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第6章 断絶
第26話 反省
実家を辞したあと、帰りの馬車の中でアルノーは一度も窓の外を見なかった。
見ても何も変わらないと分かっていたし、景色に意識を向けたところで、胸の内のざらつきが薄れる気もしなかった。膝の上には手袋を置いたままで、指先だけが時折その革を押さえる。力を入れているつもりはないのに、戻るころには少し皺が寄っていた。
屋敷へ着いたのは、すでに夜だった。
出迎えの足音、扉の開く音、廊下に落ちる灯り。どれも見慣れたもののはずなのに、今日はひどくよそよそしい。自分の家へ戻ったというより、整えられた箱の中へ入っていくような感覚があった。
執務室へ入ると、ベルナールがすでに待っていた。
「ご夕食のご用意を」
「要らない」
答えは短く切れた。
ベルナールはそれ以上勧めず、一礼して脇へ下がる。その気遣いがありがたいとも、今は思えなかった。
アルノーは机の前まで行き、椅子へ腰を下ろす。目の前には、朝からの書類が整えられたまま残っていた。倉庫の件、納入の件、返礼の件。ついこの前までは、それらが屋敷を回すための重みだったはずなのに、今は紙の束としてしか見えない。
視線を落としたまま、アルノーは言った。
「ルシアンは」
「呼べばすぐに参ります」
「呼べ」
ほどなくしてルシアンが入ってくる。顔を見ただけで、実家で何があったかを問わないところが、この男らしかった。
「明日、もう一度使いを出す」
アルノーは机の上の何もない場所を見ながら言う。
「エリシアに」
ルシアンは一瞬だけ目を上げたが、驚いた様子は見せない。
「書面で、でございますか」
「……いや」
そこですぐに言葉が詰まる。
書面で何を伝える。
戻れと言うのか。
会いたいとだけ書くのか。
それとも、公国の書状について説明を求めるのか。
どれも違う気がした。違うというより、それだけを切り出せば、薄くなるのが分かる。
「使いだけ先に出せ」
結局そう言うと、ルシアンは静かに頷いた。
「面会の打診を」
「そうだ」
「いつのご希望で」
アルノーは答えずに少し考えた。急げば急ぐほど、こちらの焦りを見せるだけになる気がした。だからといって間を置けば、また遅れる。その加減すら、今はうまく測れない。
「先方の都合に合わせる」
口にしたあとで、それが自分の立場を少し下げる言い方だと分かった。だが、いまさらそこに拘る意味も薄い。
ルシアンは何も言わずに控えたまま立っている。
アルノーはそこでようやく顔を上げた。
「……離縁状も用意しろ」
室内の空気が、わずかに止まる。
ベルナールもルシアンも、表情は動かさない。それでも、何を意味する指示かくらいは当然分かっている。
最初に口を開いたのはベルナールだった。
「正式な書式で、でございますか」
「ほかに何がある」
返しは荒くなったが、すぐに自分で気づく。怒鳴りたいわけではない。ただ、その言葉を他人の口から確認されるだけで、妙に息苦しい。
「承知いたしました」
ベルナールが下がる。
ルシアンだけがその場に残り、静かに問う。
「お渡しになる前提で」
アルノーは椅子の背にもたれた。
「持って行かなければ話にもならないだろう」
それは半分、本心だった。
エリシアはもう、待つ側ではない。会うかどうかを決めるのも、話をどこまで受けるかを決めるのも向こうだ。その相手に、何の形も持たずに出向けば、ただ感情だけを持ち込むことになる。それでは駄目だと、さすがに分かる。
「分かったような顔をするな」
ふいにそう言うと、ルシアンは一度だけ目を伏せた。
「そのつもりはございません」
それだけで会話は終わる。
ルシアンが出ていくと、執務室の中は急に広くなったように感じられた。
アルノーは机の引き出しを開け、小さな帳面を取り出す。開く必要はない。答えがそこにないことは、もう分かっている。それでも、手元に置いておきたかった。
しばらくして、ベルナールが戻ってきた。
手には数枚の便箋と、離縁状の下書きがある。
「こちらへ」
アルノーは紙を受け取るが、すぐには目を通さない。離縁状という文字の並びそのものに、まだ現実味がなかった。
だが、公国からの書状よりは、よほど手触りがある。
「文面は必要最低限にしております」
ベルナールが静かに言う。
「体面を保つ形で」
