私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません

藤原遊

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第22話|理屈

その日の午後、夫は再び私を執務室へ呼んだ。

今度は彼の領分だと言わんばかりに、机の上には書類が積まれている。家令も秘書官も下がらせ、扉を閉めた。

「昨夜は互いに冷静ではなかった」

第一声がそれだった。

私は否定も肯定もしない。ただ席に着き、夫の言葉を待つ。

「ルイの立場は守る。愛人の子は本邸に入れないようにする。必要なら教育係も変える」

並べられる“対策”。

夫はそれで話が収束すると思っている。

「それで十分だろう」

私は静かに息を吸う。

「十分ではございません」

夫が眉を寄せる。

「なぜだ。お前が懸念していた点は潰したはずだ」

「潰れておりません。形が残っています」

私は机の上の書類を見ない。夫の顔を見る。

「あなたは、他家の耳がある場で『跡取りを考え直す』と仰いました」

夫の目が細くなる。

「だから軽口だと言った」

「当主の言葉は軽くありません」

同じ言葉を繰り返すのは好きではないが、ここは譲れない。

「発言した時点で、周囲の認識は変わります。撤回しても『一度そう考えた』事実は残る。噂は“起点”を見つけた以上、勝手に伸びます」

夫は唇を噛む。

「それでもルイは嫡子だ」

「嫡子が“守られるべき立場”に落ちた時点で、既に不安定です」

夫が苛立って椅子を鳴らす。

「なら、どうしろと言う」

私はようやく話を“理屈”に移す。

「契約を履行いたします」

夫の眉がわずかに動く。

「……またそれか」

「はい。それです」

私は淡々と続ける。

「私は侯爵家の一人娘。侯爵家は本来、私を家に残すつもりでした」

夫は何も言わない。

言い返せないのだ。公爵家が望んで婚姻を結んだ事実を、夫自身が知っている。

「それでも嫁いだのは、公爵家の望みがあり、条件があり、双方が署名したからです」

私は机の端に視線を落とす。そこにあるのは、夫が“今さら”用意した書類だ。

「侯爵家が認めたのは、私が公爵夫人として職務を果たし、そして公爵家の跡継ぎを確実に立てること。その代わりとして、跡継ぎにならない子は侯爵家へ戻す」

夫が口を開く。

「だがルイは跡継ぎだ」

「あなたが“考え直すと仰らない”限りは、そうでした」

私はそこで一拍置いた。

「ですがあなたは、“考え直す”と仰った」

夫の表情が歪む。

「まだ決めていないと言い換えても意味は同じです。跡継ぎが確実ではないという宣言なのですから」

夫は机に指を打ちつける。

「お前は言葉尻を——」

「言葉尻ではございません。制度です」

私は静かに遮る。

「当主の言葉で家が動きます。家が動けば、社交が動きます。社交が動けば、評価が定まります。私はその流れを止められません」

夫は苛立ちを飲み込み、声を低くした。

「つまり、お前は最初からルイを侯爵家に連れていくつもりだったのか」

「違います」

即答する。

「私は“公爵家の跡継ぎが確実である限り”、この屋敷におりました」

そこは明確に言う。

「ですが、あなたが確実を壊した」

夫が言葉を失う。

私は続ける。

「愛人の子を本邸に入れることも、愛人を迎える準備も、それ自体が理由ではございません」

理由は別にある。

「それらが示すのは、あなたが別の未来を見ているということ。そして、それを隠していないということです」

夫の喉が鳴る。

「なら、どうする」

私は答える。

「私は侯爵家へ戻ります。ルイも戻します」

淡々とした結論。

夫が言う。

「そんなことをすれば、公爵家の面目が——」

「面目は守ります」

私は同じ言葉を繰り返した。

「余計な要求はいたしません。持参金も置いて参ります。あなたの体面も傷つけません」

夫は嘲るように笑う。

「随分と優しいな」

「優しさではありません」

私は微笑まない。

「私が壊したいのは公爵家ではなく、“揺らぐ立場に置かれる我が子の未来”です」

夫の沈黙が長くなる。

やがて彼は、理解したふりをして言った。

「わかった。では正式な手続きに入る前に、もう一度考え直す。跡継ぎの話も——」

私は首を横に振った。

「また、“考え直す”のですね」

夫の顔色が変わる。

私は静かに言う。

「その言葉が出る限り、確実は戻りません」

執務室の時計が、淡い音を刻む。

夫はようやく気づき始めている。

これは交渉ではない。

撤回で戻る話ではない。

自分の言葉が、自分の家を動かしてしまったのだと。
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