「代わりはいくらでもいる」と言われたので、私は消えました。——お茶会ばかりしていた私が何をしていたのか、ご存じないようで

藤原遊

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第3章 崩壊の兆し

第9話 不和

エリシアからの手紙が届いたのは、昼前のことだった。

執務室の机に置かれた封を見て、アルノーは一度だけ眉をひそめる。見慣れた筆跡で、封のしかたも崩れがない。急ぎとも私信とも言い切れない、その曖昧さがわずかに気にかかった。

「奥様からでございます」

ベルナールの声はいつもどおり静かだった。

アルノーは封を切り、中身を広げる。文面は短い。しばらく実家に滞在すること、必要な私物を送ってほしいこと、屋敷のことは通常どおり回してほしいこと。それだけだった。

戻る日付は書かれていない。

紙を持ったまま視線を落とす。帰省は聞いている。数日留まるのも不自然ではない。それでも、読み終えてすぐに手を離す気にはならなかった。

「必要な私物、とは」

「衣類と手回りの品が中心かと存じます。侍女に確認させます」

「好きにさせておけ」

ベルナールは一礼するが、その場に残る。

「レヴェル商会から、再度使いが参っております。茶葉の件と春の取引について、一度ご相談したいと」

アルノーは手紙を畳みながら、わずかに顔をしかめた。

「まだその話か。茶葉のことなら使用人に任せればいい」

「先方は奥様とお話しする前提で準備を進めていたようです」

「だから何だ」

声が少し硬くなる。

ベルナールは表情を変えない。

「納入先の調整にも関わるため、一度は返答が必要かと」

アルノーは椅子にもたれ、窓の外へ目をやった。中庭の枝はまだ裸のままで、日差しだけが妙に明るい。

エリシアがそういう話をしていたことは知っている。商会だの茶会だの、夫人同士のつながりだの。だが、それが条件の芯に触れるとは考えていなかった。

「来週にでも時間を取ると伝えろ」

「承知いたしました」

ベルナールが下がりかけたところで、別のノックが入る。会計係が帳面を抱えて入ってきた。

「旦那様、グランツ商会の件で」

「何だ」

「北側倉庫の契約ですが、本日中の返答を求められております」

「本日中?」

「はい。最終確認まで済んでいる前提で話が進んでいたようで……」

アルノーはベルナールを見る。

「奥様が同席なさる予定で、輸送と人員の調整を後日詰める形になっておりました」

アルノーは机を指で軽く叩いた。

「私が同席しただろう」

「はい。ただ、その部分が未確定のままです」

「で、何が問題だ」

会計係が帳面を開く。

「この条件ですと、こちらの護衛では足りない可能性がありまして、先方は自前で手配する案も出しております」

「それで?」

「輸送条件が変わるため、納入価格の見直しを求められております。例年より、条件が一段下がります」

アルノーは目を細めた。

春先の契約で取り分が落ちるのは面白くない。倉庫が一つ増えるだけでも、その後の流れは変わる。それをここで削られるのは気分が悪かった。

「護衛はこっちで手配する。先方にはそう伝えろ」

会計係は一瞬ためらう。

「どちらへお声がけするかを決めませんと」

「騎士団に話を通せばいい」

ベルナールが静かに口を挟む。

「春先は人員がかなり埋まっております。例年は奥様が、ソルフェール男爵家などと事前に調整を」

アルノーは顔を上げた。

「エリシアがいないと進まないと言いたいのか」

「そのようには申しません。ただ、話が通っている先がございます」

空気がわずかに固くなる。

アルノーは手紙を机の端へ置いた。

「……ソルフェール男爵家には書状を出せ。護衛の件だけだ」

「承知いたしました」

会計係が下がり、ベルナールも退室する。

部屋が静かになる。

アルノーは机の上の手紙をもう一度見る。整った文字で、余計なことは何も書かれていない。その整い方が、妙に引っかかった。

「通常どおりに回せ」と書いてある。

なら回せばいい。

そう思い、別の書類へ手を伸ばす。

だが午後には、さらに報告が入った。

納入係が、茶葉の件でレヴェル商会が一部保留を申し出てきたという。

「保留?」

「品質確認という名目です。ただ、時期をずらしたいと」

「他で手配しろ」

納入係は少し言いにくそうに続ける。

「今回、贈答品の取りまとめも含まれておりまして」

アルノーは言葉を切った。

贈答。祝い、見舞い、返礼。季節の変わり目には増えるが、流れが決まっていれば迷うものではないはずだった。

「一覧はどうなっている」

「奥様が例年作っておられますが、今年分は途中で止まっております」

アルノーは眉間を押さえる。

途中まで。

その言葉で、机の上の細かな空白がいくつか浮かび上がる。返事をしていない相手、保留のままの話、決めきれていない順番。どれも小さいが、手を取られる。

「去年のものを流用しろ」

「侯爵家の順番を調整なさっていたかと」

「……後で見る」

納入係が下がる。

アルノーは椅子の背にもたれた。

やることが増えたわけではない。元からあったものが、表に出てきただけだ。そう考えれば済む話のはずなのに、どうにも収まりが悪い。

夕方、ベルナールが戻る。

「ソルフェール男爵家ですが、本日中の返答は難しいとのことです」

「代わりを当たれ」

「費用がかさみます」

一つ進めるたびに、別の条件が付いてくる。

「グランツ商会には明日まで待たせろ」

「承知いたしました」

ベルナールは一礼し、机の端に一瞬だけ視線をやった。そこにはエリシアの手紙がある。

アルノーはそれに気づきながら、何も言わなかった。

夜になるころには、机の上の書類が朝より増えていた。

どれもすぐに片づくはずのものだ。それでも、ひとつずつ手を取られる。

そのとき、控えめなノックがした。

入ってきたのはマルティナだった。

「奥様のご指示で、お衣類などをまとめました。明日の朝、実家へ送ります」

「好きにしろ」

書類から目を離さずに答える。

「かしこまりました」

一礼して下がる。

扉が閉まったあと、アルノーはようやく顔を上げた。

しばらく戻らないつもりなのか、と一瞬だけ考える。

すぐに打ち消す。数日の帰省だ。

それでも、机の端に置かれた短い手紙を、もう一度だけ見た。
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