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1章

10話--帰省と信頼--

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 あの後は――何事もなかったかのように、ただ「いつもの夜」を過ごした。

 家に戻ると、案の定というべきか、沙耶が頬をぷくっと膨らませて玄関で待ち構えていた。

「遅い」

 その一言に、若干の怒りと、同じくらいの心配が混ざっているのが分かる。
 コンビニであった出来事を全部話すわけにもいかないので、適当に誤魔化しながらスイカバーを渡して機嫌を取る。
 甘いアイスと、妹の単純さに救われながら、二人でだらだらとテレビを流し見して、その後は歯を磨いて、そのまま眠りについた。

 ――そして今。

 私は、母さんのところ――実家に帰る準備をしていた。

 日付が変わった瞬間、空気が変わった。
 回帰前には決して感じることのなかった、濃密な“何か”が世界を満たす感覚。
 肺に入るたび、皮膚を撫でるたび、じわりじわりと全身がざわめく。

 魔力だ。

 目に見えないそれが、空気中に溢れかえったのを、否応なく理解させられる。

 日本で一番最初に観測されたダンジョンのゲートは、確か渋谷と大阪の梅田だった……はずだ。
 そう記憶していたのだけれど――。

『回答します。一番最初に出現したゲートは東京23区内に埋設された下水道に存在します』

「なんだって……?」

 思わず、トイレの中で天井を見上げてしまう。

 下水道ダンジョン。
 回帰前、そこは「ゴブリンが出現する持続型ダンジョン」として知られていた。

 都心がゴブリンで溢れ返り、大量の死者が出て、世界にダンジョンの存在が脅威として認識された――あの凄惨なダンジョンブレイク。

 ゴブリンが溢れた当時は、どこから湧いてきたのか誰にも分かっていなかった。
 けれど実際には、人目に付かない下水道の奥で、ひっそりと口を開いていたというわけだ。
 持続型ダンジョンのブレイクは非常に緩やかでモンスターがダンジョンから出てくるペースが低い。複数回のダンジョンブレイクを経て地上へゴブリンが溢れ出した……?
 だから渋谷のゲートより先にできていたけど表面化したのは後だった、ということか……。

 私は便座に座ったまま、知らず知らずのうちに肘を膝に乗せ、顎に手を当てて、あの光景を思い浮かべてしまっていた。

「お姉ちゃーん、トイレまだー?」

 ドアの向こうから、沙耶の声が飛んでくる。

 ……危ない。
 このままいくと、本当に「考える人」をトイレで再現するところだった。

 後始末をして水を流し、ダンジョンのことは一旦心の引き出しにしまって、目の前の現実――帰省の準備に意識を戻す。

「やっと出てきた。トイレで考え事はダメだって昨日も言ったじゃん」

「ごめんごめん、気を付けるよ」

 昨日も同じように注意されたのを、綺麗さっぱり忘れていた自分に小さくため息が出る。
 入れ替わりで沙耶がトイレに滑り込んでいくのを見送り、私は寝間着から運動着へと着替える。

 既に、どこかでゲートが現れている。
 つまり、いつどこでモンスターと鉢合わせてもおかしくない、ということだ。

 軽装でもいいが、丸腰は避けたい。
 ウエストポーチを取り出し、中にキャンプ用品店で買った金属製のペグを数本忍ばせる。

 本来はテントを地面に固定するための道具。
 だが、鋭い先端と適度な重さがあり、【剣術】のスキルが「剣」と認識してくれさえすれば、投擲武器としてはかなり優秀な代物になるはずだ。