「……そうか」
アルノーはようやく紙に目を落とした。
無駄のない文だ。互いの合意により、穏便に、体面を損なわぬよう。どこにも感情はない。だからこそ、そこへ自分の気持ちを差し挟む余地もない。
結婚を勧めた母がもういないことだけが救いのように思えた。
「手紙も、書かれますか」
その問いには、すぐに答えられなかった。
書くべきだとは思う。
だが、何を書く。
謝罪か。
面会の願いか。
それとも、遅かったということを自分で認める文か。
どれも、書こうとすれば一行目で止まりそうだった。
「便箋だけ置いておけ」
そう言うと、ベルナールは静かに頷き、机の端へ白い紙を揃える。
白いままの便箋が、燭台の下で妙に明るく見えた。
「旦那様」
ベルナールが、珍しく少しだけ間を置いてから続ける。
「何をお持ちになっても、言葉そのものは旦那様のお考えでなければ意味がないかと」
アルノーは視線を上げた。
それは慰めでも助言でもない。ただの事実として置かれた言葉だった。
「分かっている」
そう返したが、実際には半分ほどしか分かっていなかった。
形は整えられる。離縁状も、面会の打診も、使いも、馬車の手配も。そういう準備なら、今までいくらでもしてきたし、ベルナールたちがいれば明日までには整う。
だが、その先で何を言うのかだけが、まだ空白のままだった。
夜は思っていたよりも長く続いた。
書類は片づけた。使いの手配も済ませた。離縁状も封へ入れられる形にまでなった。それでも便箋だけは白いままだった。
燭台の火が小さくなり、部屋の端から順に影が深くなる。
アルノーは最後まで机を離れられなかった。
言葉が見つからないというより、どの言葉も今さらすぎる気がした。
待たせた時間の長さを、追わなかった日々を、公国からの書状が届くまで動かなかった自分を、一枚の手紙で埋められるはずがない。
それでも、何も持たずに会うことはできない。
ようやく立ち上がったとき、窓の外は夜更けの色になっていた。
机の上には、封じられた離縁状と、書けなかった便箋だけが残っている。
アルノーはしばらくそれを見下ろし、それから手を伸ばして、白い紙を一枚だけ折った。
何も書かれていないその紙は、驚くほど軽かった。
けれど、いまの自分が持てるものも、たぶんその程度なのだろうと思えた。
見ても何も変わらないと分かっていたし、景色に意識を向けたところで、胸の内のざらつきが薄れる気もしなかった。膝の上には手袋を置いたままで、指先だけが時折その革を押さえる。力を入れているつもりはないのに、戻るころには少し皺が寄っていた。
屋敷へ着いたのは、すでに夜だった。
出迎えの足音、扉の開く音、廊下に落ちる灯り。どれも見慣れたもののはずなのに、今日はひどくよそよそしい。自分の家へ戻ったというより、整えられた箱の中へ入っていくような感覚があった。
執務室へ入ると、ベルナールがすでに待っていた。
「ご夕食のご用意を」
「要らない」
答えは短く切れた。
ベルナールはそれ以上勧めず、一礼して脇へ下がる。その気遣いがありがたいとも、今は思えなかった。
アルノーは机の前まで行き、椅子へ腰を下ろす。目の前には、朝からの書類が整えられたまま残っていた。倉庫の件、納入の件、返礼の件。ついこの前までは、それらが屋敷を回すための重みだったはずなのに、今は紙の束としてしか見えない。
視線を落としたまま、アルノーは言った。
「ルシアンは」
「呼べばすぐに参ります」
「呼べ」
ほどなくしてルシアンが入ってくる。顔を見ただけで、実家で何があったかを問わないところが、この男らしかった。
「明日、もう一度使いを出す」
アルノーは机の上の何もない場所を見ながら言う。
「エリシアに」
ルシアンは一瞬だけ目を上げたが、驚いた様子は見せない。
「書面で、でございますか」
「……いや」
そこですぐに言葉が詰まる。
書面で何を伝える。
戻れと言うのか。
会いたいとだけ書くのか。
それとも、公国の書状について説明を求めるのか。
どれも違う気がした。違うというより、それだけを切り出せば、薄くなるのが分かる。
「使いだけ先に出せ」
結局そう言うと、ルシアンは静かに頷いた。
「面会の打診を」
「そうだ」
「いつのご希望で」
アルノーは答えずに少し考えた。急げば急ぐほど、こちらの焦りを見せるだけになる気がした。だからといって間を置けば、また遅れる。その加減すら、今はうまく測れない。
