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第20話|通告
私は夫を執務室へ呼んだ。
屋敷の奥にあるその部屋は、昼でも少し薄暗い。分厚い帳簿と地図に囲まれた空間で、私はこれまで何度も家の運営を整えてきた。今日整えるのは、別のものだ。
「改まって何だ」
夫は椅子に腰を下ろしながら言う。
私は立ったまま告げた。
「離縁いたします」
笑いかけた口元が止まり、やがて消える。
「……本気か」
「本気です」
間を置かない。
「あなたは公に、跡取りを考え直すと仰いました」
「軽口だ」
「当主の軽口で、屋敷は揺れます」
私は静かに続ける。
「愛人の子が本邸に出入りしている」
夫の視線がわずかに動く。
「離れではなく本邸。教育係もつき、食卓にも同席する。あれを客人扱いとお考えなら、屋敷の者の目を甘く見すぎています」
沈黙が落ちる。
私は言葉を重ねる。
「愛人を本邸に迎える準備も進んでおりますね。部屋の改装、侍女の配置換え。屋敷の采配は私の役目です。知らぬはずがありません」
夫は苛立ったように言う。
「それがどうした」
「暗黙の了解があるということです」
私はようやく一歩踏み出す。
「あなたは既に、愛人の子を後継候補として扱っている。だから本邸に入れる」
否定は来ない。
「他を置くのであれば、契約通り、ルイは侯爵家へ戻します」
夫が立ち上がる。
「ルイは嫡子だ」
「嫡子が“比較される立場”にある時点で、安定はありません」
私は声を荒げない。
「あなたが揺らがぬと示す前に、揺らぐ可能性を示したのです」
机を叩く音が響く。
「私は廃すると言ったわけではない!」
「選び直すと仰った」
事実だけを返す。
私は続ける。
「私は侯爵家の一人娘です。本来ならば侯爵家の跡取りでした」
夫の目が細くなる。
「公爵家が望んだ。王家の血を取り込むために。だから私は嫁いだ。その代わりに交わした契約がある。“公爵家の跡継ぎ以外は侯爵家へ戻す”」
言葉は淡々としている。
だが、逃げ道はない。
「あなたが他を選ぶ可能性を公に示した以上、私は契約を履行するだけです」
夫は初めて黙り込む。
怒りではなく、計算の顔だ。
何を失うのか、今さら数え始めている。
「慰謝料は求めません。持参金も置いて参ります。公爵家の体面も守ります」
「なぜそこまで——」
「私は家を壊しに来たのではありません」
静かに言う。
「私の子を、揺らぐ地位から下ろすだけです」
長い沈黙。
空気が重い。
ようやく夫が言う。
「……本当に出ていくのか」
「はい」
「後悔するぞ」
私はわずかに首を傾ける。
「後悔は、揺らいだ側がするものです」
初めて、夫の呼吸が乱れた。
私は一礼する。
「正式な手続きは追ってお伝えいたします」
扉へ向かう。
背後から、遅れて声が落ちる。
「待て」
私は振り返らない。
揺らいだのは跡取りだけではない。
家そのものだ。
その音を背に、私は執務室を後にした。
屋敷の奥にあるその部屋は、昼でも少し薄暗い。分厚い帳簿と地図に囲まれた空間で、私はこれまで何度も家の運営を整えてきた。今日整えるのは、別のものだ。
「改まって何だ」
夫は椅子に腰を下ろしながら言う。
私は立ったまま告げた。
「離縁いたします」
笑いかけた口元が止まり、やがて消える。
「……本気か」
「本気です」
間を置かない。
「あなたは公に、跡取りを考え直すと仰いました」
「軽口だ」
「当主の軽口で、屋敷は揺れます」
私は静かに続ける。
「愛人の子が本邸に出入りしている」
夫の視線がわずかに動く。
「離れではなく本邸。教育係もつき、食卓にも同席する。あれを客人扱いとお考えなら、屋敷の者の目を甘く見すぎています」
沈黙が落ちる。
私は言葉を重ねる。
「愛人を本邸に迎える準備も進んでおりますね。部屋の改装、侍女の配置換え。屋敷の采配は私の役目です。知らぬはずがありません」
夫は苛立ったように言う。
「それがどうした」
「暗黙の了解があるということです」
私はようやく一歩踏み出す。
「あなたは既に、愛人の子を後継候補として扱っている。だから本邸に入れる」
否定は来ない。
「他を置くのであれば、契約通り、ルイは侯爵家へ戻します」
夫が立ち上がる。
「ルイは嫡子だ」
「嫡子が“比較される立場”にある時点で、安定はありません」
私は声を荒げない。
「あなたが揺らがぬと示す前に、揺らぐ可能性を示したのです」
机を叩く音が響く。
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「選び直すと仰った」
事実だけを返す。
私は続ける。
「私は侯爵家の一人娘です。本来ならば侯爵家の跡取りでした」
夫の目が細くなる。
「公爵家が望んだ。王家の血を取り込むために。だから私は嫁いだ。その代わりに交わした契約がある。“公爵家の跡継ぎ以外は侯爵家へ戻す”」
言葉は淡々としている。
だが、逃げ道はない。
「あなたが他を選ぶ可能性を公に示した以上、私は契約を履行するだけです」
夫は初めて黙り込む。
怒りではなく、計算の顔だ。
何を失うのか、今さら数え始めている。
「慰謝料は求めません。持参金も置いて参ります。公爵家の体面も守ります」
「なぜそこまで——」
「私は家を壊しに来たのではありません」
静かに言う。
「私の子を、揺らぐ地位から下ろすだけです」
長い沈黙。
空気が重い。
ようやく夫が言う。
「……本当に出ていくのか」
「はい」
「後悔するぞ」
私はわずかに首を傾ける。
「後悔は、揺らいだ側がするものです」
初めて、夫の呼吸が乱れた。
私は一礼する。
「正式な手続きは追ってお伝えいたします」
扉へ向かう。
背後から、遅れて声が落ちる。
「待て」
私は振り返らない。
揺らいだのは跡取りだけではない。
家そのものだ。
その音を背に、私は執務室を後にした。
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