「代わりはいくらでもいる」と言われたので、私は消えました。——お茶会ばかりしていた私が何をしていたのか、ご存じないようで

藤原遊

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第2章 静かな撤退

第5話 変化

次に手を離したのは、ハーグレン侯爵家への訪問だった。

断るほどのことではないし、返事そのものも失礼のない形には整えた。ただ、日取りだけは決めなかった。春になれば、また近いうちに。そう書いてしまえば、それ以上踏み込まずに済む。便利な言い方だと思う。曖昧で、けれど無責任に見えない程度にはきちんとしている。

その返書を出した翌日、侯爵家からはすぐに返事が来た。

丁寧な筆跡で、体調が整い次第、あらためてゆっくり話したいとある。急がせる文面ではない。むしろ、こちらの都合を尊重するような書き方だった。けれど、そのやさしさが今は少しだけ困る。

私は手紙を読み終えてから、机の上に置いた。

窓の外では、朝の庭に薄い陽が落ちている。明るいのに風はまだ冷たく、窓枠のあたりだけ空気が少し白い。春は近づいているのだろうが、まだそこまで来てはいない感じがする。その中途半端さが、今の自分には妙にしっくりきた。

ノックのあと、マルティナが盆を持って入ってくる。

「お茶をお持ちしました」

「ありがとう」

カップを受け取ると、湯気がふわりと上がった。香りはいつものものだ。けれど、少し前までなら、その日の気分に合わせて茶葉を変えていたはずなのに、最近はそういうことを言わなくなっていると、ふと気づく。

マルティナは机の上の手紙をちらりと見た。

「ハーグレン侯爵家からでございますか」

「ええ」

「お変わりなかったようで、よろしゅうございました」

私はうなずくだけにした。

それで会話は終わるはずだったが、彼女は珍しくその場に残った。

「奥様、来週の贈答品の件ですが」

「なにかしら」

「侯爵家へお送りする花を、例年どおり白薔薇でよろしいでしょうか」

私は少し考えた。

例年どおりなら、それでいい。ハーグレン侯爵夫人は白を好むし、季節のはしりの枝物を少し添えるとまとまりもいい。それは分かっている。分かっているのに、すぐには言葉が出てこなかった。

「……いいえ、まだ待って」

マルティナが顔を上げる。

「待つ、でございますか」

「急がなくていいわ。送る日が決まってからで」

「かしこまりました」

彼女はすぐに引いたが、その返事はいつもより少し静かだった。

贈答品というのは不思議なもので、渡すものそのものより、いつ送るか、誰の手を通すか、どんな名目を添えるかのほうがずっと大事だったりする。祝いにも見舞いにもならない半端なものは、かえって相手を困らせることがある。だから私はそこを外さないようにしてきたし、今までは迷うこともなかった。

けれど今は、その“今まで”をそのままなぞる気になれない。

湯気の立つカップを見ながら、私はしばらく何も言わなかった。

昼前、ドレス商の使いが再び来た。

来月の夜会用の生地を、今日ならほかの注文より先に回せるという話だった。いつもなら断る理由はない。むしろ早めに決めたほうが仕立ても楽になる。けれど私は、ベルナールを通じて、今は見送るとだけ返した。

そのあとで、少しだけ可笑しくなる。

夜会も茶会も、侯爵家への訪問も、どれもこれも、ひとつ断ったからといってすぐにどうなるものでもない。それなのに、わざわざ見送ると口に出している自分が、ずいぶん丁寧に遠ざかっているようにも見えた。

午後、帳面を持って書き物部屋へ戻ると、もう一通、新しい書状が届いていた。

封蝋を見て、少しだけ手が止まる。
ソルフェール男爵家。軍務に関わる家だ。

男爵夫人のミリアムとは、茶会で何度か顔を合わせている。口数の多い人ではないが、必要なことだけをよく覚えている。去年、輸送の護衛の件で少し相談に乗ったことがあり、そのあとから時折、向こうからも情報が届くようになった。

