白百合はまだ咲いている

藤原遊

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「あの夜のことは、忘れてはいけない」

わたくしは、その紙片を胸にしまいました。
その文字は、志乃さんの筆跡でした。
整っていて、端正で、まるで冷たい水面に映る月のような――そんな文字でした。
誰に宛てたのか、なぜ切り離されたまま残されていたのか。
わからないことばかり。
けれど、わたくしはその時、何か大きな扉が静かに開かれる音を、心の奥で聞いたような気がしたのです。



その夜の白百合の間は、少し寒くて、いやに静かでした。
桂子は、眠りながらも、時折うわごとのように何かを呟いていました。
もう一人の寮生は、壁際で背を向けたまま、まるでそこにいないようでした。
窓の外は小雨。しとしと、と言うにはどこか濡れすぎた音。

わたくしは、布団をかぶって目を閉じました。
それでも、耳は、開いてしまうのです。

その時、確かに聞こえたのです――
誰かが、泣いていました。

遠くではありません。
この部屋の、すぐ隣の間。あるいは廊下を挟んだ向こう。

低く、細く、くぐもった声で、
「しの……しの……」と。

わたくしは、布団の中で指を噛みました。
これは、夢ではありません。
志乃さんの名を呼ぶ声。
もしかすると、志乃さん自身が――

でも、そう思った瞬間、胸がひどく締めつけられました。

もし、あの声が志乃さんなら。
ならば、なぜ、わたくしを呼んでくださらないのですか。



翌朝、わたくしは目を腫らしておりました。
鏡に映るわたくしの顔は、子どものように泣き腫らし、赤い目をしておりました。

桂子はそれを見て、笑いました。

「……あんた、何を見たの?」

わたくしは答えられませんでした。
桂子は、目を細めて、囁くように言いました。

「志乃のこと、あんた、どこまで知ってるの?」

わたくしは、首を横に振りました。
けれど、そのとき、はっきりと気づいたのです。

――この寄宿舎の誰もが、
志乃さんの「不在」を、
まるで「最初からなかったこと」にしようとしている。



わたくしは知りたくなりました。
人が消える、ということについて。
誰かが誰かを忘れる、ということについて。
志乃さんの残した紙片が、夜ごとにわたくしの胸を刺します。
あの夜、何が起きたのか。
わたくしは、もう、戻れないところまで来てしまったようです。
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