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第1章 決定打
第2話 違和感
朝の廊下は、夜よりも冷たい気がする。
石の床に残った冷えがそのまま足に伝わってきて、窓から入る光も、暖かいというよりはただ明るいだけだった。
いつもと同じ時間に起きて、同じように支度をしているのに、どこか噛み合っていない感じがする。
鏡の前に座っているあいだ、昨夜の言葉がうまく離れてくれなかった。
代わりはいくらでもいる。
思い出そうとしているわけではないのに、ふとした拍子に浮かんでくる。
それが何なのか、まだうまく名前をつけられないまま、ただそこにある。
髪を整えていたマルティナが、鏡越しに一瞬こちらを見た。
何か言いかけたようにも見えたけれど、すぐにいつもの手つきに戻る。
「本日は、厨房の仕入れ確認がございます。そのあと、シュトラール子爵夫人へのお返事を」
少しだけ慎重な言い方だった。
「仕入れを先に見ましょう」
そう言うと、彼女は小さくうなずいた。
それ以上は何も言わない。
朝食の席に夫の姿はなかった。
執務室で食事を取ると聞かされて、そうですかとだけ返す。
それで足りる気がした。
ひとりで座る食卓は、いつもより広く見えた。
皿の位置も、銀器の並びも変わっていないはずなのに、どこか距離がある。
パンをちぎりながら、特に考えもなく手を動かす。
味は分かるし、温度も分かるのに、少しだけ遠い。
そこへ、執事のベルナールが入ってきた。
「奥様、本日午後のグランツ商会との打ち合わせですが、時間を早めたいとの連絡がございました」
「理由は?」
「北側倉庫の件で、出立前に確認したいことがあるそうです」
カップを置く。
音は静かだった。
「では、早めましょう。部屋の準備も」
「承知いたしました」
ベルナールは一礼してから、少しだけ動きを止めた。
「……昨日の件、厨房にも多少伝わっているようです」
視線は上げないまま続ける。
「ご指示があれば、こちらで対応いたしますが」
何を、とは言わない。
それでも、何のことかは分かる。
少しだけ考えてから、首を振った。
「いいえ、そのままで」
「承知いたしました」
それ以上は何も言わずに、彼は下がった。
厨房では、料理長が帳面を広げて待っていた。
普段より声が控えめだったのは、気のせいではないと思う。
「この肉、少し脂が多いですね」
箱の中を見ながら言うと、料理長がすぐに頷く。
「ええ、俺も気になってました」
「納品は変わっていないのに」
「途中の扱いが雑か、足元を見られてるか」
どちらとも言えないが、どちらでも困る。
「次は半分に減らして、別を当たりましょう」
「分かりました」
それだけで話は終わる。
厨房の空気は、いつもどおりに戻ったように見えた。
書き物部屋に戻ると、机の上に手紙が並んでいる。
その中に、シュトラール子爵夫人からの招待状があった。
封はすでに切ってある。
もう一度読むまでもなく、内容は頭に入っている。
春の茶会。
形式としては、ただそれだけだ。
ペンを手に取ろうとして、少しだけ止まる。
行くかどうかは、まだ決めていない。
決めていないというより、今は考えたくない、に近いのかもしれない。
ノックの音がした。
「奥様、グランツ商会の方がお見えです」
マルティナの声だった。
「応接室へ?」
「はい。それと……旦那様も同席なさるそうです」
そう、とだけ返す。
立ち上がると、机の上の招待状が視界の端に残る。
そのままにして、部屋を出た。
廊下を歩きながら、窓の外に目をやる。
空はよく晴れている。
明るいのに、あまり暖かくはない。
応接室の前にはベルナールが立っていた。
私を見ると、いつもどおり一礼する。
「帳面は机上に」
それだけ、静かに告げる。
「ありがとう」
扉が開く。
中から、夫の声が聞こえた。
昨夜と変わらない調子で、何かを話している。