封を切る。

春の行軍演習に伴い、街道の一部で荷の流れが乱れるかもしれない。詳細はまだ表に出ていないが、奥様には先に、と短く書かれていた。

私は読み終えてから、紙を置いた。

こういう知らせは、いつもならすぐに意味を考える。どこの商会に影響が出るか、どの家が先に動くか、今のうちにどこへ声をかけておくべきか。そういうことが、自然に頭の中に並んでいく。並んでいくはずなのに、今日はその先へ進みたくなかった。

進めば、また同じように調整し、段取りし、誰かの都合を見ながら道を作ることになる。それ自体が嫌なわけではない。ただ、今その流れに戻ると、何かが曖昧になりそうだった。

私は便箋を引き寄せ、礼だけを書いた。

知らせてくださったことへの感謝と、どうかご無理のないようにという、やわらかい言葉だけ。演習の件にも、街道のことにも、踏み込まない。書き終えて読み返すと、ひどく無難な文面だった。たぶんミリアムなら、それを見て何か思うだろう。けれど、そう思われることも含めて、今はそのままでいい気がした。

手紙を封じていると、ベルナールが入ってくる。

「奥様、失礼いたします。商会の納入一覧をお持ちしました」

「ありがとう」

受け取って目を通す。いつもなら私が先に確認する部分だ。春先に向けて品目が増える時期なので、どの納入先を残し、どこを減らすかは早めに見ておいたほうがいい。

一覧の中に、レヴェル商会の名があった。

私はそこを指先で押さえたまま、少し黙る。

ベルナールは何も言わない。言わないが、待っている気配はあった。

「……今月は、このままで」

ようやくそう言うと、彼は短くうなずいた。

「来月分の調整は」

「まだいいわ」

「承知いたしました」

それだけで終わった。けれど、もしこれが少し前なら、私はたぶん、もう少し細かく指示を出していたはずだった。どこを減らし、どこを残し、誰に先に声をかけるか。いくつかの商会の顔が頭に浮かぶ。それでも口にしなかった。

ベルナールが去ったあと、私は一覧を閉じた。

決めていないことが、少しずつ増えている。
そのこと自体は、別に誰にも咎められない。けれど、自分の中では妙に目につく。

夕方になると、廊下の向こうから笑い声が聞こえてきた。

若い侍女たちが、花瓶を運びながら何か話しているらしい。すぐに声は小さくなったが、その一瞬だけ、屋敷の中にいつもの軽さが戻ったような気がした。

私は部屋の扉を少しだけ開ける。

ちょうど廊下を通りかかったマルティナが、私に気づいて立ち止まった。

「どうかなさいましたか」

「いいえ。……花は届いたのね」

「はい。玄関広間と客間に」

私はうなずく。

春の花は、まだ少し早いものが多い。色だけが先に季節を連れてくる。そういうところも嫌いではなかった。

「奥様」

マルティナが、ためらうように声を落とす。

「本日のソルフェール男爵家へのお返事、先ほど出してまいりました」

「そう」

「とても丁寧なお手紙だと、使いの方が」

私は小さく息をついた。

丁寧。たしかにそうだろう。丁寧に書いたし、どこから見ても失礼はない。けれど、それだけだった。

「ありがとう」

そう言うと、マルティナは一礼する。
それ以上は何も言わず、静かに下がっていった。

部屋へ戻り、窓辺に立つ。

空は薄く曇っていて、庭の輪郭が少しやわらいで見えた。遠くの木立の向こうに、まだ明るさが残っている。夜になるには少し早い、その半端な時間だった。

机の上には、返した手紙と、まだ返していない手紙が並んでいる。
返したものも、これまでとは少し違う返し方ばかりだった。

私はその中の一通に触れる。
紙は冷たくも温かくもなく、ただ静かだった。
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