の無力さまで思い出す。
「及川ちゃん。私やっぱり走るの好きだから。だから志乃の分まで走るよ。」
「うん。そうだね。・・・。」
あとは言葉にならなかった。
「じぁ。話せてよかったよ。じゃあね。及川ちゃん。亅
そういうと西宮さんは一つにまとめた髪を左右に揺らしながら走って行った。隣で静かに聞いていたのは確か五十嵐奏多くんだったかな?頭を下げて彼女を追いかけて行った。
彼女は走り出したんだな。よかった。ありがとう。
雨が空気を洗い流し、涼やかな青が空を制覇する。一本の飛行機雲が青を縦断し、やがてうすく青に溶けていく。軒先に滴る雨水は太陽のプリズムとなり、金色がきらめく。いや、太陽の光が雨水にあたり金色に見えたのか?うん。どちらでもよい。金色の未来で輝く方に一歩ずつ一歩ずつ進めば。
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