 片手で握りやすく、投げやすく、回収も容易。
 手数を稼ぐには、悪くない選択肢だ。

 トイレから出てきた沙耶は、もう旅支度万端といった様子で、大きめのリュックサックを背負ったまま玄関の方へ小走りで向かっていく。

 実家は長野。
 高速道路を使っても、車で三時間ほどかかる距離だ。

 今は昼過ぎ。
 渋滞さえなければ、夕方には着けるだろう。帰省シーズンでもないし、そこまで混む要素もない。

 ポーチ以外の荷物を後部座席に積み込み、運転席に座る。

「沙耶、ちゃんとシートベルト締めてね」

「はーい」

 カチリとシートベルトの音が鳴る。
 ミラーの角度を微調整し、ハンドルに手を置く。

 ――久しぶりの長距離運転だ。
 意識を引き締めておかないと、本当に事故になりかねない。

 エンジンをかけて、アクセルを踏む。
 アスファルトの振動が足元に伝わり、車はゆっくりと、そして徐々に加速していった。

 ◇ ◇ ◇

 高速道路を走りながら、私たちは他愛もない話をしていた。

 沙耶のクラスのこと。
 最近ハマっているゲームの話。
 母さんから押しつけられた野菜セットの愚痴。

 BGM代わりに付けていたラジオは、流行りの音楽やトーク番組を適当に流していたはずなのに――途中から、急にトーンの違う声が割り込んできた。

「速報です。長野県〇▲市在住の夫婦が遺体で発見されました。遺体には数十か所に及ぶ刺傷と殴打の痕があり、警察は殺人事件として捜査本部を設置しました。現場の状況から犯人はまだ近くに潜伏している可能性が高く、近隣住民に注意を呼びかけています」

 ……実家のある市だ。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
 ハンドルを握る手に、自然と力が入った。

 横を見ると、沙耶もすぐに気づいたようで、不安げな顔をこちらに向けていた。

「ねぇ、お姉ちゃん……お母さん、大丈夫かな……?」

「母さんなら大丈夫だと思うけど……ごめん、ちょっと飛ばすね」

 口ではそう言いながら、頭の中では最悪のケースを次々とシミュレーションしてしまう。
 ダンジョンの件もある。
 嫌な予感が、ひたひたと背中を撫でるように迫ってくる。

 アクセルを深く踏み込み、制限速度ギリギリ――いや、ややオーバー気味の速度で、最短ルートを駆け抜ける。

 ◇ ◇ ◇

 実家のある街に着いたときには、太陽は傾き始め、空は橙と紫が混じったような夕焼け色に染まり始めていた。

 田舎と呼ばれる地域らしく、家と家の間隔は広く、空が大きい。
 遠くの山の稜線が、夕日に縁取られてくっきりと浮かび上がっている。

 見慣れたはずの景色なのに、どこか心許ない。
 早く、母さんの顔を見ないと――そんな焦りだけが、胸の内側をせき立てる。

 実家の前の駐車スペースに車を停め、エンジンを切る。
 シートベルトを外した瞬間、耳に飛び込んできたのは――。

「きゃぁっ!? なっ、何よあんた達!!」

「お母さんっ!」

「沙耶は車の中に居て!」

 叫ぶより早く、身体が動いていた。

 右手に鉄パイプ。
 左手に、ポーチから抜き取ったペグを二本。 

 ドアを乱暴に開けて地面に飛び降り、母さんの悲鳴が聞こえた方向へ全力で駆ける。

 ――庭の方か!

 家の横手を回り込み、庭に通じる通路を抜けると、そこで目にしたのは、あまりにも見慣れた“異常”だった。

 深い緑色の皮膚。
 じとりと濁った黄色い目。
 歪んだ牙を剥き出しにし、人間の武器――包丁を構えた母さんを取り囲む、小柄な異形の生物。

 ゴブリンだ。三匹。

 母さんは、震える手で包丁を握り、必死に距離を取ろうとしているが、じりじりと間合いを詰めてくるゴブリンたちの勢いを止めるには心許ない。

「母さん!! 伏せて!!」

 叫ぶと同時に、母さんが私に気づいて身を伏せる。
 ゴブリンたちが一斉にこちらに顔を向けた、その瞬間――。

 私は左手のペグを一本、振りかぶりも最小限のモーションで投げつけた。

 空気を裂く音と共に、ペグが一本、ゴブリンの頭蓋を正確に貫く。
 ほぼ同時に、一歩で距離を詰めて、右手の鉄パイプを横薙ぎに振り抜いた。

 鈍く重い音と共に、頭の中身が弾け飛ぶ感触が、手首に伝わる。
 投げたペグで一匹、鉄パイプで一匹。残りの一匹も、軌道上にいた頭部をかすめて吹き飛び、そのまま地面に転がって動かなくなった。