「先方の都合に合わせる」
口にしたあとで、それが自分の立場を少し下げる言い方だと分かった。だが、いまさらそこに拘る意味も薄い。
ルシアンは何も言わずに控えたまま立っている。
アルノーはそこでようやく顔を上げた。
「……離縁状も用意しろ」
室内の空気が、わずかに止まる。
ベルナールもルシアンも、表情は動かさない。それでも、何を意味する指示かくらいは当然分かっている。
最初に口を開いたのはベルナールだった。
「正式な書式で、でございますか」
「ほかに何がある」
返しは荒くなったが、すぐに自分で気づく。怒鳴りたいわけではない。ただ、その言葉を他人の口から確認されるだけで、妙に息苦しい。
「承知いたしました」
ベルナールが下がる。
ルシアンだけがその場に残り、静かに問う。
「お渡しになる前提で」
アルノーは椅子の背にもたれた。
「持って行かなければ話にもならないだろう」
それは半分、本心だった。
エリシアはもう、待つ側ではない。会うかどうかを決めるのも、話をどこまで受けるかを決めるのも向こうだ。その相手に、何の形も持たずに出向けば、ただ感情だけを持ち込むことになる。それでは駄目だと、さすがに分かる。
「分かったような顔をするな」
ふいにそう言うと、ルシアンは一度だけ目を伏せた。
「そのつもりはございません」
それだけで会話は終わる。
ルシアンが出ていくと、執務室の中は急に広くなったように感じられた。
アルノーは机の引き出しを開け、小さな帳面を取り出す。開く必要はない。答えがそこにないことは、もう分かっている。それでも、手元に置いておきたかった。
しばらくして、ベルナールが戻ってきた。
手には数枚の便箋と、離縁状の下書きがある。
「こちらへ」
アルノーは紙を受け取るが、すぐには目を通さない。離縁状という文字の並びそのものに、まだ現実味がなかった。
だが、公国からの書状よりは、よほど手触りがある。
「文面は必要最低限にしております」
ベルナールが静かに言う。
「体面を保つ形で」
「……そうか」
アルノーはようやく紙に目を落とした。
無駄のない文だ。互いの合意により、穏便に、体面を損なわぬよう。どこにも感情はない。だからこそ、そこへ自分の気持ちを差し挟む余地もない。
結婚を勧めた母がもういないことだけが救いのように思えた。
「手紙も、書かれますか」
その問いには、すぐに答えられなかった。
書くべきだとは思う。
だが、何を書く。
謝罪か。
面会の願いか。
それとも、遅かったということを自分で認める文か。
どれも、書こうとすれば一行目で止まりそうだった。
「便箋だけ置いておけ」
そう言うと、ベルナールは静かに頷き、机の端へ白い紙を揃える。
白いままの便箋が、燭台の下で妙に明るく見えた。
「旦那様」
ベルナールが、珍しく少しだけ間を置いてから続ける。
「何をお持ちになっても、言葉そのものは旦那様のお考えでなければ意味がないかと」
アルノーは視線を上げた。
それは慰めでも助言でもない。ただの事実として置かれた言葉だった。
「分かっている」
そう返したが、実際には半分ほどしか分かっていなかった。
形は整えられる。離縁状も、面会の打診も、使いも、馬車の手配も。そういう準備なら、今までいくらでもしてきたし、ベルナールたちがいれば明日までには整う。
だが、その先で何を言うのかだけが、まだ空白のままだった。
夜は思っていたよりも長く続いた。
書類は片づけた。使いの手配も済ませた。離縁状も封へ入れられる形にまでなった。それでも便箋だけは白いままだった。
燭台の火が小さくなり、部屋の端から順に影が深くなる。
アルノーは最後まで机を離れられなかった。
言葉が見つからないというより、どの言葉も今さらすぎる気がした。
待たせた時間の長さを、追わなかった日々を、公国からの書状が届くまで動かなかった自分を、一枚の手紙で埋められるはずがない。
それでも、何も持たずに会うことはできない。
ようやく立ち上がったとき、窓の外は夜更けの色になっていた。
机の上には、封じられた離縁状と、書けなかった便箋だけが残っている。
アルノーはしばらくそれを見下ろし、それから手を伸ばして、白い紙を一枚だけ折った。
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