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第3話 理由
残された湯気が、二人の間にやわらかく漂う。
「今すぐ返事はいりません」
エルマが言った。
「けれど、もし本当に離縁されるなら、行き先の一つとして覚えておいてちょうだい。以前働いていたあなたも知っての通り、王城の仕事は楽ではないけれど、少なくとも、あなたの気遣いを当たり前の顔で受け取るだけの場所ではないわ」
その言葉に、私はしばらく何も返せなかった。
昨夜から、胸の中はひどく静かだった。傷ついていないわけではないのに、どこか冷えたまま、余計な感情が波立たない。けれど今、そこへほんの少しだけ、別の温度が差し込む。
失ったものばかりではないのかもしれない、と。
そんな考えが、はじめてよぎった。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、エルマはうなずいた。
「いいえ。礼を言うのは、こちらのほうよ」
王城を出るころには、日が少し傾きはじめていた。
帰り道、私は足を急がせなかった。石畳の先に伸びる影を見ながら、頭の中で静かに整理する。
離縁はまだ成立していない。
けれど、もう後戻りする気もない。
ロイドが望んだのは、仕事に集中するための整理された生活で、私はその中から外される側に回った。ただ、それだけのことだと思っていた。
けれど、私が外れることで空く場所は、思っていたより一つではなかったのかもしれない。
家へ戻ると、まだロイドは帰っていなかった。
私は朝のままになっていた書類を広げ、続きを書く。名前、日付、必要な確認事項。細かい文言に目を通しながら、昼間に聞いた言葉を思い返していた。
あなたの気遣いを当たり前の顔で受け取るだけの場所ではない。
その一文は、静かなのに、妙に残った。
やがて玄関の扉が開く音がする。
帰ってきたロイドはいつも通りの顔をしていたが、外套を外す手がわずかに雑だった。普段なら気にも留めないほどの差だ。けれど一度気づくと、目についてしまう。
「戻りました」
「おかえりなさい」
私は筆を置いた。
ロイドは卓上の書類に目をやる。
「進んでいるな」
「ええ。あなたが確認しやすいように、必要な箇所へ印をつけておきました」
「助かる」
また、その言葉だった。
けれど今度は、昨夜ほど胸に引っかからなかった。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。彼にとって私は、物事を滞りなく進めるための、都合のいい補助線のようなものだったのだろう。
「王城では、何かありましたか」
何気なくそう尋ねると、ロイドは一瞬だけ手を止めた。
「別に」
「そうですか」
「なぜそんなことを聞く」
「少しお疲れに見えたものですから」
ロイドは眉を寄せたが、すぐに興味をなくしたように椅子へ腰を下ろした。
「問題ない。気にするな」
私は小さくうなずいた。
もう気にするつもりはない。そう決めたはずなのに、その言い方に含まれる微かな苛立ちは、やはり普段どおりではなかった。
けれど、まだそれだけだ。
大きく崩れたわけではない。
何かを失ったと本人が理解しているわけでもない。
ただ、ほんの少し、噛み合いが鈍くなっただけ。
それでも、一度ずれた歯車は、放っておいて元に戻るものではない。
私は書類を閉じた。
明日には、これを正式な形に整えることになるだろう。そうすれば、私とロイドの関係は、名実ともに終わる。
その先で何が起きるのか、まだ私には分からない。
ただ一つだけ確かなのは、もう以前と同じように彼のために言葉を選び、抜けを埋め、誰かとの間を取り持つことはしないということだった。
それがどんな形で表に出るのかを、このときの私はまだ知らなかった。
「今すぐ返事はいりません」
エルマが言った。
「けれど、もし本当に離縁されるなら、行き先の一つとして覚えておいてちょうだい。以前働いていたあなたも知っての通り、王城の仕事は楽ではないけれど、少なくとも、あなたの気遣いを当たり前の顔で受け取るだけの場所ではないわ」
その言葉に、私はしばらく何も返せなかった。
昨夜から、胸の中はひどく静かだった。傷ついていないわけではないのに、どこか冷えたまま、余計な感情が波立たない。けれど今、そこへほんの少しだけ、別の温度が差し込む。
失ったものばかりではないのかもしれない、と。
そんな考えが、はじめてよぎった。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、エルマはうなずいた。
「いいえ。礼を言うのは、こちらのほうよ」
王城を出るころには、日が少し傾きはじめていた。
帰り道、私は足を急がせなかった。石畳の先に伸びる影を見ながら、頭の中で静かに整理する。
離縁はまだ成立していない。
けれど、もう後戻りする気もない。
ロイドが望んだのは、仕事に集中するための整理された生活で、私はその中から外される側に回った。ただ、それだけのことだと思っていた。
けれど、私が外れることで空く場所は、思っていたより一つではなかったのかもしれない。
家へ戻ると、まだロイドは帰っていなかった。
私は朝のままになっていた書類を広げ、続きを書く。名前、日付、必要な確認事項。細かい文言に目を通しながら、昼間に聞いた言葉を思い返していた。
あなたの気遣いを当たり前の顔で受け取るだけの場所ではない。
その一文は、静かなのに、妙に残った。
やがて玄関の扉が開く音がする。
帰ってきたロイドはいつも通りの顔をしていたが、外套を外す手がわずかに雑だった。普段なら気にも留めないほどの差だ。けれど一度気づくと、目についてしまう。
「戻りました」
「おかえりなさい」
私は筆を置いた。
ロイドは卓上の書類に目をやる。
「進んでいるな」
「ええ。あなたが確認しやすいように、必要な箇所へ印をつけておきました」
「助かる」
また、その言葉だった。
けれど今度は、昨夜ほど胸に引っかからなかった。ただ、そうなのだろうと思うだけだ。彼にとって私は、物事を滞りなく進めるための、都合のいい補助線のようなものだったのだろう。
「王城では、何かありましたか」
何気なくそう尋ねると、ロイドは一瞬だけ手を止めた。
「別に」
「そうですか」
「なぜそんなことを聞く」
「少しお疲れに見えたものですから」
ロイドは眉を寄せたが、すぐに興味をなくしたように椅子へ腰を下ろした。
「問題ない。気にするな」
私は小さくうなずいた。
もう気にするつもりはない。そう決めたはずなのに、その言い方に含まれる微かな苛立ちは、やはり普段どおりではなかった。
けれど、まだそれだけだ。
大きく崩れたわけではない。
何かを失ったと本人が理解しているわけでもない。
ただ、ほんの少し、噛み合いが鈍くなっただけ。
それでも、一度ずれた歯車は、放っておいて元に戻るものではない。
私は書類を閉じた。
明日には、これを正式な形に整えることになるだろう。そうすれば、私とロイドの関係は、名実ともに終わる。
その先で何が起きるのか、まだ私には分からない。
ただ一つだけ確かなのは、もう以前と同じように彼のために言葉を選び、抜けを埋め、誰かとの間を取り持つことはしないということだった。
それがどんな形で表に出るのかを、このときの私はまだ知らなかった。
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