 伏せている母さんの前に立ち、視界にゴブリンが残っていないかを確認してから、息を整えつつ問いかける。

「母さん、大丈夫? 怪我はない?」

「あきちゃん……? 東京のお仕事はどうしたの!?」

「こんな時ぐらいは自分の心配してよ……」

 相変わらずというべきか――開口一番に心配するのが私の仕事というあたり、らしいと言えばらしい。

 仕事は有休で休みだと簡単に伝え、正面から母さんの様子を確認する。
 ぱっと見では大きな怪我はないが、油断は禁物だ。

 だが、その前にやることがある。

 ダンジョンの外でゴブリンが行動する時は、必ずと言っていいほど、四匹一組で動いている。
 三匹が表に出て、残りの一匹は少し離れた茂みや陰に潜み、周囲を警戒する役割だ。

 目に見える個体を倒した瞬間に安心していると、その“頭のいい一匹”に背後をすくわれる――そんなケースを、私は嫌というほど見てきた。

 もし、全員まとめて倒せそうにないとリーダー格が判断した場合は、無理に戦わずにやり過ごし、ダンジョンに帰還して情報を持ち帰る。
 そうして人間の行動パターンを学んでいき、群れごと厄介になっていくのだ。

 ……何故、もうこんなタイミングでゴブリンが地上に出てきているのか。
 その疑問はひとまず脇に置き、意識を集中して周囲の気配を探る。

 ――居た。

 庭の隅、茂みの奥。
 微かに、抑え込まれた呼吸音が聞こえる。

「そこっ!」

 残ったペグを投げる。
 葉を裂く音の後、肉に突き立つ鈍い音と、苦しげな呻き声。

 まだ生きている。
 追い打ちをかけるべく、茂みに向かって踏み込む。

 こちらの気配に気づいてか、ゴブリンが血を噴きながら飛び出してきた。
 その頭上へ向けて鉄パイプを振り下ろし、地面ごと叩きつける。
 潰れた頭に鉄パイプを突き刺し、動かなくなるまで押し込んでから、ようやく息を吐いた。