私はそのまま、中へ入った。
石の床に残った冷えがそのまま足に伝わってきて、窓から入る光も、暖かいというよりはただ明るいだけだった。
いつもと同じ時間に起きて、同じように支度をしているのに、どこか噛み合っていない感じがする。
鏡の前に座っているあいだ、昨夜の言葉がうまく離れてくれなかった。
代わりはいくらでもいる。
思い出そうとしているわけではないのに、ふとした拍子に浮かんでくる。
それが何なのか、まだうまく名前をつけられないまま、ただそこにある。
髪を整えていたマルティナが、鏡越しに一瞬こちらを見た。
何か言いかけたようにも見えたけれど、すぐにいつもの手つきに戻る。
「本日は、厨房の仕入れ確認がございます。そのあと、シュトラール子爵夫人へのお返事を」
少しだけ慎重な言い方だった。
「仕入れを先に見ましょう」
そう言うと、彼女は小さくうなずいた。
それ以上は何も言わない。
朝食の席に夫の姿はなかった。
執務室で食事を取ると聞かされて、そうですかとだけ返す。
それで足りる気がした。
ひとりで座る食卓は、いつもより広く見えた。
皿の位置も、銀器の並びも変わっていないはずなのに、どこか距離がある。
パンをちぎりながら、特に考えもなく手を動かす。
味は分かるし、温度も分かるのに、少しだけ遠い。
そこへ、執事のベルナールが入ってきた。
「奥様、本日午後のグランツ商会との打ち合わせですが、時間を早めたいとの連絡がございました」
「理由は?」
「北側倉庫の件で、出立前に確認したいことがあるそうです」
カップを置く。
音は静かだった。
「では、早めましょう。部屋の準備も」
「承知いたしました」
ベルナールは一礼してから、少しだけ動きを止めた。
「……昨日の件、厨房にも多少伝わっているようです」
視線は上げないまま続ける。
「ご指示があれば、こちらで対応いたしますが」
何を、とは言わない。
それでも、何のことかは分かる。
少しだけ考えてから、首を振った。
「いいえ、そのままで」
「承知いたしました」
それ以上は何も言わずに、彼は下がった。
厨房では、料理長が帳面を広げて待っていた。
普段より声が控えめだったのは、気のせいではないと思う。
「この肉、少し脂が多いですね」
箱の中を見ながら言うと、料理長がすぐに頷く。
「ええ、俺も気になってました」
「納品は変わっていないのに」
「途中の扱いが雑か、足元を見られてるか」
どちらとも言えないが、どちらでも困る。
「次は半分に減らして、別を当たりましょう」
「分かりました」
それだけで話は終わる。
厨房の空気は、いつもどおりに戻ったように見えた。
書き物部屋に戻ると、机の上に手紙が並んでいる。
その中に、シュトラール子爵夫人からの招待状があった。
封はすでに切ってある。
もう一度読むまでもなく、内容は頭に入っている。
春の茶会。
形式としては、ただそれだけだ。
ペンを手に取ろうとして、少しだけ止まる。
行くかどうかは、まだ決めていない。
決めていないというより、今は考えたくない、に近いのかもしれない。
ノックの音がした。
「奥様、グランツ商会の方がお見えです」
マルティナの声だった。
「応接室へ?」
「はい。それと……旦那様も同席なさるそうです」
そう、とだけ返す。
立ち上がると、机の上の招待状が視界の端に残る。
そのままにして、部屋を出た。
廊下を歩きながら、窓の外に目をやる。
空はよく晴れている。
明るいのに、あまり暖かくはない。
応接室の前にはベルナールが立っていた。
私を見ると、いつもどおり一礼する。
「帳面は机上に」
それだけ、静かに告げる。
「ありがとう」
扉が開く。
中から、夫の声が聞こえた。
昨夜と変わらない調子で、何かを話している。
私はそのまま、中へ入った。
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