 ゴブリンが二チームで連携している可能性もゼロではないが、その場合でも片方が全滅した時点で、もう片方は撤退するのが常だ。
 今のところ、周囲に新たな気配はない。

 念のため庭の隅々まで目を配り、物陰や車の下、家の周囲を一通り確認してから、車へ戻る。

 後部座席のドアを開けて、沙耶を引っ張り出し、キャンプ用の小さな斧を握らせる。

「沙耶、この斧持って、母さんのところに行って。絶対に手から離さないで」

 使えるとは思っていない。
 だが、人間が武器を持っているというだけで、モンスターは一段階警戒心を上げる。

 彼女にとってはお守りでも、ゴブリンからすれば威嚇になる。

 沙耶を家の中へ送り出した後、改めて家の周りを一周し、隠れられそうな場所を全て確認する。

 ……よし。周囲にゴブリンはいない。

 安心と同時に、緊張の糸を少しだけ緩めて、私も家の中へ入る。

 畳の部屋では、沙耶が倒れている母さんの肩を揺さぶりながら、必死に呼びかけていた。

「お母さん! お母さん!! ねぇ、どうしたの!?」

「沙耶、何があったか話せる?」

「分かんない……お姉ちゃんに言われた通りに家に入って、お母さんと話してたら急に倒れて……」

 母さんの呼吸は浅く、汗で額が濡れている。
 唇は不気味なほどに紫色に変色していた。

 ――この色は、見覚えがある。

 ゴブリンの毒。

 そう考えた瞬間、嫌な予感が確信に変わっていく。

『回答します。これはゴブリンが人間を狩るときに用いる生成された猛毒です。中毒症状のフェーズ1のため現時点から8時間以内に解毒しないと命はありません』

 【全知】が、いつもの無機質な声で告げる。

 母さんのズボンの裾をめくると、小さな切り傷が見えた。
 薄くにじんだ血の周囲が、じわじわと赤黒く染まっている。

 ……ゴブリンの爪か、短剣か。
 あの三匹を倒した時点で、母さんの体を隅々まで確認しておくべきだった。

 毒が血液に溶けて全身を巡る前に、傷口から吸い出していれば――少なくともここまで症状が進行することはなかったはずだ。

 私の落ち度だ。

「沙耶。冷たい水に濡らしたタオルと、保冷剤とかで大きな血管が通ってるところを冷やして」

「わっ、わかった。持ってくる!」

 沙耶が慌てて台所に駆けていく。
 私は母さんの手を握りしめながら、心の中で【全知】に問いかけた。

「……【全知】。この周囲にゲートは出現してるのか」

『回答します。現在地より北西に2km進んだ森の中に出現している魔力の流れを感じます』

「それ以外は?」

『回答します。その場所以外のゲートは50km圏内には存在しません』

 北西に二キロ。
 そこからゴブリンたちがやってきた、と考えるのが自然だ。

 ゴブリンのダンジョンであれば、宝箱には必ず解毒薬が入っている。
 私はそれを知っている。
 ――回帰する前に、何度も潜ったダンジョンだからだ。

 母さんを救うためには、そこへ行って、解毒薬を持ち帰るしかない。

「持ってきたよ!」

「ありがとう。私は母さんを布団に運ぶから看病をお願い」

「うん……」

 沙耶から濡れタオルを受け取り、まずは母さんの額や首筋、脇の下を冷やすよう指示する。
 その後、母さんを抱き上げて、いつも寝ているであろう畳の部屋へ運んだ。

 押し入れから布団を引きずり出し、急いで敷いて、その上に母さんを寝かせる。
 苦しそうにうめく声が、胸に刺さる。

 ……時間がない。

「沙耶、私が戻ってくるまで……母さんを頼んだよ」

「私……信じてる。お姉ちゃんの事……。でも、戻ってきたら……説明してほしい、かな……」

 沙耶が、今にも泣き出しそうな顔で私を見上げた。

 この短時間で、彼女なりに何かを察しているのだろう。
 ゴブリン。毒。私の戦い方。
 普通の「お姉ちゃん」ではない何かを。

「わかった、説明するよ」

 頭を撫でると、沙耶の肩が小さく震えた。
 抱き寄せて、背中をゆっくりと擦りながら、言葉を選ぶ余裕もなく、ただ一つだけを伝える。

「大丈夫。すぐ、戻るから」

 顔は見えない。
 けれど、ぐす、と鼻を啜る音で、彼女が泣きそうになっていることだけは分かる。

 申し訳なさと、焦りと、守りたいという想いがごちゃ混ぜになって、胸の奥がきしむ。

 けれど、今は立ち止まっている暇はない。

 沙耶をそっと離し、振り返らずに廊下を歩いて玄関へ向かう。

「――私、待ってるから……お姉ちゃん」

 背中に届いたその声は、震えながらも、しっかりとした芯を持っていた。

 だから私は、振り返らない。
 振り返ってしまったら、足が止まってしまいそうだから。

 玄関の扉に手をかけ、深く息を吸い込む。

 ――行ってくるよ、母さん。
 ――待っていてくれ、沙耶。

 そう心の中で呟いて、私はドアを開け放った。
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